第百七十九話 レイという女

 カインはそれを受け取ると、今度は紙に書いた自分の名前をゴムで擦り始めた。すると、たちまち書いた文字が消えたではないか。


「き……消えた……」


 口元に手を当てて驚くレイと、まさか本当に消えるとは思っていなかったカインとノアも驚いている。


「こ、こういう訳で鉛筆はこのゴムという物で消せるんです」


 完全に動揺してしまったカインがしどろもどろに言うと、その先をキリが繋いでくれた。


「うちのお嬢様はお花畑で粗野ですが、こういう物を発明するのだけは天才的です。このゴムの原料は、隣のフルッタに自生している植物なんです。その植物の樹液を乾かした物がこれなんですが、これだけでは足りない、とお嬢様は言うのです」

「そ、それは何なんですか?」

「硫黄です。このゴムに硫黄を混ぜ、熱を加えてプレスする事で、この鉛筆の字を消す消しゴムという物が完成するそうなのです。それを探しに、私達はこのイフェスティオに来たのです」

「い……おう……」


 イフェスティオに硫黄があるかどうかと言われれば、腐るほどある。何なら有り余っているぐらいだ。昔は火薬の原料に使われたり、火をつける道具として使われていたりしたが、魔法で火を扱う人が多いこの世界では火薬も火付け道具もさして必要ないのである。だから余っている。はっきり言って、困っている。 


 ゴクリと喉を鳴らしたレイは、さっきキリが言った一言を思い出して聞き返した。


「待って、今、これの原料はフルッタで採れるって言った?」

「ええ。ゴムの木という木ですが、それが何か?」

「だ、駄目よ! フルッタは悪魔の泉があるのだから! あそこは果物しかない所で、だからいつもジャスパーは……どんどんやつれて……」


 最後にジャスパーに会ったのは今年の頭だった。その時にはもうジャスパーは痩せこけ、あの学生の時のように輝きに満ちたジャスパーと比べると見る影もなかったのだ。


 幼馴染の自分達はいつも何かを競っていた。それは学園に入ってもだ。


 けれどジャスパーの両親が事故で亡くなり、若くしてジャスパーが家を継がなければならなくなってからというもの、ジャスパーの頭の中には領地の事しか無くなってしまったかのように、いつもいつも経営で追い詰められていた。そんなジャスパーにレイは何度も言ったのだ。イフェスティオと統合しよう、と。もちろんそれはレイの両親も賛成していた。それなのに、ジャスパーは決して首を縦には振らなかった。何故そんな頑ななのかは、今でも分からない。


「悪魔の泉って、もしかして炭酸泉の事ですか?」


 突然のアリスの問いかけに、レイは頷いた。


「炭酸泉というのが何の事なのか分かりませんが、泡立つ泉です」

「うん! それならもう大丈夫だよ! ちゃんと解決済みだから!」

「え?」


 アリスの言ってる意味が分からなくて首を傾げたレイに、アリスは一本の瓶を持っていたバッグの中から取り出した。


「お嬢様、いつの間に」

「へへ。こんな事もあろうかと?」

「……嘘ですね」

「まぁまぁいいじゃん! はい、レイさんも飲んでみて! これが新しいフルッタの特産品だよ。これをチャップマン商会で取り扱う事になったから、フルッタの経済事情はもう何も心配いらないよ!」


 そう言って瓶を差し出してくるアリスから半信半疑で受け取ったレイは、お茶の入っていたカップに中身を注いだ。


「あ、泡立ってる⁉」

「うん! 炭酸だからね。美味しいよ」


 笑顔の圧をかけるアリスにレイは渋々頷くと、カップにそっと口を付けた。泡が唇に触れると、その瞬間からパチパチと弾け、それは口の中でも起こった。喉を通る時にはスカっとした爽快感が残る。


「こ、これは何なの⁉」

「美味しいでしょ? これがあの泉の正体なんだよ。炭酸泉って言って、水の中に炭酸ガスが溶け込んでてね、空気に触れると弾けるの。実は凄く体に良いんだよ。だからあれは悪魔の泉なんかじゃない。むしろ、フルッタの危機を救うんだから、救世主の泉だよ」


 何だかうまい事を言ったと自画自賛して胸を張ったアリスを見透かしたようにキリが後ろから鼻で笑ってくる。


「これ……売れるの?」

「売れる! 夏なんて絶対にぼろ儲けだよ。それに、チャップマン商会に任せておけば大丈夫!」


 リアンとダニエル率いるチャップマン商会は、何せあのグランと契約出来たのだ。


 この事は既にルーデリア国内でも話題になっている。一体どんな魔法を使ったんだ? と周りからは言われるそうだが、ダニエルはそう聞かれるといつも神妙な顔をして、絆かな、とか言うらしい。それを聞くたびにオリバーは良心の呵責に耐えかねて全てを話してしまいそうになるそうだ。


 レイは震える手でカップを握りしめて、ポロリと涙を零した。口元にはほんのり笑みが浮かんでいる。


「そうですか……良かった……これで、彼はもう何も失わなくて済むんですね……」


 ぽつりと呟いた声は炭酸の泡よりも儚かった。


 何もかもを諦めて領主となったジャスパーは、両親だけではなく、大好きなガラス工房を次々と失った。肉体的にも精神的にも、きっと疲れ果てていたはずだ。それを思うと胸が痛くて仕方ない。


「もしかしてレイさん、あなたずっとジャスパーを助けようとしてました?」


 ふと口を開いたノアに、レイは大きく目を見開いた。


「ど、どうしてです?」

「いや、今までの会話を聞いていたらそうとしか思えないと言うか。でもそれ、ジャスパーに誤解されてますよ?」

「えっ⁉」

「ジャスパーはイフェスティオにフルッタが乗っ取られると思い込んでいたので」

「えぇ⁉」


 何でそんな事になっているのだ? レイは本気で分からないと言う様に首を傾げていたが、キリがポンと手を打った。


「もしかしてルイス様タイプでしょうか? 好きな人には恥ずかしくて素直になれないの、的な」

「ああ、なるほどな~。レイちゃん、ジャスパーが好きなの? で、意地悪しちゃう?」


 急に砕けたからかうようなカインの態度にレイは顔を真っ赤にして俯いた。そこに拍車をかけるようにキリが言う。


「ジャスパー様は素直でバカが着くほどのお人好しです。何せ職人を守る為に自分だけが切り詰めて栄養失調でフラつくぐらいですから。そこに輪をかけてあなたが悪魔の泉だの特産物が何も無いだの言ったら、どうなるかぐらい分かるでしょうに。もしかしてあなたの頭もB級おが屑ですか?」


 辛辣なキリの言葉にレイは俯いたまま唇を噛みしめた。どうして今日初めて会った、しかもたかが従者にここまで言われなければならないのだ! 


 けれど、レイは言い返せなかった。全てキリの言う通りだったからだ。追い詰めたのは領地じゃない。自分なのだ。

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