69. トラウマ

 リーサは悟った。

 行動を起こさなければ、自分は一生貧乏のままであると。

 生活保護という救済システムに頼ろうとしない親元から離れないことには、自分の夢は果たせないと。

 冒険者業に力を入れ、金を貯めて家を買おうと決意したのは、リーサが小学5年生の時だった。


 リーサは歳にしては聡明な少女だった。

 小学生である自分にろくな戦闘能力はない。

 だから、最初は比較的安全なものを選んだ。

 シェロイ摘みなんかは特に安全で、かつ報酬が安いせいか誰もやりたがらず競争率は低かった。

 日が暮れるまでシェロイをカゴいっぱいに摘んでは駆け足で帰った。

 体力はどんどんついていった。


「これください」

「…6000ガットだ。嬢ちゃんに払えるのか?」

「はい」


 1000ガット貨を6枚差し出すと、店主は驚きつつも剣を差し出した。

 受け取ってギルドへと走る。

 そして弱そうな魔物の討伐依頼書を1枚、掲示板から剥がしてカウンターに駆けた。

 しかし、職員は依頼書とリーサを交互に見やって、言った。


「ふむ…キミ、剣やったことないでしょ」

「なっ!?できます!!」

「じゃあ、ボクと勝負してよ」


 リーサは焦っていた。

 一刻も早く、金を稼がないといけないからだ。

 しかし当然、リーサは剣の素人であった。

 一瞬で剣を弾き飛ばされ、地面に倒れた。


「言っとくけど、この魔物弱くないからね。キミ、このまま行ってたらよくて腕もがれて一生詰んでたよ。でもまぁ…見込みはあるから、練習するかい?」


 リーサは素直に頷き、助け起こす彼の手を取った。

 それがエーシェンとの出会いであった。



 中学校に入る金がない。

 両親にそう告げられたとき、リーサの心に絶望はなかった。

 こうなることは予想できていたから、自主的に学習を進めるようにしていた。

 剣の腕を磨き、図書館に入り浸る生活には既に慣れていた。

 4級依頼が受けられるようになってからは『青魔法使いでも使える!』という宣伝文句の杖を買ってみたが、リーサには剣の方が合っていた。


「おい、あれ見ろよ…」

「『赤い剣姫』だ…マジで真っ赤だな…」


 返り血を全身に浴びて帰り、そんなあだ名がつけられても、リーサは気にしなかった。

 いつしか3級依頼も受けるようになり、学生の身分には合わない額を稼ぐようになった。

 エーシェンはリーサがいつか倒れてしまうのではないかと内心ハラハラしていたらしいが、ギルドとしては優秀な冒険者の存在はありがたく、そこそこの数の依頼をリーサに持ちかけていた。

 中学生の年齢にして護衛任務すら任されるほど信頼されていた彼女は、護衛対象とした人々に馬車を操る技術や生き物を捌く技術を教えられ、ますます万能になっていった。



 その日も、リーサは冒険に出ていた。

 長い期間を必要とする2級以上の依頼は、冒険者業を勉強と両立させなければいけないリーサにとっては厳しく、その状況に苛立っていた。

 3級での稼ぎは普通に生活するのには十分だが、家を買うにはだいぶ少ない。

 高校に入れば、さらに時間は取れなくなるだろう。

 そう考えてリーサが取った選択は、より金を稼ぐため、昼食を抜くことだった。

 勉強を重ねていたリーサは、昼食の習慣がほんの100年前から始まったことだと知っていた。

 100年前の人間にできて自分にできないわけはないと昼食を絶ってから、初めての冒険だった。

 しかし、当然ながら今まで昼食を食べてきた人間がいきなり昼食を絶てば、空腹が襲ってくるのは自明の理。

 つまるところ、襲ってくる空腹に耐えながら、リーサはその日も狩りを続けていた。


 狼を斬り、熊を倒す。

 自らに課したノルマを達成した頃には、剣の鞘を支えにして歩くのがやっとだった。

 血に塗れた衣服は重く、さらには冷えて体力を奪っていく。

 怪我をしていないのが不思議なくらいだった。

 息を切らしながら、エルディラットへの道を歩く。

 既に夜の帳が落ちていた。街灯なんてものはない。

 だからその暗闇に、エルディラットを囲む防壁に灯る火はよく浮かび上がった。

 ようやく辿り着いた。

 そう思って気が抜けた、次の瞬間だった。


 道の脇の茂みが、がさがさと動いた。

 条件反射で目線を動かす。

 狼が、ぬるりと茂みから現れた。

 唸り声を上げつつ、こちらを睨んでいる。

 悲鳴を上げようとして、リーサは喉が枯れているのに気づいた。

 そこまで満身創痍でありながら、リーサは条件反射で剣を抜き、構えていた。

 しかし、もはや自分から飛びかかる体力はない。

 それは先制攻撃が基本の魔物討伐においては致命的なことだった。

 そうこうしているうちに、狼はリーサを狩りの対象に定めた。

 飛びかかってくる狼を、リーサは最後の力を振り絞って避けた。

 だが、剣が狼に弾き飛ばされた。

 同時に手首も捻ってしまい、リーサは思わず顔を顰めて手首を押さえた。

 足からも力が抜け、地面に座り込む。

 襲いかかってこないと舐めているのか、狼はゆっくりとリーサに歩み寄った。

 まるで品評するかのように、顔を寄せる。

 後ずさろうとして、手に力が入らず、ついに地面に倒れ込んだ。

 狼がリーサの顔を覗き込んで、涎を垂らした。

 その滴が頬を濡らしたところで――リーサは気を失った。



「…ですかその子…誘拐ですか?」

「人聞きの悪いことを言うんじゃないよマーヴェ君」


 エルディラットにいると縁のないものの一つに宗教がある。

 だが研究対象としては宗教はおもしろいものだった。

 さて、様々な宗教には『死後の世界』という概念が存在する。

 声が聞こえることに気づいてリーサが最初に思ったのは、『自分は死後の世界を実証してしまったのか』ということだった。

 もっとも、それが勘違いであることはすぐに判明した。


「起きたかい、リーサ君」

「エーシェン…さん…」

「おっと…ひどいな、声が枯れているじゃないか。ちょっと待っててくれ、水を持ってくる」


 リーサは、ギルドの一室で目を覚ました。


「わたしは…生きているんですか…?」

「もちろんだよ。幸い大きな怪我もしていない。手首を捻ったくらいだ」


 言われて確認してみれば、右手首が腫れていた。


「危なかったね。僕が駆けつけてなければ食い殺されていたかもしれない」


 聞けば、エーシェンは昔優秀な冒険者だったという。ギルドに勤めるようになってからは依頼の下見をして等級をつける偵察員という仕事をしているらしい。


「君があんなボロボロになるなんて珍しいじゃないか。倒した感触は普通の狼だったけど…何があったんだい?」


 事の顛末を話すと、エーシェンは表情を奇妙に歪めた。


「昼飯も食わずに冒険だなんて、さすがに無茶がすぎるよ。せめて慣れてからじゃないと」


 リーサの事情が事情なだけに、抜くなとまでは言えなかったらしいエーシェンは、そう代替案を出した。

 死に急いでいるわけではないリーサは素直に自らの過ちを認め、数日間昼食を抜いて軽めの依頼をこなした。

 そうしていると、たしかに空腹感が軽減されてきた。

 これなら大丈夫だと、リーサは久々に3級依頼の掲示板へと歩を進めた。そして依頼書に手を伸ばす。


 刹那、あの夜の狼がフラッシュバックした。


 気がついたときには、リーサはギルドの床に座り込んでいた。

 周りの冒険者たちが何だ何だと覗き込んでくる。


「…あれ、『赤い剣姫』じゃね…?」

「違うだろ。赤い剣姫が3級ごときに怯えて腰抜かすかよ」

「それもそうだな」


 勘違いされるほどに、リーサは怯えた表情をしていた。



「人間の心ってのはね、怖い体験をするとそれが時々浮かび上がるんだ。リーサ君の場合は、3級以上の依頼に関係するものを見たときに浮かび上がるようになってしまったんだと思う。狼を見ても」


 エーシェンはそう言った。

 リーサも知識としてはそういう現象があることを知っていたが、実際に自分がそうなるとは思ってもみなかった。


「本当はゆっくり休んだほうがいいんだけど、そういうわけにもいかないよね…ボクが時々様子を見てあげるから4級までは受けていいよ」


 結局、リーサは4級依頼をちまちまとこなす日々を過ごすことになった。

 稼ぎはガタ落ち。これまで少しはあった金の余裕も心の余裕も消え失せたまま、リーサは高校に入学することとなった。


「『赤い剣姫』、エルディラットを出ていったってよ」

「マジかよ、結局2級依頼とか受けたのかなぁ」


 エーシェンの情報操作によってリーサに注目が集まらなかったことだけが、唯一の幸いであった。

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