番外編 そして関係は、少しずつ変わり始める 前編

 最終決戦から一日。ノアは安静にしているように、とルイスとキャロラインに迫られて王城の客室の異様に大きなベッドに寝かされていた。


 とはいえ、特に疲れてもいないのだが。そう言ったノアの頭を容赦なく小突いて来たのはカインだ。


『ふざけんな! 俺達がどんな思いでいたと思ってんだ! こんな時ぐらい言う事聞けよ!』


 涙目でそんな事を言われてしまっては、大人しくしているしかなかったノアは、こうして大人しくしているのである。


 ベッドの脇にある椅子にはキリがいつもの様に腰かけて真顔でノアを監視しているし、起き上がろうにもアリスがずっとべったりくっついていて離れない。


「アリス、そんなくっつかなくても、もうどこにも行かないよ」


 出来るだけ優しく言ったノアに、アリスは首を横に振ってノアから離れようとしない。


「ノア様、諦めてください。お嬢様のノア様の好感度は、今急降下中です」

「えっ⁉」

「大嫌いだよ、嘘ばかり吐く兄さまなんて、大っ嫌い!」


 そう言ってやっぱりノアに抱き着くアリスを困ったようにノアは抱きしめる。


「今回は本当に反省してるよ。二人とも、本当にごめん。それから……ドロシーにお礼、言わなくちゃね」


 まさかここでドロシーが禁断魔法を使うだなんて思ってもみなかったノアは、全てを聞いてシャルが言ってた言葉の意味を理解した。


 どうやらオリバーがあらかじめこうなるかもしれない事を予測して、ドロシーに頼んでおいてくれたらしい。


「本当です。ドロシーが居なかったら、今頃ノア様は……」


 ずっと泣くのを我慢しているようなキリを見て、ノアはキリの頭を撫でて言った。


「キリ、ちょっとだけアリスと二人にしてくれると嬉しいな」

「? 何故です?」

「何でも。アリスの好感度を元に戻さなきゃ」

「……分かりました。少しだけ……外します」


 いつもの笑顔でそんな事を言うノアを見て、キリは大人しく従った。


 何か言い知れないモヤモヤしたものがキリの中で燻っていて、どう対処すればいいか分からなかったので、きっとノアはそんなキリの気持ちを汲んだのだろう。キリに一人になる時間を与えてくれたノアに感謝しながら、部屋を後にした。

 


『キリ』


 キリは部屋を出て何となく足が向いたのはあの広場だ。キリは鉄塔の下にあるベンチに腰かけてだらしなく足を投げ出して空を見上げる。


 空には雲一つない。流石にもう虹は出ていないが、昨日の事がまるで嘘だったかのように晴れ渡っていた。


 アリスはノアを殺したシャルルを追い詰め、シャルルは自ら力を使い果たして消えてしまった。その事に関しては誰も触れない。いや、触れられないのだ。


 色んな事が頭の中を駆け巡り、嫌な思考がキリを支配しようとする。


 その時、ふと聞き覚えのある声が聞こえてキリは振り返った。


「キリさん?」

「……ミアさん」


 昨日の泥のようなミアとは違い、今日はもういつものミアだ。キリはそんなミアを見て安心したように息を吐いた。ミアは腕に籠を下げて早足でこちらに走り寄ってくる。


「お買い物ですか? まだ誰も街に戻っていないでしょう?」

「あ、いえ。薬草を取りに行ってたんです。ほら」


 そう言ってミアはキリに籠の中の薬草を見せた。それを見てキリは眉を顰める。


「一人でですか? 危ないですよ」

「大丈夫ですよ! オーグ家の庭に自生しているものなので」

「それでも! 何かあったら……どうするんですか」


 思わず声を荒らげてしまったキリは、慌てて語尾を弱めた。昨日のノアの顔がまだ頭から離れないのだ。年寄りの死に顔や動物の死に際は今まで何度も見て来た。


 けれど同じ年代の、ましてや兄と慕う近しい距離の人間の死を見たのは……初めてだった。それがどれほど辛いか、苦しいかなんて考えた事も無かったのだ。


 生き返りはしたが、そういう事ではない。理屈ではないのだ。今なら決して見ようとしなかったアリスの気持ちが痛いほどよく分かる。本能的にアリスは見てはいけない、と悟ったのだろう。


「キリさん……」


 ミアはバツが悪そうに視線を伏せたキリの隣に腰かけて同じように空を見上げた。


「良いお天気ですね」

「……ええ」

「怖かったですね……とても」

「……そう、ですね」


 怖かった。そう、怖かったのだ。キリは。失うという事が、とても。


 俯いて顔を上げようとしないキリの膝の上にミアの小さな白い手が置かれた。


「?」

「手を、繋ぎましょう」

「それは……構いませんが」


 差し出された手を取ると、とても温かい。何だかホッとして思わず強く握ると、ミアも握り返してくれた。


 生きている。ちゃんと、ここに居る。そう思った途端キリの目から涙が一粒零れ落ちた。


「少しだけ……こうしていてもらえますか?」

「はい。いくらでも」


 キリの性格的に、きっと今まで泣いていない。泣くことで心が軽くなる事もあるという事にすら、この人は気付いていないかもしれない。


 仕事は出来るしとても優しいけれど、それ以上に不器用なキリ。ミアは、いつしかそんなキリが放っておけなくなってしまった。


 きっと今も、泣いてる事を気遣われたくないのだろうなと思うとハンカチも貸し出せない。どれほど二人でそうしていたのか、ふと、キリが顔を上げた。


「ミアさんは、やっぱりいいですね」

「そ、そうですか」

「はい。とても……好きです」

「⁉」


 驚いて目を丸くしたミアを見て、キリはクスリと笑った。その目は泣いていたせいか少しだけ赤いけれど、初めて見るキリの何の裏も無い笑顔にミアは思わず顔を真っ赤にする。


「わ、私は……その……」

「いいですよ。俺はいくらでも待てるので」


 待つことには慣れている。今まで色んなモノを待っていたのだから。


「私……は、えっと……キリさんが……放って……おけません……なので……えっと……」


 突然のキリの告白に動揺しすぎて思わず本当の事を口走ってしまったミアを見て、キリが声を出して笑ったかと思うと、いつもの様に意地悪に微笑む。


「では、一生俺の側に居てください。そうすればミアさんの心配も少しは減るでしょう?」

「う……は……い」

「全てが終わってお嬢様が卒業したら、その時はもう逃がしません。今から心の準備をしておいてくださいね」

「こ、心の……じゅんび……」


 ミアはまだドキドキする胸を押さえて何度も何度もキリの言った言葉を頭の中で反芻する。そんなミアの手をキリが立ち上がって引いた。


「そろそろ行きましょうか。薬草が萎れてしまいますね」

「あ、はい……いえ! そ、その……先に……戻ってください」


 ミアはキリに手を引かれて立ち上がろうとしたが、案の定腰が抜けて立てないで居た。もう本当にこの癖嫌だ! そう思いながら恐る恐るキリを見上げると、やっぱりキリは嬉しそうに意地悪に微笑んでいる。


「腰が抜けました? 驚いて?」

「も、もう! 分かってるんならそっとしておいてください!」

「そうはいきません。俺の事であなたが腰を抜かすのは嬉しいので」


 キリはそう言ってさっきまでのモヤモヤもすっかり忘れて慌てるミアを抱き上げた。そしてミアが怖がらない様にゆっくりと歩き出す。


 まだ消えたシャルルの事も女王との戦いも残っているし、何よりもノアに聞きたい事が山ほどある。


 何一つ解決していないし、これから先どうなるかなんて分からないけれど、今はただ、この腕の中の温かさを感じていたかった――。

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