第2話

―約1時間前


 6才になる大樹は病院が嫌いだった。いつも妹の茜音が入院する病院。茜音ちゃんは生まれつき心臓に大きな病気があるんだよ、と両親から聞いていた。だから茜音ちゃんに優しくしてね、と。両親の関心は体の弱い茜音に注がれる。大樹はひとりぼっちだった。

 今日も両親と病院にやってきた。茜音のことで大事な話があると、両親は看護師と共に病室を出て行った。


「大樹は茜音ちゃんと一緒に待っていてね」

母親からそう言われて、大樹は病室でずっと待っていた。茜音は眠っていて起きる様子はない。大樹は病室をそっと抜け出した。看護師の目を盗んでいつも使うエレベーターに乗り込み、1階に降りた。全面ガラス張りの窓の向こうに中庭が見える。外では元気な子供たちが走り回っている。


大樹はつられるように自動ドアを抜けて中庭へ出た。病院は嫌いだったが、この中庭は好きだった。茜音の調子が良いときは、この中庭で家族揃っておしゃべりしながらジュースを飲んだこともある。

レンガで作られた小道を歩いて行く。レンガを一つ飛ばしに踏んでいけば、楽しくなってきた。大樹は夢中で飛び跳ねる。そのままウッドデッキの横を通り抜け、花壇を突っ切って、気がつけば古い建物の前に立っていた。


 黒ずんだ木造の建物を見上げ、大樹は怖くなった。そうだ、病室にもどらなきゃ怒られちゃう。大樹は慌ててもと来た道を引き返そうとした。ふと、呼ばれた気がして振り向けば、建物の1階の一番端の窓に白衣の男が立っていた。

お医者さんだ。おいで、と手招きをしている。優しそうな初老の男性医師だった。大樹は建物の入り口に近づいていく。蝶番を軋ませながらドアは開いた。


「こっちだよ」

 声が聞こえた。長い廊下の先に部屋があった。その部屋から医師が手招きをしている。大樹はおそるおそる軋む廊下を歩いて行く。

「名前は?」

 男性医師は柔らかく微笑む。

「山上大樹です」

「君は賢いね、今日は妹のお見舞いだね」

「どうして知ってるの?」

「私は医者だよ、何でも知っているさ。妹を助けたい?私ならそれができる」

 医師の顔を見上げ、大樹はうん、と頷いた。


―現在

「おお、雰囲気ある」

 旧病棟に足を踏み入れた智也は興奮しながら周囲を見回している。埃っぽい、すえた木の匂いが漂っている。板張りの廊下はミシミシと音を立て、家鳴りで古いガラス戸がピシッと鳴る。その度にビクつく水瀬に真里は呆れている。

「おっかねえ、早く出ようぜ。こんなところに6才のガキがいるのかよ」

 水瀬はかつて薬局だった部屋の中を覗き込む。棚には埃まみれのガラス瓶が並び、床には書類や瓶の破片が散乱している。緑色のペイントが剥がれ落ち、灰色の壁面が露出していた。


「これを見ろ、足跡がある」

 夕陽が射し込む廊下に、薄く積もった埃の上を歩いた小さな靴跡があった。火鳥はここに大樹がいると確信している。

「大樹くん」

 真里が大声で名前を呼ぶ。

「大樹くーん」

「こら大樹、早く出てこい」

 智也と水瀬も声を張り上げるが、返事はない。靴跡は突き当たりの部屋へ続いている。引き返した様子はない。


 観音開きの重厚な扉を開くと、オーク材の立派な机が目についた。窓際には革張りの応接セット、正面の壁は天井に届くほどの書棚になっている。半壊したシャンデリアが頭上で揺れていた。

「豪華な部屋だね、きっと院長室だ」

 智也が書棚を覗き込む。古い医学書がぎっしりと並んでいた。

「すげえ嫌な感じだ」

 水瀬が肩を竦める。火鳥もそれを感じ取っていた。ここには悪意のある何かが潜んでいる。火鳥には昔から第六感が人より優れていた。水瀬が近くにいると、何故かそれが研ぎ澄まされるらしい。普段は鈍感な水瀬も火鳥が傍にいると、呼応するように見たくないものが見えてしまう。何故か波長が合うようだ。


 院長室で手がかりを見つけることはできなかった。このままだと日が暮れてしまう。足早に2階を探しに行くことにした。

 2階は病室が並んでいる。大樹の名前を呼ぶが、返事はない。割れたガラスの向こうに見える部屋には骨組みだけのベッドが乱雑に放置されていた。

「俺はもう無理だ・・・おっかねえ、勘弁してくれ」

 水瀬は今にも泣き出しそうな顔で唇を噛んでいる。

「まだ何も出てないだろ」

 火鳥の言葉は全くフォローになっていない。水瀬は白目を剥いた。


「手術室だ、これはすごい」

 オペ用の寝台や天井に据え付けの手術灯がそのまま残されており、智也のテンションが急上昇した。床には手術器具が散乱している。壁のタイルは剥がれ落ち、天井から漏れた水が錆びて赤茶色の染みを作っていた。

「身近にこんな見事な廃墟があるなんて、驚きだよ」

 智也は嬉しそうにスマホで写真を撮っている。

「兄貴、はしゃぎすぎだよ」

 真里はそう言いながらも無邪気に喜ぶ兄の姿に少し恐怖が和らいで、内心ホッとしていた。


「2階にもいないか」

 一回りして1階の玄関前に戻ってきた。火鳥は腕組をしながら考えている。

「院長室が怪しいな」

 火鳥は顔を上げた。まっすぐ院長室へ歩いて行く。外は日が暮れて、薄暗い廊下は一層不気味さを増している。

「おい、なんで院長室なんだよ」

「院長室の窓だ。二階にあった医師室の窓の位置とは外から見れば垂直だった。しかし、院長室の方が窓から先の奥行きが浅かった気がする」

 火鳥の目が光る。水瀬はその真剣な表情を見て、それ以上文句を言うのをやめた。

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