蓬莱院交差点の怪

第1話

 火鳥は目を閉じて、カップに注いだ挽き立てのコーヒーの香りを嗅覚で存分に楽しむ。小遣い稼ぎのブログ記事の納品が午前中に終わり、午後は暇を持て余している。公民館の掲示板にでも“ペット探します”のチラシを貼りに行こうと思っているが、つい億劫になっている。

 普段は閑古鳥が鳴く探偵事務所だが、忙しいときは人捜しに浮気調査、身上調査が重なることもある。しかし、それも何ヶ月前のことだろうか。


 火鳥は応接セットのソファに体を預け、コーヒーカップに口をつけた。耳を澄ませば、非常階段を上がってくる足音が近づいてくる。この歩調は智也だ。

 扉をノックする音がして、木島智也が顔を覗かせた。智也は火鳥の従弟で、民俗学を専攻する大学生だ。

「遙兄、今ちょっといいかな」

 智也は浮かない顔をしている。何か相談事がある、と火鳥は直感した。智也にソファに座るよう声をかけ、もう一杯コーヒーを用意する。


「俺の大学の同期なんだけど」

 そう言って智也は話し始めた。ロードバイクで通学中、赤信号を無視して交差点に進入してきた乗用車にはねられたという。乗用車の運転手はごく普通のサラリーマンで、居眠り中や飲酒運転という訳でもなく、通い慣れた通勤路の途上だった。ブレーキ痕は見当たらず、目撃者の証言ではロードバイクを狙うように車が突っ込んだという話だ。


「サラリーマンの主張は」

 火鳥は縁なし眼鏡をクイと持ち上げる。

「信号は青だった、ロードバイクは居なかったのに、突然現われたって言い張っているらしい」

「事故の責任逃れにしては、無邪気な主張だな」

 腕組をした火鳥は首を傾げる。

「腹立つよ、友達、谷本って言うんだけど。谷本は運転手が自分に向かってアクセルを踏んだって、メチャクチャ怖かったって震えてた」

 智也は友人の不幸に目を細めて唇を噛む。


「でも、おかしなことが他にあって」

 乗用車にはねられた谷本は奇跡的に空き地に投げ飛ばされ、両足骨折を負ったものの、命に別状は無いという。しかし、入院先の病院でおかしな行動を取るようになった。

「それは、頭部外傷が原因じゃないか」

 事故などで頭を打った際に脳に損傷が残り、人格が豹変することがある。火鳥はその可能性について言及したが、智也は首を横に振る。

「頭のMRI検査の結果は異常無しなんだよ」


 谷本は入院先の病院を車椅子に乗ったまま何度も抜け出そうとして、連れ戻されているという。病院の玄関を出ようとして、病棟から追ってきた看護師に慌てて止められ、これ以上脱走しようとするなら転院ですよ、と釘を刺されたそうだ。


「その行き先が事故にあった蓬莱院交差点なんだって」

 智也が谷本の奇異な行動を思い出して不安な表情を浮かべている。

 智也が病院に見舞いに行ったときも、谷本は病棟のエレベーターを車椅子で一人で降りてきたところだった。熱に浮かされたように車椅子を操作し、玄関に向かうところを守衛に止められていた。あまりに何度もそのような行動を起こすので、病院側が対策していたらしい。


「熱に浮かされたように、あの交差点に行かないと、って繰り返してた」

 火鳥は低く唸る。

「その交差点に何か未練があるのか。例えば、事故の証拠とか」

「車の運転手が100%悪いっていうことで決着はついているんだ。証拠を集めるまでもなくね」

 最近はドライブレコーダーの搭載が進んでおり、協力者が得られたことと、朝の通勤、通学時間で目撃者が多かったことで証拠集めの必要は無さそうだった。


「俺も不思議に思って、病室に連れ戻された谷本が落ち着いた後にどうして交差点に行きたいのか訊ねたんだよ。でも、あいつもその理由が分からないんだって。何かに取り憑かれてるみたいだ」

 火鳥は書棚を探して町の地図をテーブルに広げた。智也に事故のあった交差点の場所を訊ねる。

「この交差点だよ」

 智也が指さしたのは、蓬莱院と名前のついた四辻の交差点だ。それなりに交通量が多く、信号と横断歩道がある。


「お前の友達も気になるけど、一度交差点を見にいこうか」

 ちょうど暇だし、とは言わなかった。智也は安心した様子で、笑顔を見せる。その前に、と火鳥が冷蔵庫からカステラを出してきた。商店街の老舗和菓子店の品で、30年来変わらない味というのが売りだ。

「これ、好物なんだよね」

 智也は嬉しそうに一切れつまみ上げて口に放り込んだ。


 火鳥と智也は事務所を出て、蓬莱院交差点にやってきた。四辻の一角は空き地、他は店舗の駐車場、芝生の上に置かれたモニュメントといった景観で、見通しが悪い印象はない。

「蓬莱院という寺でもあるのか」

 火鳥が信号についた標識を見上げる。周囲には寺らしき建物は見当たらない。

「もともとそんな名前の寺があったそうだけど、大正時代には無くなっていたらしいよ」

 民俗学を専攻する智也はフィールドワークが趣味だ。町のあちこちで歴史を調べており、よく知っていた。


 不意に、交差点にけたたましいクラクションが鳴り響く。すぐに大きな衝撃音。振り返ってみれば、乗用車同士の事故だ。白いバンと、黒のBMWが違いの鼻っ面をぶつけている。

「どこ見てんだコラァ」

 BMWのドアが開き、黒いスーツに赤の柄シャツの長身の男が怒鳴りながら姿を現わした。白のバンからは真面目そうな作業着の男が申し訳なさそうに降りてきた。

「あれ、水瀬じゃないか」

 火鳥が眉根を寄せる。


 続いて、横断歩道を渡っている途中の女の子が大声で泣き始めた。側にいる母親は恐怖で唖然としていたが、我が子を胸に抱きしめる。

「てめえ、ガキが横断歩道渡ってるのが見えてなかったのか」

 水瀬が巻き舌で怒鳴る。作業着の男は真っ青な顔で水瀬と母子を見比べ、頭を抱えた。ひどく動揺している。

「目ン玉ついてんのか、テメエ」

 その態度にさらに苛立った水瀬が作業着の襟を掴み上げる。作業着の男は口をパクパクさせて、何も言えない。


「その辺にしておけ、一般人への恫喝で恐喝罪だぞ」

 火鳥が水瀬の腕を掴む。突然現われたいけ好かない男に、水瀬は顔を歪める。しかし、それで冷静さを取り戻したようだ。智也は目の前で起きためまぐるしい出来事に気が動転している。

「チッ、仕方ねえな。おう、ちょっとポリさん呼んでくれよ兄ちゃん。俺は苦手なんだよ」

 作業着の男はハッとした表情で、慌ててポケットからスマートフォンを取り出した。交差点には事故車を避けて渋滞ができはじめていた。

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