126. 影

 エーシェンは顔を顰めた。


「マーヴェ君、そこの窓を開けてくれる?資料が読み辛くてね」

「は、はい!今すぐに」


 言うなりマーヴェは駆けていって、窓を塞ぐ木の板を横にスライドさせる。

 摺りガラスに和らげられた光が差し込み、部屋全体が多少明るくなった。


「見ての通り、ここ第0会議室には盗み見に対する策も施されているんだ。そう慌てなくても良いさ」

「それは存じ上げていますとも、この会議室が扉すら目立たぬように設置されていることからも理解できますとも。しかし…」

「まぁ、内容がこれじゃあね。いろいろ聞きたいこともある」

「構いませんが、そこにいらっしゃる女性の方は…」

「問題ない。僕の秘書だ。それに、この件について動くならば彼女にも知っておいてもらう必要がある」


 エーシェンがそう言うと、マーヴェが少々嬉しそうな表情になる。

 一瞥してから、エーシェンは目の前の男に向き直った。


「まずは自己紹介から始めてくれるか」

「は、はい。私は、王立エルディラット技術大学の宗教科学室室長を務めております、アヴィア・オイヤーと申します」

「宗教科学室…あなたが…」


 エルディラットにおいて宗教の信仰は基本的に禁じられている。

 だが、それは研究対象にしてはいけないということまでは意味しない。

 技術大学の名を冠し、魔法と並び科学の研究を盛んに行うものの、とりあえず名前に「科学」とつけておけば人文学の研究も行えるという奇妙な寛容さ…あるいは杜撰さが、この大学にはあった。

 そんな紆余曲折を経て生み出された人文学系の研究室の一つが、宗教科学室。

 国内の宗教研究機関としては最大手である。

 エーシェンも彼の名前だけは知っていた。


「グロシーザ教については、ご存知ですよね?」

「もちろん…だけど、マーヴェは?」

「えーっと…名前だけは知ってるのですが、実態はあまり…お恥ずかしながら」


 マーヴェは生まれてこの方エルディラットから出たことがない。

 宗教と縁の薄いこの街では、積極的に知ろうとしなければ知らないのも無理のない話だった。


「問題ありません。概要は私が説明させていただきます」

「すみません、お願いします」


 礼儀正しく頭を下げたマーヴェが頭を上げるのを待って、アヴィアは話を続ける。


「グロシーザ教は、ここコースヴァイト王国のオーチェルン市を本拠地とした宗教です。おそらく大陸最大の宗教で、3500万人もの信者がいるとも言われています」

「さ、3500万…って、どれくらい、ですか…?」

「大陸の人口がおよそ1億と言われているね」


 エーシェンの補足により数字が現実感を増したせいか、マーヴェはぽかんと口を開けて固まった。


「主に北側三国で信仰されていて、コースヴァイトには全信者のうちの2000万人程度がいるとされています。逆に、我々と関係の悪い南側三国においては信仰が禁止されていますが、数万人程度は隠れ信者がいるともされています」

「それを理解した上でこの資料を見れば、何が問題かはすぐにわかるはずだよ」


 エーシェンはマーヴェに紙を手渡す。


「…っ…これって…」

「無論、事実かどうか確かめる必要はあるが…名の知れた研究室の、しかも室長が、根拠もなくこんなことを言うとも思えない。アヴィア氏、この件はどれくらいの人間が知っている?」

「我が研究室のグロシーザ教研究班、実地調査班、そして私…計13人です」

「決してこの件を口外しないようにしてほしい。噂が市民に溢れ出したが最後、制御は効かなくなる」

「もちろん、既に箝口令を敷いています」

「了解した。こちらでも可能な限り迅速に調査を行う」

「ありがとうございます。では、私はこれにて」

「扉を出て右側に行くと見張りがいる。彼はこの会議室のことを知っているから、外まで案内してくれる」


 アヴィアは立ち上がってもう一度頭を下げ、足早に会議室を後にした。


「しかし…本当にこんなことがあるんですかね」


 マーヴェは手に持った資料をもう一度見つめ直す。


「いくらなんでも、大きな宗教の力を『南』が悪用しようとしてるなんて、ありえないように思えるんですけど…」

「そこらへんの人が喚いている程度だったら、僕もただの陰謀論だと切って捨てたよ。だけど、実地調査までする大きな研究室がこうやって報告書をまとめてきたら、流石にね…『南』だと断定はできないけど何か怪しい動きがあるのは事実だと思うよ」

「…もし、悪用されたらどうなるんでしょう」

「どこまで入り込まれてるかにもよるけど…何らかの方法で『北側は悪だ』と決めつけて各地で暴動を起こさせたり…そうでなくとも、オーチェルンだけでも暴動が起きれば、それだけでたくさんのグロシーザ教徒を動揺させることができるかもね」

「…ってことは、今のオーチェルンは危ない、ってことですか?」

「そうだね。魔物の件とは別の危険が…って、どうした?」


 薄暗い部屋の中でもわかるほど顔面蒼白になったマーヴェに、エーシェンは疑問を呈す。


「たしか、今、魔科研エルヴォクロットが…騎士団と一緒に、訓練しに行ってます」

「なっ…」


 エーシェンは一瞬椅子から腰を浮かせかけ、それからまたゆっくりと腰を下ろした。


「…いや、すぐに何かあると決まったわけじゃない。わけじゃないが…調査は、急ごう」


 エーシェンの脳内で、調査計画が組み立てられ始めた。

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