第2話
翌日、神原組の事務所に若頭の八木がやってきた。自慢のベンツを事務所前に停める。入り口で待ち構えている若衆の大原が深々と頭を下げる。
「傷つけんなよ」
八木はベンツのキーを投げ、事務所への階段を上がっていく。兄貴分の車を1階駐車場に移動させるのは若衆の役目だ。
「おっと、俺がやるわ」
ひょっこりと水瀬が顔を出す。
「え、いいんですか兄貴」
大原は恐縮しながらベンツのキーを水瀬に手渡した。車庫入れに失敗したら弁償もさることながら、半殺しになりかねない。できればやりたくない仕事の一つだ。
水瀬の背後に見慣れない男が立っている。縁なし眼鏡の奥の切れ上がったまなじりにはふてぶてしさがにじみ出ている。同業者では無さそうだ。大原は怪訝な顔で火鳥を眺める。
「おい、お前のところの若いのがガンつけてくるんだが、一般人を脅すとは教育がなってないぞ」
火鳥が縁なし眼鏡をくいと持ち上げ、目を細めて大原を一瞥する。
「大原、もういいぞ。事務所戻ってろ」
水瀬が大原に手を振る。大原は何か言いたげだったが、水瀬に頭を下げて階段を上っていった。
「お前な、ヤクザにケンカ売るなよ」
水瀬が呆れている。兄貴分に当たる水瀬の前なら、大原が大口を叩けないことを見越しているわけではない。この男はいつでもこの調子だ。
「俺はヤクザが嫌いなんだよ」
俺もお前が嫌いだよ、と思いながら水瀬は小さく溜息をついた。
火鳥が八木のベンツの周囲を調べ始める。周囲をぐるりと見回し、次にボンネットを開けた。エンジンルームをじっと見つめている。
「車の査定屋みたいだな」
水瀬がその様子を見て感心している。
「中古車を売っている友人がいてな、確認ポイントを聞いたことがあるんだよ」
火鳥は見るべきものが確認できたのか、ボンネットを閉めた。次にトランクを開けてみる。中は修理道具が入っている他、空っぽだ。
「事故車はボンネットやトランクのボルトが交換されていることがある。色が違えば修理歴がある可能性が高い。この車にはそれらしい点は見つからなかった」
火鳥は運転席のドアを開け、計器類をチェックし始めた。
「この辺りも、事故車なら部分的に交換されていることがある。特にそんなこともなさそうだな」
火鳥は腕組をして考え込んでいる。
「じゃあ、事故車ってわけじゃないのか」
車軸が歪んでいたり、見えない部分に錆びが出ていたり、他にも確認する箇所が無くはない。しかし、このベンツは一昨年の秋発売のモデルだ。経年からすれば考えにくかった。
となると、価格が安い理由がつかない。
「いや、シートがやけに新しい」
火鳥が運転席の革張りのシートに目をつけた。後部座席と比べて、運転席の方が人が座る頻度は高いとはいえ、革がやけに新しいという。
「そう言えばそうだな」
水瀬は以前、新車でBMWを買おうとディーラーに見学に行ったことがある。欲しかったモデルは到底手が出ない価格だった。今は5年落ちの中古車に乗っている。現行モデルよりもデザインは気に入っている。これは負け惜しみではない。
このベンツのシートの革が新車の様に新しい。まだ革の匂いが鼻を突くほどだ。
「これはなんだ」
火鳥が座席の下に光るものを見つけた。それはごく小さなガラスの破片だった。何か気になったらしく、拾い上げて小さなビニール袋にしまった。
「確認はもういい。俺は事務所で調べ物をして、午後から友人の中古車店に行こうと思う。迎えに来てくれないか」
「人使いの荒い奴だ。ヤクザを顎で使うなんて、お前は本当に度胸があるよ」
水瀬は肩を竦めた。火鳥の事務所に行くなら昼飯は1階の中華料理店“揚子江”にしようと思った。
昼時の“揚子江”はサラリーマンでごった返している。850円でお得な日替わりランチセットが人気だが、定番のもやしラーメンセットや麻婆丼定食などもファンが多い。
水瀬は向かいの通りのコインパーキングに車を停め、油の染みこんだ赤色ののれんをくぐる。
もはや常連の水瀬は、顔を見るなり店長に笑顔を向けられる。一度は地上げで脅しをかけたにも関わらず、店長の陳さんは水瀬を毛嫌いする様子はない。混み合う店内で二人掛けの席に案内された。
今日の日替わりは海老のチリソースだ。大ぶりの海老が5匹、それにサラダとスープ、小皿にはシュウマイが2こついていた。コスパがいい。
「こんにちは、火鳥さん。水瀬さんのところが空いてるよ」
火鳥もこの店の常連だ。陳さんは二人が知り合いなのを良いことに勝手に相席を勧めた。
「まったく、断り無しかよ」
水瀬は文句を言っているが、本気で怒っているわけではない。
「俺だって、あっちのOLと相席の方が嬉しい」
火鳥は真顔だ。駅前に近いオフィス街のOLも美味しい中華を食べたいとなれば、わざわざここまで足を運んでくるのだ。
「何か分かったか」
水瀬は食後の烏龍茶を啜りながら火鳥に訊ねる。火鳥は大きなエビチリを口にぱくりと放り込む。火鳥は細身の部類に入るのだろうが、意外によく食べる。
「2ヶ月前に起きた事件が引っかかる。しかし、まだ確証はない。この後行く中古車店で確認をしようと思う」
すこぶる気に入らない男だが、一応探偵としては有能なのだろう。ランチタイムは店内禁煙のため、タバコを吸えない水瀬はジッポを弄んでいる。
「お前、ベンツを運転して何か感じなかったか」
火鳥の思わせぶりな言葉に水瀬の動きが止まる。額から嫌な汗が流れるのを感じた。
「運転って言っても、車庫入れしただけだぜ」
「何も感じなかった。俺もそうだ。だが、何かいた気配があった」
火鳥には多少の霊感がある。水瀬は背中によく連れているらしいが本人は鈍感そのものだ。なぜか二人が揃うと、波長が合うのか見えてはいけないものが見える。
「やめろよ、おっかねえな」
水瀬は情けない顔で頭を抱える。ベンツの運転席にも座ったし、ハンドルも握った。呪われた車だと後から聞きたくない。
「お前のところの尿路結石の」
「八木だよ」
組の若頭を病名で覚えるな、と水瀬はツッコミを入れたくなった。
「その八木が人が変わったようだったと言っていたな」
火鳥の言葉に思い当たる節のある水瀬は目を見開いた。
「ま、まさかその何かが八木のおっさんに取り憑いたのか。それは一体何なんだよ」
怯える水瀬の前で、火鳥は悠々とデザートの杏仁豆腐を食べている。
“揚子江”を出て、水瀬のBMWで火鳥の友人の中古車店へ向かう。
「同じ中古でも俺の車の方が高いんだぜ」
何の自慢だ、と思ったが絡まれたら面倒なので火鳥は黙っておいた。
「極道の世界では、目上の人間の面子を大事にするから、兄貴分より高い車には乗らねえことになってんだよ。45万より安い車なんて、軽トラかよ。今時中古の軽四の方が高いぜ」
ハンドルを握る水瀬は饒舌だ。車が好きなのだろう。このBMWにもいかついホイールを履かせている。
高架沿いの狭い敷地に中古車店はあった。「オートセンター ガイア」と看板が出ている。店頭のラインナップからすると、ヤンキーが好みそうな古い年式の国産高級車や外車がメインのようだ。
「おお火鳥、久しぶりだな」
てっぺんだけ金髪のツーブロックのいかつい男が出てきた。ランニングシャツに迷彩パンツという出で立ちだ。展示車を洗車していたらしい。首にかけたタオルでしきりに汗を拭っている。
「急に押しかけて悪いな、
火鳥が手を振る。
「何言ってんだよ、会えて嬉しいよ。まあ、入ってくれ」
銀屋と呼ばれた男は二人を事務所に案内する。コンテナを改造して作った狭い事務所で、中はクーラーがガンガンに効いていた。
「ここは夏はクソ暑いし、冬は馬鹿みたいに寒いんだよ」
わはは、と銀屋は豪快に笑う。小さな冷蔵庫からアイスコーヒーの缶を取り出し、テーブルに置いた。
「相変わらずいかついのとつるんでるんだな、お前」
銀屋が水瀬を見て笑う。
「水瀬です、どうも」
合皮のソファに大股開きで座る水瀬が形だけの挨拶をする。銀屋は扱っている車種からして、柄の悪い客にも慣れているようだった。
「俺のクライアントだよ」
火鳥はそう言いながら、ポケットからベンツの座席の下で見つけたガラス片をテーブルに置いた。
「これか」
銀屋はガラス片を手に取って凝視している。
「車の窓ガラスだな、間違いない」
銀屋は頷く。職業柄、事故車もよく見ているので信頼度は高い。
「やはりそうか」
火鳥はそれを予想していたらしい。
「あのベンツのフロントガラスが割れたっていうのか」
水瀬は驚く。事故車ではないと言っていたが。
「そう、事故車じゃない。それはあの車を販売した業者から査定表を取り寄せて確認を取ってもらった」
銀屋のネット中古車販売のルートで、査定表を確認できたという。火鳥は午前中そこまで手回ししていたのだ。
「事故でもないのに、ガラスが飛び散ったってことは」
「・・・銃撃を受けた」
火鳥の言葉に水瀬が続ける。
「以前はよくあったんだよな。坂本組系の枝同士の抗争で、組長の車をバイクなんかで銃撃する手口」
水瀬の所属する神原組は小さな組でシノギも意外に堅実だ。組長もそういうトラブルを敢えて好まない。
持ち前の気性のせいで個人的に恨みを買うことはあるが、組同士の大きな抗争とは無縁の世界だった。しかし、こういう話があるのは知っていた。
「シートに飛び散った血を隠すために革を新調する」
火鳥がある意味“事故車”だな、と皮肉めいた笑みを浮かべる。八木のベンツのシートの革が妙に新しい理由がつく。
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