赤いワンピースの女

第1話

「ヒロシ、この馬鹿野郎!」

 迫力のある怒号が飛ぶ。同時に水瀬が左頬をぶん殴られて吹っ飛ぶ。安っぽい事務用の椅子にぶつかって床に投げ出された。またか、と若い組員は目を背ける。水瀬は頬を撫でながらよろよろと立ち上がる。


 ヤニ臭い神原組事務所の日常茶飯事だった。八木政司やぎまさしは神原組の若頭を務める昔気質の男だ。昭和のVシネマにそのまま登場できそうなビシッと決めたリーゼント、80年代の青春ドラマを観て育ったらしく、殴ることが愛情と思い込んでいる節がある。若頭補佐心得である水瀬博史を立派な極道に育てようと、今日も愛の拳を見舞ったのだった。極道の世界にもパワハラの概念を導入してもらいたいものだ。


「はい、すんません」

 ふて腐れながら水瀬は八木を上目使いで見上げる。今日もリーゼントの艶が見事だ。離れた場所からも独特のおっさん臭が匂う。だいたい、ポマードをつけすぎなのだ。まだ売っているのか。

「謝るくらいならしっかりやってこい、ヒロシ」

 八木はそう言って古い応接セットのソファにどすんと腰を下ろした。ヒロシという名前の響きが呼びやすいらしく、やたらと名前で呼ばれるのも癪に触る。

 無鉄砲な用心棒でのし上がってきた八木の拳は正直キツい。これを食らってすぐに起き上がれるのは水瀬が元来頑丈なのと、殴られ慣れてしまったからだ。


「くっそ」

 水瀬は文句を言いながら事務所の階段を降りていく。ここの一階は喫茶店だ。昔ながらの純喫茶だが、挽き立ての香り高いドリップコーヒーを出す。

 時々来客があれば事務所にも出前を頼んで持って来てもらっている。店員もヤクザ事務所へのお呼び立てに慣れたものだった。


「大丈夫ですか、水瀬さん」

 白ジャージと黒ジャージの舎弟が水瀬の顔を覗き込む。鉄拳を見舞われた頬はさすがにやや腫れている。

「うるせえ、あいついつか仕返ししてやるからな」

 あいつとは八木のことだ。水瀬は腫れた頬を撫でながら五年落ちのBMWに乗り込む。水瀬の愛車で、中古で手に入れたものだ。黒ジャージが運転席に着く。

「火鳥のところだ」

 行き先を告げ、水瀬はタバコに火を点けた。


 ちょうど昼時だった。BMWをコインパーキングに停めた。このパーキングは他よりも割安だ。商店街で買い物をすれば一時間無料の穴場だった。

「ちょっと飯食っていくか」

 水瀬は地上げのターゲットのビル一階にある中華料理店“揚子江”の脂ぎった赤いのれんをくぐる。白黒のジャージも続く。ほぼ満席で、4人がけのテーブル席が1つ空いていた。あの“貧乏神”が居なくなってから繁盛しているようだ。確かにここの料理は美味い。

「日替わり3つ」

 今日の日替わりは酢豚定食だ。酢豚にライス、スープ、シュウマイが二つ、ザーサイがついて850円。安い。


「どうするんです、兄貴」

 白ジャージが尋ねる。地上げしようとするビルのテナントでのんびり昼飯を食っている場合ではないと思っているようだ。進展が無ければまた八木の鉄拳が飛ぶ。

「今考えてるよ」

 そう言いながら水瀬は酢豚を頬張る。実は何も考えていない。しかし酢豚には白米がよく合う。ここの白飯はいいものを使っているらしく、いつも米粒が立っている。

「ボリュームあって美味いっすね」

「そうだろう」

 食いしん坊の黒ジャージは、ほくほく顔で酢豚と白飯をかきこんでいる。


「すみません、相席いいですか」

 店主の陳さんが水瀬に頭を下げる。黒いスーツにグレーのシャツ、強面の水瀬にこんなことが言えるのは、実は水瀬がここの常連だからだ。

「仕方ねえな・・・なに、おい、こいつなら話は別だ」

 水瀬はテーブルの前に立つ不遜な態度の男を指さして顔を歪めた。

「失礼する」

 許可もなく図々しく着席したのは、この雑居ビル三階に事務所を構える火鳥探偵社の主、火鳥遙だった。

「今日は酢豚か、美味そうだ。それにしよう」

 火鳥は水瀬の食べている酢豚を見て注文を決めた。


「今日は子分が一緒なのか」

 頬杖をつく火鳥を白黒のジャージが睨み付けている。火鳥は全く物怖じしていない。

「うるせえ、お前の顔を見ると気分が悪くなる」

 水瀬は吐き捨てるように言う。

「お、また殴られたのか。随分と体育会系だなおたくの組は」

 軽口を叩く火鳥に、水瀬は舌打ちをした。

「ここの地上げに失敗して毎日殴られてるんだよ、お陰様でな」

 お前のせいだ、と水瀬は唇を尖らせる。

「リーズナブルで美味しい中華料理屋に、名探偵の事務所、2階には占い屋が入ってたっけな、このビルを潰すなんてありえないだろ」


 火鳥は腹が立つが、水瀬はこのビルの立ち退きには正直気が進まなかった。中華料理店の店主ともデザートに杏仁豆腐をサービスしてもらうほどに顔馴染みになってしまった。それに火鳥は一筋縄ではいかない、できれば関わりたくない男だ。

「お前、また何か連れてきてるな」

「やめろよ、おい」

 火鳥が水瀬の頭上を見つめているのに気が付き、水瀬は本気でビビっている。火鳥には霊感があり、この世に居てはならないもの、異界のものが見えるらしい。

 火鳥に言わせると水瀬はよく背負っているそうだが、本人にはこれまで全く見えたことが無かった。

 しかし、火鳥が側にいると何の化学変化か、何故か見えてしまうのだ。このオカルト現象も相まって、水瀬にとって火鳥は心底苦手な男だった。


「赤いものが見える、ぜんぜんハッキリしないんだが・・・お前に憑いてるものじゃないな」

「赤いものとか、マジでヤバいやつだろ?おい、なんとかしろ」

 水瀬は怯えて身を乗り出し、火鳥の胸ぐらを掴む。

「俺は除霊ができるわけじゃない、ただ見えるだけだ」

「チッ、役に立たねえな」

 水瀬は大きくため息をついた。頭の上をハエを振り払うように手を泳がせる。

「しかし、これは不吉だな・・・嫌な感じがする」

 火鳥が腕組をして、神妙な表情で顎を撫でる。水瀬は口を開けてガクガク震え始めた。普段は武闘派で通っている兄貴分の情けない姿に、白と黒のジャージは顔を見合わせた。

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