番外編 新しい人生の幕開け

 食事が少しとれるようになった。棒で体を支えれば歩けるようになった。少しだけ、前向きに物事を考えられるようになった。沢山笑えるようになった。もう目を隠すこともしない。


 レスターは日に日に元気になった。学園でラーメンを食べて驚き、鉛筆と消しゴムを貰ってさらに驚いた。


 誰かがレスターの側に常に居てくれたおかげで一杯話せるようになったし、何よりも毎日外に出られるという事が、レスターは嬉しくてしょうがなかった。


 学園に保護されて一週間ほどだったが、そのたった数日でレスターはここまで回復したのである。そして、レスターはとうとうバセット領に移る事になった。


「本当は一緒について行ってやりたいが、すまないな。だが、必ずまた会いに行くからな! それまでには本来のお前に戻っている事を願ってる。あと、これは俺達全員からだ。寂しくなったらいつでも電話して来い」


 そう言って手渡されたのは、あのスマホである。


 レスターが泣くよりも先に涙目のルイスに抱きしめられてそんな事を言われてしまっては、もう何も言えないレスターである。


「狼のルンルンによろしく言っといてね。あと、シリ―は元気だよって伝えて」

「う、うん……」


 狼。バセット領に行く事自体は嫌じゃない。ただ、狼が怖いのだ。


 塔の上から遠目に見た狼は狩りをしていた。鋭い爪で獲物の鹿を踏みつけ光る牙でまさに鹿の喉元に噛み付こうとした瞬間、レスターは慌てて目を背けたのを思い出して青ざめる。


 どんどん大きくなる恐怖からレスターは震えそうになるのを必死になって堪えた。


「大丈夫だよ! うちの狼達は怖くない! ちゃんと昨日ルンルンに電話してレスターの事頼んでおいたからね!」

「お嬢様、いよいよおかしくなりましたか? いつの間にルンルンに電話したのです? というよりも、ルンルンに電話とは?」


 アリスの頓珍漢な言葉にキリは眉を顰めた。大抵いつもよく分からない事をするアリスだが、思わずルンルンがスマホを操っている姿を想像してしまった。


「ルンルンね、まだうちに居るんだって。だからハンナに電話したついでにルンルンに代わってもらったの。ちゃんと返事したよ」


 ルンルンはアリスからの電話に尻尾を振って一声吠えたのだ。あれは了解という意味だとアリスは思っている。


「ノア様、お嬢様がどんどんおかしくなっていくのですが、これもヒロイン補正という奴でしょうか?」

「嫌だな、キリ。元々アリスはこんなでしょ?」


 にっこり笑うノアにしばらく考えていたキリは何かに納得したように頷く。


「そうでした。最近お嬢様は森に入らないのですっかり忘れていました。お嬢様の本質はゴリラでしたね。狼と話す事など造作もない事でした」

「ねぇ、褒めてないよね⁉」


 いつも通りのバセット家に笑い、レスターは皆と別れた。


 きっと馬車の中では泣いてしまうだろうと思っていたが、生憎一緒について来たステラのせいでそうは言っていられなくなった。


 やがて馬車は深い森に入り、抜けるとそこはもうバセット領だ。


 事前に聞いていた通り、バセット領は外からは森に囲まれていて全く見えなかった。自然豊かな、というよりも自然そのものである。


 領内に入ると、領民達が皆手作りの旗を作ってレスターを歓迎してくれていた。



 バセット領に来て毎日が驚きの連続だったが、何よりも驚いたのは毎日どこかで何かが起こるという事だった。その度にレスターやステラまでもが駆り出されてお手伝いをするのだ。 


 最初は棒で支えないと歩けなかったレスターも、気付けばいつの間にか引きずりはするが自分で歩けるようになり、小さな声でしか話せなかったのにそれでは伝わらないと気付き、大きな声を出せるようになった。


「ステラさまー! そっちに行きましたー!」

「はぁ~い!」


 レスターの大声にやっぱり大声で反応したステラは、持っていた大きな虫取り網で逃げ惑う鶏を捕まえる。


「やったわ~!」

「凄いです!」


 パチパチと拍手をするレスターと領民達。最初こそ王子と王妃という事で領民達は気を遣ってくれていたが、ハンナがあまりにも王妃に対しても普通に接するので、気付けば領民達も誰もレスターとステラに気を遣わなくなっていた。


 ステラはバセット領にやってくるなり、護衛が止めるのも聞かず馬車から飛び出してハンナに抱き着き、わんわん泣いた。そんな姿をほとんどの領民達が見ていたのもあったのかもしれない。


 領主のアーサーはそんなステラを見て申し訳なさそうに言った。


『申し訳ありません、王妃さま。ハンナを王宮に返してやれなくて』

『?』

『ハンナは、もう私達の家族です。彼女が居なくなると、途端にうちだけでなくバセット領全体が立ち行かなくなってしまう。それほどまでに、この領地は彼女に支えられています。だから、失礼だとは思いますが、王妃さまには先に謝罪しておこうと思いまして……申し訳ありません』

『旦那さまにこんな事言われちゃ、私も戻れないねぇ。ステラ様、そういう訳だから私は戻れないけど、いつでも遊びに来て構いませんからね。何度か通うときっと、ここがステラ様の第二の故郷だと言えるようになりますよ。私みたいに』


 そう言って笑ったハンナを見て、ステラは素直に頷いた。元よりハンナに王宮に戻れと言うつもりは無かったステラであるが、ハンナの事をこんな風に言ってくれるバセット領は、きっと良い所に違いないとレスターにこっそり教えてくれた。


 翌日からレスターは落ち込んでいる暇など一切無かった。使用人も領主のアーサーも関係なく食事を摂り、朝からまずは体操させられた。


 ハンナによって叩き起こされたステラや護衛の騎士達も眠い目を擦りながら一緒になって体操させられていたのは、レスターも少しだけ笑ってしまった。


 それからアーサーに毎日届けられる嘆願書と言う名のお願いごとをハンナと解決していく。


 ちょっとした失くし物探しや子守り、畑の収穫など、とても領主にするようなお願いごとではなかったが。


 こんな風に色々と起こるバセット領だったが、今日は朝から鶏が逃げるという事件が起こった。森に入るとそこからは動物たちの領域の為、森に入ってしまう前に全て捕まえなくてはならない。


 レスター達は大きな虫取り網を持たされて鶏捕獲に駆り出された。足を引きずりながらも鶏を捕まえると、皆が褒めてくれる。


「良くやった! レスター王子!」

「やるじゃないか!」


 次々と声を掛けてくれるのが嬉しくて、レスターはいつの間にか泥だらけになって鶏を追いかけていた。


「はぁ~楽しかったわねぇ!」


 屋敷に戻るなり泥だらけになった袖で顔を拭う王妃に護衛もハンナも苦笑いである。そんなハンナも護衛達も泥まみれな訳だが。


「さて、温泉温泉~」


 鼻歌を歌いながらまるで自分の家かのようにさっさとお風呂に向かうステラに、護衛達は申し訳なさそうに頭を下げたが、ハンナはそれを一笑した。


「あんた達も入っといで。レスター王子もだよ。それが終わったらすぐに夕飯だからね」


 それを聞いて護衛達は目を輝かせ、我先にと部屋へ戻って行ってしまう。


 もう一つ、レスターが驚いたのはバセット領独特の食事だった。食べた事もない聞いた事もない食事が毎日食卓に並ぶのだ。てっきりレスターだけが知らないのかと思ったが、毎度毎度ステラも護衛達も驚いていたので、どうやらそうではないらしい。


「これはね、お嬢のレシピなんだよ。あの子は寝ぼけて次から次へとおかしなレシピをこさえてねぇ」


 夕食の時にハンナは豚肉の生姜焼きを食べながら言った。


 初めて見る豚料理に最初はいつもの様におっかなびっくりだった騎士たちが一口食べて騒ぎ出す。本来なら王妃が居る前でこんな風に話をしながら食べるなどもってのほかだが、当の王妃が率先して話しているので、騎士達もいつの間にか口々に話しながら食べていた。いや、そもそも王妃と同じ食卓に着く事自体が許されないのだが、そこは皆ハンナに押し切られたのだ。


「そう言えばアリスさんはアイスクリームも教えてくれたわ」

「そうそう! アイスクリームはお嬢の最高傑作ですよ! 私はもうあれが無いと夏は乗り切れないぐらいですから!」

「他にもあるの?」

「そりゃもう沢山ありますとも。ただねぇ、これはここでの秘密にしといてもらえますか? しばらくは」


 そう言って視線を伏せたハンナを見て皆はコクリと頷いた。皆の反応を見てハンナはゆっくりと話し出す。


「お嬢はね、そりゃもう色んなレシピやら不思議な道具を次から次へと思いつくんですよ、昔から。でもね、それをうっかり外に漏らしてしまったら、きっとお嬢を利用しようとする輩が現れると思うんです」

「……そうね。その通りよ。世の中には酷い大人が沢山いるものね……悲しい事だけれど」

「ええ。だから今ね、坊ちゃんがアリス工房っていう会社を立ち上げようとしてるので、それが無事に立ち上がるまではお嬢の考えた物は全部うちの領地だけで抑えている状態なんです。あの子達には言ってませんが、坊ちゃんからその話を聞いた時にアーサー様は二言返事で頷いて、その日の夜には領民達を集めて話し合いをしたほどです。それぐらい、お嬢のひらめきはうちの領地では門外不出なんですよ」

「どうりで……こんな美味しい物がここだけだんなておかしいと思ったのよ。そういう理由があったのね」

「はい。申し訳ないんですけどね、もう少しだけ待ってやってくれませんか?」


 そう言って頭を下げたハンナに続いて、バセット家の使用人達とアーサーが次々に頭を下げて来た。


「もちろんよ! だって、また食べたくなればここに遊びにくればいいのでしょう?」

「そうですねぇ。その時はちゃんと先触れを出してくださいね。サプライズは無しですよ? ステラさま」


 ハンナは苦笑いしつつステラを軽く睨んだ。それを見てステラはシュンと項垂れる。


「……はい」


 こうして、バセット領で見た物や食べた物はしばらく外には出さないという約束が取り付けられた。その代わり、いつ遊びに来てもいいから、というハンナの言葉に対して一人の護衛がおずおずと聞く。


「あのぉハンナさん、俺達もまた来てもいいですか? 護衛としてじゃなくて普通に遊びにとか。あ! もちろんちゃんと手伝いはするんで!」


 そんな護衛にハンナは目を丸くして、次の瞬間には噴き出した。


「当たり前じゃないか! 言ったろ? ここはそういうのは何も気にしないって。王妃も護衛も使用人も王子も、扱いは皆一緒だよ!」


 それを聞いた護衛達は喜んだ。その内護衛を止めて移住する! とか言い出しかねない勢いだ。


 そんな騎士達の反応を見てステラもレスターも声を出して笑った。


 こうして、レスターの新しい人生の始まりがスタートを切ったのだった――。

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