第2話

「こんにちはー!遙兄いる?」

 ドア越しに明るい声が聞こえ、パソコンに向かっていた火鳥は顔を上げた。ドアを開けると木島智也きじまともやと妹の真里まりだ。彼らは火鳥のいとこで、時々この火鳥探偵社に遊びにやってくる。

「今日ね、さくら堂で大福買ってきたよ」

 真里が定位置のソファに座り、大きな大福のパックを開けた。火鳥は急須にお茶を淹れ、湯飲みを3つテーブルに置く。


 智也は大学三回生で、民俗学を専攻している。快活な性格で友人も多い。休みの日には趣味を兼ねて、神社仏閣や史跡を訪ねるフィールドワークに明け暮れている。趣味が忙しくて彼女を作る暇が無いと笑っている。

 真里は高校二年生、市内の共学の高校に通っている。子供の頃から本が好きで、小説家を夢見ているという。


 智也と真里は一人で事務所を切り盛りしている火鳥を手伝って、パソコンでの資料作りや事務所の片付けをしてくれる。少し年の離れた従兄弟の火鳥は何でも相談できる頼れるお兄さんとして、二人に慕われている。なにより、探偵という浮世離れした仕事に興味津々なのだ。世を拗ねたような火鳥も二人への面倒見は良かった。


「え、地上げ?」

 智也と真里は顔を見合わせて心配そうな声を上げる。

「うん、まあよくある話だよ」

 大福を頬張りながら火鳥はあっけらかんと笑っている。

「この事務所、無くなるの?」

 真里が悲しそうな顔をする。小学生の頃から火鳥を慕って通った事務所だ。自分から見たおじさん、火鳥の父の面影もうっすら残っている。ここが無くなるのは思い出が無くなるようで寂しい。


「引っ越しはしない。彼らの言っていることは正当性が無いしね」

 火鳥はずれた眼鏡を人差し指でクイと持ち上げる。

「ここに来るときに下の中華料理屋の近くでガラの悪い男が立ってたよ。もしかしたら、遙兄のところに来た奴らかな」

 智也はビルの付近で黒いスーツやジャージの男たちがタバコを吸いながらたむろしていたのを見たという。


「すべてのテナントを追い出さないと解体はできないから、それぞれに攻勢はかけているかもしれないね」

 火鳥は腕組をして天井を見上げる。

「大丈夫だよ」

 雑談のつもりで気軽に喋ってしまったが、若い二人に心配をかけてしまったことを火鳥は内心反省した。


 それから智也のフィールドワークでの発見や、真里が最近見つけたスイーツのお店の話で盛り上がった。火鳥の探偵業については守秘義務があるので、個人の事情に関わることは多くを語れない。

 逃走したペットの亀を探して駆けずり回った話に二人は爆笑していた。あれは本当に大変だった。結局、自宅の広い庭園の岩の影に動きもせずひっそりと隠れていたのだ。そんなに大事な亀なら首輪でもつけたらいい。


「じゃあ、また来るね」

 ひとしきり笑って、二人は帰っていった。今度彼らが来る時は、表通りの洋菓子店“スイートショパン”のタルトでも用意しておこう。

 火鳥はパソコンに向かい、副業の続きを始めた。企業商品をPRするブログ記事を書くのだ。本数勝負で、本日中に10本納品しなければならない。お題は全く興味の無いダイエット商品だ。

 引きこもりで朝からパソコンとにらめっこしていたが、2人のおかげで気が紛れた。


 曇りガラスの向こうに街のネオンが点り始める。パソコン画面の送信ボタンを押した火鳥はひとつ伸びをした。これでノルマは達成。本業の合間とはいえ、締め切りがかぶるとキツい。時計を見れば、午後7時をまわっていた。

 アパートに帰って自炊するのも面倒だし、一階の中華料理店で夕食を済ませて帰ることにする。


 事務所の鍵をかけて階段を下り、中華料理店“揚子江”の油でべたつく赤いのれんをくぐる。名前もベタなのだが、味は間違いない。しかし、薄暗い蛍光灯の店内はどこか陰気くさい。奥のカウンターでビールを片手にエビチリをつつくサラリーマンが一人。夕飯時だが、お客さんは少ない。

「麻婆丼ください」

 はいよ、と店主は愛想良く答える。スープと本格的な四川風の麻婆丼、唐揚げが2つついて850円。とてもリーズナブルだ。コース料理も安くてボリュームがある。


 出てきた麻婆丼にレンゲを入れようとしたとき、新しい客が入ってきた。火鳥と1つ席を空けてカウンターに座った。横目で見れば、先日事務所にやってきたヤクザ者、水瀬だ。カウンターに腕を乗せて偉そうな態度でニヤニヤしている。

「店を明け渡す気になったか」

 地上げだ。この店を立ち退かせようとやってきたのだ。

「出て行かないよ、せっかく持った店だ。お得意さんもいる」

 厨房でグラスを磨く店長は流暢な日本語を話しているが、四川省からやってきた中国人だ。衛生責任者の名前は陳と書いてある。


「お得意さんて、全然客がいないじゃないか。このボロビルの家賃も3ヶ月滞納してるな。いつでも追い出せるんだぜこっちは」

 陳さんは押し黙る。痛いところを突かれたらしい。このボロビルでも家賃3ヶ月となれば100万以上はするだろう。この客入りを見れば、経営が厳しいことは一目瞭然だ。


「怪我は大丈夫ですか」

 突然、声をかけられ水瀬は振り向く。三階の探偵社の主、火鳥が額に汗しながら麻婆豆腐を食べている。

「てめえ、何故それを」

「事務所を出ていった後、騒々しい声が聞こえたんですよ。大方転んだんじゃないかと思ってね。それで、あの日はこの店への脅しを止めて帰った。今日は子分たちは連れていないんですか」

 水瀬は顔を歪める。図星すぎて何も言えない。あの日、油ぎった階段で足を滑らせ、三段分を派手に踏み外した。おかげで地味に捻挫して、白黒のジャージに抱えられて病院送りになったのだ。


「お前、あのとき何が見えた?」

 額に青筋を立てていた水瀬は急に落ち着いて椅子に座りなおし、神妙な顔で火鳥に訊ねる。

「三人ほど背負っていましたよ。背中にね」

 火鳥の言葉に水瀬の顔から血の気が引いていく。

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