第3話

 神原組若頭の八木と、クラブのホステスがマンションの一室に入っていく。幸いセキュリティが強固な今時のマンションではないため、入り口はオートロックではない。火鳥と水瀬はエレベーターを使い、2人の部屋の前までやってきた。


「あの赤いワンピースの女も一緒にこの部屋に入っていったな」

 八木とホステスは二人だけでじゃれ合っており、女を完全に無視していた。やはりどう見ても赤いワンピースの女は彼らの知り合いでは無さそうだ。

「ああ、俺も見た」

 水瀬はまだ怯えている。当事者の2人には見えていないのだろう、見えないことがどんなに幸せか。勝手に上がり込んだ赤いワンピースの女は一体何が目的なのか。


「あ、そうだ。のぞき窓があるぞ。覗いてみろよ」

 火鳥の言葉に水瀬はそうだな、と呑気にのぞき窓に近づいた。しかし、気付いて立ち止まる。

「あ、あ、アホか、あの都市伝説の通りなら赤い目がこっちを見てるって話じゃねーか、冗談じゃねえよ」

「チッ、バレたか」

 火鳥は小さく舌打ちする。

「お前、本当にタチ悪いぞ」


「しかし、どうするかな。赤いワンピースも一緒に入って行きましたよって教えてもこっちの正気を疑われてしまうな」

 火鳥が腕組をしながら考えていると、部屋の中から男の悲鳴が上がった。

「この声はカシラだ・・・この中で何か起きている」

 水瀬が青ざめる。

「まさか、過激なSM趣味とか」

 火鳥が真顔で訊ねる。

「カシラの性癖なんか知らねえよ。でも今の雰囲気、かなりヤバくなかったか」

 確かに、大の男の叫び声が上がるなんて異常事態だ。火鳥がドアノブを回すが、当然鍵がかかっている。水瀬がドアを激しく叩く。

「あー、もしもし大丈夫ですか」

 反応は無い。叫び声がまた聞こえた。命の危険を感じさせる切羽詰まった声だ。


「仕方ねえな」

 水瀬はドアに体当たりした。一度、二度、三度目でドアが破られた。中に入ると紐で手足を縛られた若頭の八木がリビングに転がっている。カラフルな刺青の文様のせいで見づらいが、所々血が流れていた。

 見れば、連れ込んだホステスが八木を狙い、出刃包丁を振り上げていた。


「うわ、刃傷沙汰かよ」

 水瀬は顔を歪める。関わるんじゃなかった。

「なんだ、ヒロシお前なんでここに?どうでもいい、助けろ!こいつがいきなり包丁で斬りかかってきやがった」

 いきなりと言いながらパン一で手足を縛られるとは、SMプレイをしようと女にそそのかされたに違いない。このまま殺害されようものならかなり恥ずかしい。

 八木は床を這いずりながら逃げようとする。ホステスは虚ろな目で八木に包丁を振り下ろす。八木はその一撃を何とか避けたが、ホステスはまた腕を振り上げた。


「気が進まねえが、仕方ない」

 ここで見殺しにするのも寝覚が悪い。ホステスを抑えようとした水瀬を火鳥が羽交い締めにして止めた。

「な、何だよ火鳥?」

 火鳥の思いがけない行動に水瀬は驚きの表情を向ける。火鳥は冷静に状況を観察している。


「おい、お前は何だ!ヒロシの邪魔をするな」

「あんたが神原組の若頭か」

 火鳥の言葉に八木は眉根を寄せる。今そんなことを聞いて一体どうするのか。事態はそれどころではない。

「そうだ、おい早く助けろ」

「三和ビルの地上げの指示をしているな」

「そうだ・・・それが何の関係がある」


 八木は転がりながらホステスの包丁をかろうじて避ける。

「地上げを止めると約束しろ」

「は?」「へっ?」

 八木と水瀬は間抜けな声を上げて火鳥を見つめた。

「おい、それどころじゃねえよ。俺はこの女に殺されかけてるんだぞ」

 八木が叫ぶ。


「俺も事務所を取り上げられたら死活問題なんだよ、あんたが地上げを止めないなら水瀬を連れて帰る」

「信じられねえ・・・今ここでその交渉するか?」

 水瀬は火鳥の図太さに呆れている。八木は怒りで額に青筋を浮かせているが、ホステスの包丁がまた振り上げられるのを見て叫んだ。

「分かった、やめる、あのビルの地上げは諦める!だから助けろ!」

 

「よし、交渉成立だ。水瀬、いいぞ」

 火鳥に指示されて、水瀬は嫌な顔を向ける。八木を助けるのも癪だが、こいつに指図されるのはもっと腹が立つ。

 仕方なしにホステスの腕を掴んだ。しかし、凄い力だ。ホステスが腕を売り払うと、水瀬は吹っ飛ばされてしまった。女の細腕で出せる力では無い。


「めちゃくちゃ強いぞ、なんだこの女」

「もしかしたらあの赤いワンピースの女の霊障かもしれないな」

 火鳥は冷静に考えている。水瀬はもう一度立ち向かおうとするが、包丁で薙ぎ払われ、後ずさりして距離を保っている。


「ど、どうすればいい、火鳥」

「うーむ、これは無理かもしれんな」

「おい諦めるな、何とかしてくれ」

 八木の悲痛な叫びを聞いて、火鳥は口元を歪めて笑う。こいつは本当に性格が悪い、水瀬はこの男だけは敵に回したくないと心底思った。


「この部屋はこのおっさんの部屋だな」

 テレビにテーブルだけのシンプルな室内は若い女の部屋には見えない。火鳥は洗面所に向かった。何かを物色している。

「なにするつもりだ」

 水瀬が八木を狙うホステスの動きをなんとか牽制している。火鳥が戻ってきた。何か缶を手にしている。


「なんだ、それ整髪料か」

 火鳥は缶の蓋を開け、中身を手に取り、突然ホステスの顔に塗りつけた。

「きゃあ」

 ホステスは顔を押さえて転がった。包丁も床に転がる。それを水瀬は拾い上げ、八木の手足を縛るロープを切る。

「くそっ、この女どうかしてる」

 八木の怪我は皮膚の表面を切っただけで重傷には至っていない。もうちょっと放っておけば良かったと水瀬は内心思った。ホステスは床に転がって気を失っている。よく見たら結構な厚化粧の年増だった。

「赤い女の気配が消えたな」

 火鳥が呟く。

「そうだな、部屋の空気が変わった気がする」


 後日、水瀬が火鳥の事務所にやってきた。

「カシラはここの地上げを諦めるってよ」

 水瀬はちょっとホッとしているようだった。火鳥がテーブルにコーヒーを運んでくる。コーヒーの豊かな香りが事務所に漂う。

「で、なんであのとき整髪料だったんだ」

 火鳥が洗面所から持って来た整髪料で女が動きを止めたことが不思議だった。

「ポマードだよ。八木の頭を見て、ポマードを使っていることが分かった」

「なんでポマードなんだ?」

「ほら、ポマードが苦手っていうじゃないか、あれ?違ったな。あれは口裂け女だったか」

 火鳥の適当さに水瀬は驚愕する。ポマードの効果だったかどうかは定かではないようだ。思えば、顔に突然ポマードを塗りたくられたら誰だって怯むだろう。


「あの赤いワンピースの女は消えたのか」

 水瀬の言葉に火鳥はタブレットを見せる。スライドしていく画面には女が男を刃物で切り裂く殺傷事件が並んでいた。

「うわ・・・えぐいな・・・きっと室内は血まみれでさながら”赤い部屋”だな」

 水瀬は口元を抑える。

「付き合っていた女が突然襲いかかる、この間のケースと似ていないか。もしかしたらあの赤い女の仕業なのかもしれないな。居なくなっただけで、またどこかに現れるのかもしれない」

「ああ、おっかねえ」

 水瀬は身震いした。


 水瀬が帰った後、火鳥はマホガニー製の机で事件の概要をレポートにまとめた。

「金にならない事件だったな、しかしこの事務所はしばらくは安泰か」

 火鳥は独りごちて、赤いワンピースの女のレポートを本棚のKファイルに綴じた。

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