第2話

 午前11時。火鳥遙は事務所のある雑居ビル3階へ、さび付いた階段を上る。2階には胡散臭い女占い師の店がある。店にはクローズの看板が掛かっており、彼女もまだ出勤していないようだ。

 事務所の鍵を開け、肩掛けバッグをソファに放り投げた。西側の窓を開けて、空気の入れ換えをする。


 ティファールのポットで湯を沸かし、コーヒーの準備をする。仕事に取りかかろうとしたそのとき、執務机の電話が鳴った。事務所には一応固定電話の回線を引いてある。会社の体裁に必要だからだ。しかし、ここにかかってくる電話の大半は無用なセールスだ。


 火鳥はもったいぶって受話器を取る。

「おい、いるのかよ。早く出ろよ」

 突然の荒々しい声。

「何だお前か、切るぞ」

 火鳥は大あくびをしながら受話器を耳から離した。昨日は動画サイトで映画を3本立て続けに観てしまった。B級ホラーのシリーズものだったが、妙に謎かけをしてくるのでラストが気になり、つい完走してしまったのだ。オチが酷かったことしか覚えていない。


「何で突然切ろうとするんだよ、お前に用があるんだって」

 電話の向こうで水瀬が叫ぶ。

「用があるなら事務所に来ればいいだろう」

 火鳥は不満げに返事をする。

「もう下まで来てるんだよ、ちょっと降りてこいや」

 半ギレになった水瀬のドスの利いた声に、火鳥は無言で受話器を置いた。ちょうど良いタイミングで湯が沸いた。火鳥はお気に入りのコーヒーをドリップする。芳醇な香りが事務所に漂い始めた。


 ガンガンと外の階段を大股で上ってくる足音が聞こえる。そして、事務所のドアが荒々しく開き、息を切らした水瀬がそこに立っていた。

「お前、いきなり電話切るなよ」

 水瀬は顔を真っ赤にして怒っている。

「意味のわからんことを言うからだ。俺はこれから仕事だ」

 火鳥は平然として、淹れたてのコーヒーを啜っている。仕事とは言うが、事務所のパソコンで小遣い稼ぎにやっている販促用のブログ記事を書くことだった。


「そういえば、昨日は真里が世話になったそうだな」

 従妹の木島真里から火鳥にLINEが入っていた。水瀬に危ないところを助けられ、家まで送ってもらったらしい。

「おう、その話の続きだ」

 顔貸せや、と水瀬は階段を降りていく。面倒だな、と呟いて火鳥はマグカップを置き、仕方なく水瀬の後を追った。


 雑居ビルの2件隣のコインパーキングの前で水瀬は足を止める。

「こいつを見てくれ」

 水瀬は黒いBMWを親指で示す。見れば、フロントガラスの左上に白い手形がついている。手形は指が下に向いていた。

「昨日の夜、真里を送る途中に入ったトンネルで白い影を見たんだよ。それがこっちに向かってきて消えた。で、この手形が残ってたんだ」

 この男はケンカは負け無しだが、怪奇現象には滅法弱く、極度のビビりなのだ。


「これな、今朝舎弟に洗車させたんだけどよ、全然落ちねえの」

 水瀬は情けない顔を向ける。火鳥はフロントガラスをじっと見つめている。

 その様子を見て、背後で立ち止まる者がいた。オリエンタルなお香の匂いが鼻を掠める。紫色のストールを纏った女がじっとこちらを見ていた。

「金村琴乃か」

 琴乃はビル2階の占い店を経営している女だ。水瀬は以前、琴乃から占いを名目に2万円をむしり取られている。


 琴乃がゆっくりとBMWに近づいていく。そして水瀬の方を振り向いた。水瀬は思わず肩を竦める。この女の出すオカルティックな雰囲気がどうも苦手だった。

「この車から強い怨念を感じる」

 水瀬は顔を歪めた。中古でやっと手に入れた憧れのBMWだ。まだローンも4年半残っている。怨念だの呪いだの、勘弁して欲しい。

「どういう意味だ」

 火鳥が口を挟んだ。

「女が見えるわ。髪の長い女。強い恨みを抱いている。何か訴えようとその手形を残した。これは除霊をしなければ消すことはできない」


「ど、どうすればいい」

 水瀬は琴乃にすがりつく。

「では、除霊のお布施として3万円を」

 琴乃はすっと手の平を出す。水瀬は慌ててスーツのポケットから財布を取り出した。ヤクザは見栄だ。普段、財布には必ず10万は入れてある。

「水瀬、俺なら1万円でいいぞ」

「は?」

 火鳥の言葉に水瀬は口をポカンと開ける。

「お前もできるのかよ、除霊」

「この手形は消すことができるぞ、キーをくれ」


 水瀬は火鳥にキーを投げた。火鳥はBMWの鍵を開け、運転席に乗り込んだ。そして、フロントガラスの手形の辺りに息を吹きかける。それをハンカチで拭き取れば手形は消え、ガラスはすっかり綺麗になった。

「な・・・!嘘だろ・・・まさか内側についていたとは」

 水瀬が脱力する。舎弟に何度も水洗いさせて窓を拭かせたのに、落ちなかった。完全に盲点だ。


「1万円、と言いたいところだが真里を助けた礼にチャラにしてやるよ」

 火鳥は息を吹きかけて同じハンカチで眼鏡を拭き始めた。

「しかし、腹が減ったな」

「仕方ねえな、飯くらいおごるぜ」

 水瀬と火鳥はビル1階の中華料理店“揚子江”に入った。熱気と、中華油の香ばしい香りが漂ってくる。早めのランチに来たサラリーマンで席は8割ほど埋っていた。昼時になると待ち行列ができる人気店だ。

「3名様ね、こちらへどうぞ」

 店長の陳さんが奥のテーブルを指さす。3人、と言われて振り向けば、琴乃が立っていた。


「定食3つ」

 水瀬がバイトの女の子に注文を叫ぶ。

「でも、良くないわね。女性の残留思念を感じたのは本当なのよ」

 琴乃はテーブルの上で肘をつき、組んだ手に顎を乗せる。細い指にはラメの入ったブルーのマニキュアが綺麗に塗られている。

「怨念って言ったよな、お前」

「あら、そうだったっけ」

 強面の水瀬に琴乃は臆する様子は無く、あっけらかんとしている。


「不知火トンネルは有名な怪談スポットだな、鬼火が出るという」

 火鳥の言葉に水瀬は凍り付いた。真里が出た、と言ったのはこの噂を知っていたからだ。

「鬼火が執念で手形を残した・・・きっと何か伝えたかったのよ」

 今日の定食が運ばれてきた。麻婆豆腐に卵スープ、シュウマイ2個に白ご飯、杏仁豆腐がついている。陳さんは四川省の出身で、麻婆豆腐は山椒が効いた本格派だ。


「ここのランチはいつも豪勢だな」

 水瀬はウキウキと割り箸を割る。このビルの地上げをしなくて本当に良かったと思う。これで850円はリーズナブルだ。スパイスの効いた麻婆豆腐はご飯が進む。

「ご飯おかわり、大盛りで」

 琴乃が空の茶碗を差し出した。ランチはかなりのボリュームがあるが、細身の割によく食べる女だ。


「困ったらいつでも声をかけて、車に貼れる魔除けの御札も扱ってるから」

 また1枚3万円だのとふっかけてくるに違いない。したたかな女だ。

 琴乃と2階で別れ、3階の事務所に戻る。コーヒーを飲みたい水瀬も一緒についてきた。火鳥は新しいフィルターを取り出し、お湯を沸かし始める。思い立って執務机のファイルをめくり始めた。


 3日前、帰宅途中に失踪した女子高生を探して欲しいと彼女の両親から依頼を受けていた。失踪から1年が立ち、警察の捜査も打ち切りになるということで藁にも縋る思いで個人探偵に依頼をしてきたのだ。


 コーヒーカップを2つテーブルに置き、火鳥はソファに腰掛けた。水瀬はふんぞり返って足を組み、コーヒーを美味そうに飲んでいる。

「高校と彼女の自宅を結ぶのは不知火トンネルか」

 火鳥の目が光る。

「水瀬、もう一度あのトンネルへ行こう」

 火鳥の言葉に、水瀬は盛大にコーヒーを吹いた。

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