第3話

「お前、本当に”見える”のか?」

 水瀬が席を詰めてきた。火鳥は面倒くさそうに水瀬を一瞥する。

「何か注文したらどうだ」

「お、おうそうだな」

 水瀬は素直に酢豚定食を注文した。陳さんはコップに水を注ぎ、水瀬の前に置いた。注文されたら客は客だ。

「で、どうなんだ?」

 水瀬が詰め寄る。

「時々、ぼんやりと見えることがある。でもあの日、お前の背後には人相も分かるほどのやつがいた。むしろ背負ってたな」


 水瀬がのけぞって頭を抱えている。

「俺は全然見えないんだよ、霊とか、そういうの。でも見える奴には見えるらしくて、時々お前みたいに俺の背後を見てビビる奴がいる」

「へえ」

 正直、どうでもいい。ヤクザの憑きものになど興味はない。

「お前に恨みを抱いているような感じはなかったな。階段で転んだのは気が動転していたからだろう」


 火鳥は子供の頃から普通の人には見えないものを感じる力があった。霊感といえばそうなのかもしれない。人ゴミにぼんやりと影が立っていたり、光る球が流れていくのが見えた。強い念が残る場所だと、顔の輪郭が見えることもある。

 火鳥が18歳の時に死んだ母が霊感の強い人だった。その血を受け継いだようだ。


「今もいるか」

 水瀬がおそるおそる訊ねる。

「今はいない」

 それを聞いて、水瀬は安堵したようだ。情けない表情に強面のヤクザも形無しだ。


 陳さんがカウンターに酢豚定食を運んできた。

「お、美味そうだな」

 先ほどまで陳さんを脅していた男の態度ではない。腹が減っていたのか、水瀬は酢豚をがっついて食べ始めた。

「うん、美味い」

 陳さんはそれを聞いて、にっと笑っている。どんどん箸が進み、水瀬は小皿のザーサイに至るまできれいに平らげた。


「・・・美味かった。事務所の近くのこじゃれた中華料理店はいつも並んでいるが、この店の方が格段に美味い」

 事務所とは、神原組の事務所のことらしい。

「なんでこんなに客がいないんだ。この定食850円だって、嘘だろ、めちゃくちゃリーズナブルじゃないか」

 水瀬は一人興奮している。火鳥も麻婆丼を完食した。ビールを飲んでいた客はすでに支払いを済ませて帰ったようだ。

「お前はこんな良い店を閉店に追い込もうとしているんだぞ」

「そ、それは、仕方ねえだろう。俺も仕事なんだよ。カシラにここの地上げを任されてるんだ」

 ヤクザの世界も面倒らしい。


 ふと、奥のカウンターに揺らめく影が視界に入った。火鳥はカウンターから立ち上がり、近づいていく。カウンターに座るその影は、ぼんやりとうなだれる人の姿をしている。

「お、おいそこに何かいるのか」

 水瀬が火鳥に近づいていくと、その影が明瞭に人の姿を現した。ヒッ、と水瀬が息を呑む。霊感のある火鳥には見えているが、全然見えないと言った水瀬にもその姿がハッキリと見えているようだ。


「奇妙なことがあるものだ。お前が近づくとハッキリと見える」

「なんだよ、このおっさん」

 この世のものとは思えない半透明のおっさんの姿に水瀬が怯えている。

「何か強い執着があってここにいるようだ」

 火鳥がおっさんをじっと見つめている。よれたスーツの襟にバッジがついていることに気が付いた。この町の地方銀行の社章だ。半年前、経理課長が1億円の横領で自殺したことがニュースになっていた。


「わかば銀行の経理課長だ」

 火鳥の言葉に、半透明のおっさんがゆらりと立ち上がった。そしてふらふらと店を出て行った。

「一体、何だったんだあのおっさん・・・」

 水瀬は白目を剥いて腰を抜かしそうになっている。

「自分が誰なのか、思い出したのだろう」

 不思議と店内の空気が晴れた気がした。それは水瀬も感じているようだ。

 のれんをくぐり、客が入ってきた。3人連れのサラリーマンで、ビールと大皿料理を注文する。それからも家族連れにカップルと、客はどんどん増えてすぐに満員になった。


「もしかして、貧乏神・・・だったのか」

 火鳥は店の外からその賑わいを眺めている。

「あいつは一体どこに行ったんだ」

 水瀬がタバコに火をつける。

「おそらく、自分を陥れた奴らに仕返しにでも行ったんだろう。この店はもともと繁盛していた。それが急に客が減り始めたのが半年程前、あのおっさんが迷ってここに居ついたからかもしれないな」


 一週間後、わかば銀行の不祥事が新聞のトップ記事に踊った。経理課長の横領はでっちあげ、上層部の不正融資や顧客の預金使い込みなど十件以上の悪事が暴かれていた。”貧乏神”はわかば銀行に取り憑いたらしい。火鳥は新聞を折りたたみ、淹れたてのコーヒーを注ぐ。

 不意に乱暴なノックの音が聞こえた。

「いるんだろ、火鳥」

 水瀬の声だ。火鳥は面倒くさそうに立ち上がり、鍵を開けた。水瀬はずかずかと入り込んで大股開きでソファに座る。


「お前のせいで、中華料理店が家賃を完済しやがった」

 忌々しそうに眉根を寄せている。

「それは良かった、そして俺のせいじゃない」

 火鳥は平然とコーヒーを啜る。水瀬は勝手に湯飲みを取ってきて、急須で茶を注いで飲み始めた。


「地上げがやりにくくなった、どうしてくれる」

 とんだ言いがかりだ。

「お前、また背後に連れてるぞ。お、今度はよく見える。腰の曲がったおばあさんだな」

 火鳥の言葉に水瀬はみるみる青ざめる。

「そ、その手にはのらねえぞ」

 水瀬は強がっているが顔がひきつっている。強面で図々しいが、とんだ怖がりのヤクザだ。


「不思議とお前が近くにいるとよく見えるんだよ、あのときもそうだった。霊媒体質ってやつか。お、背後のおばあさん笑ってるぞ」

 水瀬は震える手でお茶を飲み干して立ち上がった。覚えてろ、と捨て台詞を残し、勢いよくドアを開けて出て行く。しばらくして階段でコケる音が聞こえた。火鳥は静かにドアを閉めた。


 火鳥はマホガニー製の事務机からレポート用紙を取り出す。わかば銀行の不正、経理課長の亡霊、要点をかいつまんで記載した。本棚の一つは親父の代からこれまでの事件をファイリングしたものを格納している。A~Jまで分類したコードがついていた。

「これまでにないケース、Kだな」

 新しいファイルを作り、その中に手書きのレポートを綴じた。


 時計を見れば、午後1時をまわっている。火鳥は階段を降りてゆき、一階の中華料理店“揚子江”ののれんをくぐった。企業の昼休みは終わっているが、盛況だ。カウンターにつけば、隣で水瀬が麻婆丼を食べている。

「あ」「あ」

 二人は顔を見合わせる。水瀬は気まずい顔でまた丼を食べ始めた。


「天津飯お願いします」

「ああ火鳥さん、あの日から急にお客さんが戻ったんだよ」

 陳さんは嬉しそうに笑顔を浮かべる。わかば銀行の経理課長はこの店の常連だったそうだ。昼休みによく定食を食べに来ていたらしい。取り憑かれたのは迷惑だが、不思議なことに彼が去ってからは以前より客入りが良くなったという。

「良かったですね」

 火鳥にとっても安くて美味い馴染みの中華料理店が無くならずにすんで良かった。火鳥は天津飯を前にいただきますと手を合わせ、美味そうに食べ始めた。

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