第2話

「おい、帰ろうぜ」

 すでに館の外に出てタバコを吹かしている水瀬がうんざりした様子で声をかける。日が暮れて何も見えなくなる。水瀬の言葉に従うのが得策だろう。


「お前、ほんと怖がりだよな」

「うるせえ、得体の知れないモンは誰だって怖いだろ」

 坂道を下りながら肩を並べて歩く。水瀬は強面のヤクザだが、優男の火鳥は全く物怖じしない。

「生きてる人間の方がよほど怖いと思うけどな」

 火鳥の言葉に水瀬は肩を竦めた。

「まあ、違いねえ」


 駅前で水瀬と別れた。場末のスナックの雇われ用心棒の仕事があるらしい。昔は荒くれものが多く、毎晩乱闘していたが最近の客は大人しいからつまらないと言っていた。

 火鳥は事務所に帰り、パソコンを立ち上げた。検索ワードに“血の伯爵夫人”と入力する。検索結果に並んだのは“エリザベート・バートリ”という名前だ。まとめページにある肖像画を見て確信する。

「あの館の絵はやはりエリザベート・バートリだ」


 翌日の夕方、従姉妹の真里が事務所にやってきた。

「どうした?元気ないぞ」

 いつも快活な真里が沈んでいる。火鳥は紅茶を淹れてテーブルに置いた。何か食べるか、と冷蔵庫を覗いてみるが、いらないという。

「これから友達のお見舞いに行くんだ、だからあまり時間なくて」

 真里が力無く微笑む。

「そうか」

「友達が貧血で入院してるの」


 貧血、という言葉に火鳥は反応する。

「あの館が関係するのか」

「うん、友達の家は2つ先の駅なんだよ。それなのにあの館の近くで倒れそうになったところを近所の人に助けられてすぐ病院に入院になったんだって。なんであの館に行ったんだろう」

 真里は火鳥の顔を見上げた。

「遙兄、何か分かった?」

「いや、まだ調べている」

 昼間に館の周辺に聞き込みに行った。それとネットで検索した伯爵夫人のこと、真里を怖がらせないようにと火鳥は何も伝えないことにした。事件に関係するようなことは何も分かっていない。


「じゃあ、帰るね」

 火鳥は心配しながら真里を見送った。入れ違いに水瀬が入ってくる。相変わらず黒スーツに派手な赤色の柄シャツを着ており、趣味が悪い。これがヤクザのドレスコードなのだろう。

「真里ちゃん大丈夫か、暗い顔してたけどよ」

「友達が入院して心配してるらしい、お前なんで来たんだ」

 水瀬は応接セットのソファにどっかりと腰を下ろす。


「昨日行ったボロい家あったろ」

 真里とコーヒーを飲む時間が無かった火鳥はやむなく二人分のコーヒーをドリップし、テーブルに置いた。

「昨日行ったバーでおばやんが噂話してたのを聞いたんだけどよ」

 水瀬の話では、あの洋館は10年以上も前に洋画家が住んでいたらしい。洋画家には娘がおり、その子に若くして病気で死なれた。失望した洋画家は失踪し、館は無人の廃墟になってしまったという。


「曰く付きの館というわけか」

 火鳥が顎を撫でながら天井を見つめている。火鳥が今日館の周辺で聞いた話もおおよそそのような内容だった。

「あの絵のモデルはエリザベート・バートリだ」

 火鳥の言葉に水瀬は首をかしげる。有名なハリウッド女優なのかと聞き返された。

「血塗れの伯爵夫人と呼ばれる、16世紀ハンガリーに実在した人物だ」

 血塗れと聞いて水瀬は眉を顰める。


「美しい女だったが、その美貌を保つために処女の生き血を注いだ風呂に入ったり、拷問を楽しんだという」

「胸くそな話だな。そんな女の絵を描いて飾るなんて画家って奴もちょっとおかしいだろ」

 水瀬は踊り場の肖像画を思い出したのか、身震いする。

「そうだ、そんな恐ろしい女の絵を崇拝するように踊り場に飾る、異常に思えるな。それに女性たちは貧血で見つかっている。繋がりがありそうだ」

 火鳥は立ち上がった。まだ日は高い。もう一度館へ行ってみよう。死んだ娘、エリザベート・バートリの肖像画、貧血の被害者、何か手がかりが見つかるかもしれない。


「俺も行くぜ」

 水瀬の思わぬ言葉に火鳥はその顔を二度見した。

「どうした、怖がりのお前が」

「真里ちゃんの大福食っちまったからな」

 そう言いながら水瀬は頭をかいている。

「暇なヤクザだな」

 火鳥はフンと鼻で笑う。

「うるせえよ、俺の仕事は夜からが本番なんだよ」


***


 柵の隙間から庭に入る。軋むドアを開け、館内に入った。水瀬は踊り場にあるバートリの肖像と目を合わせないように視線を泳がせている。階段脇のオーク材の立派な装飾が施されたドアを開ける。

「うわ、すげえ埃だな」

 大きな白い布が家具にかけられている。ここは応接室のようだ。赤い絨毯には埃が積もっていた。

「画家のアトリエを探そう」

 火鳥は階段の反対側へ回り込み、ドアを開ける。そこは食堂だった。大きなダイニングテーブルが中央に置かれている。その脇には暖炉があり、燭台が転がっていた。埃っぽいテーブルの上に猫の足跡が点々とついている。


「アトリエは二階か」

 火鳥の背後につく水瀬が大きなため息をつく。

「あの絵の前、通りたくないな」

 たしかに、あの絵は不気味だ。題材が血に飢えた伯爵夫人であることに輪をかけて、何か嫌なものを感じる。窓の外はだんだん日が落ちてきた。火鳥は懐中電灯を取り出す。威圧感のある伯爵夫人の肖像画の前を通り、二階への階段を上る。


 順番に部屋を覗いていく。子供部屋や寝室、書斎と続き、最後に到達した部屋のドアには鍵がかかっていた。水瀬が足で蹴破る。バキッと木の折れる音がして、勢いよくドアが開いた。夕焼けの射し込む部屋は不穏な赤色に染まっている。

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