第3話
その部屋は画家のアトリエだった。イーゼルが部屋の中央に置かれている。壁に立てかけられたキャンバスには白い布がかぶせてあった。壁の一面は書棚になっており、その前にはアンティーク調の机が置かれていた。
火鳥がキャンバスを覆う布を剥ぎ取った。埃が舞い、水瀬は思わず鼻と口をひじで覆う。
「うわ、こりゃあ・・・」
水瀬が絶句する。さすがに肝の据わった火鳥も眉を顰めた。
巨大なキャンバスは真っ赤に塗られていた。色が朽ちて、ドス黒い赤色に変色し、不気味な色味を帯びている。他のキャンバスも異なる色合いで赤色に塗り込められていた。
「血への執着か」
火鳥はその場にしゃがみ込んでキャンバスを眺める。このドス黒い赤は本当に“絵の具だけ”なのだろうか。
書棚には古い本がぎっしり詰まっている。海外の文学作品から医学書、呪術の本までジャンルは多彩だ。懐中電灯を書棚に当てていく。一番端の下段に擦り切れた背表紙の中にタイトルのない本を見つけた。ガラス戸を開け、それを取り出す。
「これだけタイトルがない」
中身を捲れば、びっしりと神経質な文字で記録が綴られている。
「日記か」
水瀬が覗き込む。難しい漢字がいっぱいですぐに読む気を無くした。火鳥は電灯の明かりで日記を読み進める。
「5歳の娘が急性リンパ性白血病、つまり血液系のガンに侵されたようだ。それから過酷な闘病の記録、医療への不信感が募り、怪しげな魔術に傾倒していった」
火鳥はさらに読み進める。血が原因なら血で清められる。その考えに至った画家の夫婦は新鮮な血を集め始めた。この辺りから狂い始めたのかもしれない。
「若い娘を掠い、血を奪ったと書いてある」
この発想を得たのがエリザベート・バートリだ。彼女は若さを保つために生命の源である血を溜めた風呂に身体を浸けた。
「しかし、そんな魔術が功を奏するはずもなく、娘は死んだ。画家夫妻は意気消沈し、この屋敷を捨てて海外へ移住した。行方はわからないようだ」
火鳥は日記を閉じた。
「子供は可哀想だが、迷惑極まりない話だな」
水瀬は肩を竦める。
階下でバタン、と物音がした。水瀬は怯えて目を見開く。静かに扉を開けて廊下に出てみた。吹き抜けの一階部分を見下ろすと、玄関から誰か入って来たようだ。
「あれは、真里」
火鳥は驚いて身を乗り出す。制服姿の真里がゆっくりと階段を上ってくる。その目は虚ろで、何も見ていないようだ。
「なんで真里ちゃんが」
「わからない、だが何かおかしい」
真里は踊り場のバートリ伯爵夫人の肖像画の前で足を止めた。夫人の目がぼんやりと赤く光る。真里はその目を見つめて微動だにしない。
「うおっ」
水瀬が情けない声を出す。肖像画からバートリ夫人がゆらりと抜け出した。煌びやかなドレスに身を包み、蝋のような白い肌、血のように赤い肉感的な唇。美しいというよりも畏怖を感じさせた。そして真里の前に立つ。
夫人は真里の頬や首筋を白い指でなぞる。獲物に満足したのか目を細め、赤い唇を吊り上げて笑う。そのおぞましい笑顔に思わず背筋に冷たいものが走る。
「真里!」
火鳥が階段を駆け下りる。真里の肩を揺さぶるが、反応がない。夫人は実態がなく、ぼんやり透けて宙に浮いている。この絵に込められた歪んだ祈りが悪意として具現化しているのか。
真里の首筋に夫人の赤い唇が迫る。
「本当にハンガリーの貴族の女がこんなところにいるのかよ」
水瀬がアトリエから持ち出したイーゼルをたたき壊し、木材に変えて振りかぶる。夫人の幻影に向けて振り抜くがすり抜けるだけだ。
火鳥は水瀬の言葉にはたと気がついた。足元に落ちていた真里のバッグを漁り、何かを探している。手にしたのは鏡だった。
「そうだ、お前がエリザベート・バートリのはずはない」
鏡を幻影に向けた。鏡の中には渦巻く黒い瘴気が映されている。真実の姿を見せられ、夫人の幻影が淀む。
「水瀬、この肖像画は油彩だ」
火鳥が叫ぶ。水瀬はポケットからライターを取り出し、額縁に火を点けた。たちまち表面が燃え上がる。
発狂するような甲高い叫び声が響き、夫人の幻影は悶え苦しみながら霞のように消えた。真里はその場に力無く崩れ落ちる。火鳥は真里の身体を支えた。
火は燃え広がることなく、肖像画のみを燃やして消えた。残ったのは真っ黒に焼けたキャンバスだ。
「エリザベート・バートリはその恐ろしい犯罪が明るみに出て逮捕され、居城に幽閉された。窓も無く、ただ食事を差し入れるだけの小さな穴のみ。その暗闇の中で朽ち果てたという」
火鳥が肖像画を見上げて呟く。真っ黒に塗りつぶされたキャンバスはバートリ夫人が見た最後の光景かもしれない。
***
数日後、真里が火鳥探偵社のドアを叩いた。すっかり元気になって商店街の洋菓子店”スイートショパン”で買った手土産を持ち上げて見せた。
「遙兄、ありがとね。これお礼」
箱の中身はふわふわのワッフルだ。
「あのヤクザにも、一応ね」
怖がりの水瀬も一緒に館に乗り込んだと聞いて、真里は心底驚いていた。
「あの日、お見舞いに行ったあと、記憶が定かじゃなくて。気が付いたら家で寝てたでしょ」
真里は友人を病院に見舞い、それからの記憶が無いという。話を聞けば、貧血で倒れた女性たちは顔見知りで繋がっていた。呪いの連鎖だったのかもしれない。
「もう大丈夫だろう、たぶんね」
館にいたものは、画家の妄執が呼び寄せてしまった悪霊だったのだろう。
事務所のドアがノックもなしに開いた。
「よう、真里ちゃん!元気になって良かったな」
軽く手を振って水瀬が真里の横にどかっと座る。真里は迷惑そうに少し幅を空けて座り直した。
「お、ワッフルか。いいね」
そう言って水瀬は箱からひょいと一つ取り上げてかぶりついた。
「あのね、相談があるんだよ。学校の近くで・・・」
神妙な表情の真里の言葉に、水瀬はワッフルを気管に入れて咽せた。
「やめろよ、これお礼じゃないのかよ」
水瀬は情けない声をあげた。火鳥の入れるコーヒーの香りが事務所に満ちていった。
夕暮れに空が茜色に染まる。
火鳥は洋館の伯爵夫人の肖像画の概要をレポートにまとめ、画家の日誌とともにKファイルに綴じ込んだ。
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