21話:恋なんて気持ち悪い
『…私…実さんが好きだよ』
彼女の優しい声が反響し、ナイフとなって胸に突き刺さる。わたしは彼女からのその言葉を求めていたということを、素直に認められない。
『実さん』
やめて。そんな優しい声でわたしを呼ばないで。貴方にわたしは必要ないくせに。代わりなんて、探せばいくらでもいるくせに。わたしなんて、寂しさを埋めるための道具でしかないくせに。『人の恋心は利用しない』なんて言ったくせに、してるじゃないか。
わたしの恋心を利用して寂しさを埋めようとしてるじゃないか。
彼女なんて大嫌いだ。わたしと同じように苦しめば良い。そう思っていたのに、わたしは彼女が傷つく顔が見たかったはずなのに、いざ彼女に傷ついた顔をされたらどうしようもないくらい胸が傷んだ。
彼女はわたしと同じ苦しみを共有してはくれない。だけど、彼女には彼女の苦しみがあって、わたしはそれを理解することは出来ないのだと気づいてしまった。
『私を傷付けたいからわざわざ毎日呼び出して悪態ついてくるくせに。…いざ本当に傷ついてるって顔されたら、傷付けるつもりはなかったみたいな顔をして。…私もクズだけど、あんたもクズじゃん』
そうだ。わたしもクズだ。そんなこと最初から分かっている。わたしは最初からずっと貴女に一方的な八つ当たりをしている。それなのに彼女はわたしを嫌いにはなってくれない。最低だと責めてはくれても、突き放してはくれない。
『実さんが好きだよ』
そうやって優しい呪いをかけて、わたしを縛り付ける。クズはどっちだ。縛り付けたのはどっちだ。
どっちもどっちだ。
クズで、どうしようもないくらい愚かだ。最低だ。
彼女も…そんな彼女を好きになってしまったわたしも。傷つけて罪悪感を覚えているわたしも。愚かで、醜い。
「…月島さん…」
会いたい。声が聞きたい。触れたい。触れてほしい。わたしは毎晩毎晩、そんな劣情に苦しめられているのに、彼女は同じ苦しみを共有してはくれない。それがどうしようもなく腹立たしい。
わたしは貴女に触れたいのに、貴女と触れ合いたいのに、彼女はわたしでなくともいいと言う。誰でも良いのだと。それが腹立たしくて仕方ない。
『あんたじゃなきゃ駄目だ』と言わせたい。言ってほしい。
「…っ…」
自分の中に湧き上がる彼女に対する劣情に吐き気を催す。彼女とは契約をした。わたし以外の女を抱くなと。それを馬鹿正直に守っているらしい。わたしでなくとも良いと言うくせに。
「月島さん…」
時刻は午後8時過ぎ。今彼女は何をしているのだろう。例えば、今すぐ抱かせろと呼び出したら、彼女は喜んで抱かれに来るのだろうか。
一人暮らしではないため、そんなこと出来やしないが。だけどせめて、声が聞きたい。
「もしもし?」
衝動のままに電話をかけてしまった。話したいことなんて何もないのに、声が聞きたいと言う理由だけで。
「…もしもーし。実さん?」
「…間違えたの。切るわね」
「えっ、おう…」
止めないことが腹立たしい。彼女はわたしの声を聞きたいなんて、微塵も思わないんだろう。今何してるかななんて、気にもしないのだろう。腹立たしい。あぁ、腹立たしい。
「……えっと……切らないんすか?」
「…月島さん、今何してる?」
「あ? 何って…勉強っすけど。明日からテストですし」
「…そう。…テスト勉強なんてしないタイプだと思ってた」
「勉強しないと留年しちゃいますからねー。…あ、何?もしかして邪魔して留年させようとしてます?性格悪いなぁー」
電話越しに彼女はくすくす笑う。カリカリとペンを走らせる音、それから電卓を叩く音が聞こえる。その音はこんこんっと何か叩くような音を合図に止まった。
「実さん、ちょっと席外すね」
彼女の声が遠ざかる。微かに会話が聞こえる。少年のような声。そういえば弟が居ると言っていたな。
「ごめんね実さん。お待たせ」
「…別に待ってません」
「えー?私と話がしたかったんじゃないの?」
「…おめでたい頭してるわね」
「ははっ。実さんのそういう素直じゃないところ嫌いじゃないよ。ところで、実さんは勉強しなくて良いわけ?」
しなくても良いとは言わないが、別に無理にする必要はない。普段から予習復習はしているから。テスト前にするのはテスト後に提出する課題を終わらせることくらいだ。それだって別に1日あれば終わる。提出日の前日でも全然間に合う。
「貴女とは頭の作りが違うのよ」
「まぁそうだろうな。私は即興であんな曲作れないし」
嫌味を言ったつもりだが、通じていないようだ。ため息が漏れてしまう。
この子はこういう子だ。どんな嫌味を言ってもサラッと受け流してくる。
「私さ、青商なんて受かるわけないだろって言われてたんだよ。ダメ元で受けて…なんとか合格したんだ。ついていけんのかなぁって不安だけど…でも、受かったからにはなんとかして三年間しがみつきたい」
「…そんなにギリギリなの?一年の一学期なのに」
「うちの学校の先生達ってさ…『青商生なら説明するまでもないな』って感じでめちゃくちゃ端折って授業進めてくじゃん。…だから私、いつも置いてけぼりにされんのよ。特に数学。うちのクラスは伊藤っていうババ…女の先生なんだけど…分かる?」
「…伊藤先生…」
去年担当だったきららからよく愚痴を聞いた。成績の良くない生徒——特に女子に対して当たりが強い嫌味な先生らしい。
逆に数学が得意な柚樹は気に入られていたが、彼も伊藤先生のことは嫌っていた。どこから嗅ぎつけたか知らないが、会社の話をよくされていたそうだ。
柚樹は家の話をされることを嫌う。私もだ。父親が社長で、お手伝いさんが居て、確かに私達は裕福な暮らしをしている。だけど、金はあったって自由がなければ意味はない。
羨望の眼差しを向ける人は多いが、私はむしろ"普通の家庭"が羨ましい。家族の仲が良くて、他愛もない話で笑いあえて…私には—私達にはそっちの方がよほど贅沢に思える。
「私さ、その伊藤先生に嫌われててさ。…まぁ、反抗的な態度取っちゃう私も良くないんだけど…やたらと私に当たり強くてさ…この間なんか、授業で疑問があったから聞きに行っただけでキレられて。加瀬くんが代わりに同じ質問しに行ったら普通に答えてくれたのにさー…もうあのババアマジでめんどくせぇ…」
愚痴を連ねる彼女が去年のきららと重なる。そういえば、男子生徒にはやけに優しいときららは言っていた。加瀬くんという生徒のことは知っている。部活の後輩だ。あまなつというバンドのギター担当。柚樹がよく彼にギターを教えている。
「…それだけ嫌っててよく手が出ないわね」
「あぁ?私はそんな安い喧嘩買わねぇよ。あのババア殴ったって私にはデメリットしかないじゃん。…殴りたくなる瞬間はいくらでもあるけどさ…そんなくだらねぇことで人生無駄にしたくねぇよ」
彼女は衝動的に人を殴ったりするようなタイプにしか見えないが、実は意外と理性的だ。
…まぁ…彼女に投げ飛ばされたと話す生徒もいるし、実際それを見たという生徒もいるが。
しかし、投げ飛ばされたと主張する生徒達が怪我をしているところを見たことはない。怪我をさせないように手加減しているのだろう。
「…ねぇ、月島さん」
「ん?」
「…勉強、見てあげましょうか。…テスト週間だけ」
「本当?」と彼女の声が弾む。
明日から彼女の家で勉強をする約束を取り付けてしまった。
「じゃあ明日、テスト終わったら門の前で待ってるね」
「…ええ」
彼女には必要以上に近寄らない方が良いのに、昼食を共にしたり、自分から電話をかけたり、勉強を見てあげようかと提案をしたり…。わたしは何をしているのだろう。
側にいたって、近づけば近づくほど苦しくな?るだけなのに。彼女はわたしと同じ想いを返してはくれないのに。わたしを求めてはくれないのに。わたしでなくともいいと言うのに。
なのにわたしは…わたしだけを見てくれなくても、それでも良いから側にいたいなんて…。
あぁ…実に愚かで滑稽だ。神はこんなわたしを見てさぞ楽しそうに笑っているのだろうな。
やはりわたしは彼女が羨ましい。恋という感情に振り回されることなく生きられる彼女が。妬ましい。憎い。
わたしを好きになって、わたしに恋焦がれて、共に苦しんでほしい。
否定されて、蔑まれて、こんなクソみたいな世界に絶望して、絶望のどん底へと落ちるとこまで落ちたら、共にこの世界を抜け出して二人の世界へ行こうと誘いたい。
しかし、そんな願いは叶わない。彼女の周りは希望に満ち溢れているから。彼女がこの世界に絶望することなんてないのだ。
わたしもその光に当てられ、絶望の底へ飛び込むことさえ許されない。
いっそ希望なんて捨てて絶望の底へ飛び込めたら良かったのに。希望なんてほしくなかった。
もっと、もっと、もっと…もっと深く絶望させてほしかった。味方なんていないと、わたしは独りだと、この世界に居る意味なんてないと思うほどに。
「満…」
彼女の名前を呟く。それだけで、吐き気を催すほどの激しい劣情が湧き上がる。
「満…っ…満…」
気持ち悪い。自分の中に湧き上がる激しい劣情が気持ち悪い。あの可愛い彼女をめちゃくちゃにする想像をして自分を慰めている自分が気持ち悪い。
気持ち悪いのに、身体は快楽を求める。
「っ—!」
事が終わると、激しい劣情は消え去り、代わりに虚しさで満たされる。
わたしは一体、何をしているのだろう。
「っ…」
気持ち悪い。気持ち悪い。恋なんて、恋なんて気持ち悪い。こんなの、醜い劣情と何が違うのか。こんな醜い感情を欲しがる彼女が理解出来ない。
こんな感情なんて、ない方が良いに決まっているのに。
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