20話:愛人契約

 あれ以来、柚樹さんは私を見つけると声をかけてくるようになった。"あの悪名高い一条柚樹"と仲良くしていることで心配して近づいてくる人も少なくはない。中には「あいつは危険だから俺にしなよ」などと、下心を持って近づいてくる人もいたが、そいつらは片っ端から投げ倒した。もちろん、怪我させないように手加減してはいる。叩きつけてしまわないように勢いを殺してそっと転がしてやっているだけだ。

 それでも私は少しずつ、"暴力的で危ない女"として噂になり恐れられつつある。しかし、特に気には留めていない。そんな噂が広まろうが私の日常はさほど変わらないから。いつものように友人と登校し、授業を受け、昼は実さんと一緒に食べて、午後の授業を受けて、部活をやって帰る。それの繰り返し。

 避ける人は避ければいい。噂になる前から仲の良い友人達は私が気が強い女だということを知っている。今更噂を聞いて私を恐れて離れることなんてない。

 むしろ、そんな人じゃないよと庇ってくれる人もいる。うみちゃんとか。

 彼女は人の心に入り込む天才で、彼女の言うことは全て正しいと思い込んでしまっている信者も少なくはない。

 彼女の母親もそうだが、あの穏やかな声のトーンや雰囲気が人の心を和らげるのだろう。人の耳に心地良い周波数の声というのがあるらしい。

 意識しているかは分からないが、うみちゃんやうみちゃんの母親の声がそうだと思う。彼女の声を聞いていると落ち着く。

 そんな最強の教祖様が味方についてるのだ。尾鰭の付いた悪評が広まろうが、私の日常には何の悪影響もない。


「…貴女、最近暴れ回ってるらしいわね」


 私の弁当の卵焼きと自分の弁当の卵焼きを入れ替えながら実さんが呟く。よほど庶民の味が気に入ったのか、最近は毎日卵焼きを食べ比べしている。


「これでも大人しくしてる方ですよ。何事もなく穏やかに卒業したいんで」


「…いつか退学になるんじゃないかしら」


「…一緒に退学になります?あ、でもあれか。不純交友は校則違反だけど不純交友は校則違反になるって書いてないもんね」


 そう冗談を言うと、彼女は手を止めて私の膝から弁当をどかしてゆっくりと私を押し倒した。


「…仮に…貴女とここで不純な行為をして見つかったとしても、わたしは貴女に無理矢理襲われたって主張する。大人しい優等生のわたしと、最近暴れ回ってる貴女、周りの人間はどっちを信用するのかしら」


「…さぁ。どうだろうね。試してみる?」


 脅しに対して強気に返すと、彼女はため息を吐いて私の上から退いた。


「…貴女と話してると調子が狂う」


「…だったらなんで毎日毎日私と飯食ってんの?」


「…貴女の顔が苦痛に歪むのを見たいからよ」


「…そう」


 そんな方法いくらでもあるというのに、何一つ実践しようとはしない。毎日毎日、ただただ悪態をつくだけ。

 だけど私もそれが嫌だとは思わない。ボロクソに言われているのに、彼女との会話が楽しいのだ。おかしな話だ。


「…ねぇ」


「何?」


「…柚樹とはしたの?」


「あんた以外とはしないって契約しましたよ私は。…そもそも、女性としか出来ないんすよ。言わなかったっけ?」


 彼女の驚いたような反応を見る限り、言っていなかったようだ。


「…誰でもいいけど男はだめなのね」


「試したことないんでわかんないっすけどね。…信じて貰えないだろうけど、あんたとの契約ちゃんと守ってますよ」


「…馬鹿みたい。そんなことしたってわたしは貴女のものにならないのに」


「…別に私はあんたを自分のものにしたいとは思わないよ」


「それがムカつくのよ」とか彼女は悔しそうに小さく呟く。自分のものにしたいと思われたいということだろうか。

 …やはり彼女、私に恋をしているのだろうか。


『もう二度と女性に恋なんてしたくないのに…になりたいのに…!なんで…なんで貴女なのよ…!』


 以前彼女はそう言っていた。恋に落ちる相手は選べないと、人は口を揃えて言う。そして大半が、人は皆、必ずいずれそれを経験するものだと信じて疑わない。

 実さんのように恋に苦しむ人間は私を羨ましがる。だけど私は逆にそっちが羨ましい。

 彼女が"普通"になりたいと願うのと同じように、私も"普通"になりたい。同性を愛する人は少数派だと言うが、私のように恋をしない人間はさらに少数なのだ。

 あんた達はもう教科書に載るくらい有名になっているじゃないか。知らない人はほとんどいないじゃないか。差別が全くないとは言わないが、私よりは理解してもらえるじゃないか。どこが"普通じゃない"のか。よりは"普通"じゃないか。


「…貴女にはわたしの苦しみなんて一生分からないんでしょうね」


 自分だけが可哀想みたいな顔をして、貴女は傷つかないから良いわよねみたいな顔をして、彼女は呟く。

 確かに彼女の苦しみは分かってやれない。だ

 けど、私だって傷つくよ。人間だから。私だって普通の人間だから。

 …あぁ、そっか、元から彼女は私を傷つけたいんだったな。


「…それはお互い様ですよ」


 そう返すと彼女はハッとして私の顔を見た。ずたずたに傷つけたいなんて言うくせに、そんな罪悪感を覚えたような顔をするんだな。私を傷付けるために一緒にいるくせに。


「ははっ。何その顔。…私を傷付けたいからわざわざ毎日呼び出して悪態ついてくるくせに。…いざ本当に傷ついてるって顔されたら、傷付けるつもりはなかったみたいな顔をして。…私もクズだけど、あんたもクズじゃん」


 私だって彼女を傷付けたいわけじゃない。むしろ助けたいんだ。だから彼女の八つ当たりに付き合っていた。気がすむまでそうしようと。


「…嫌なら…拒めばいいでしょう…わたしなんて放っておけばいいじゃない…」


 彼女の言うとおりだ。

 …助けたいなんて、そんなのは建前で、本当は私も、彼女を傷つけたかったのかもしれない。

 自分だけが可哀想みたいな顔をする彼女にイラついていたのかもしれない。私の苦しみも分かってほしかったのかもしれない。


 ねぇユリエル、今私が実さんに向けているドス黒い感情は、本当に愛なの?愛なんて綺麗なものなの?分からなくなる。


「…そうだね。じゃあそうしようかな」


 弁当を片付けて立ち上がると、引き止められる。私のスカートの裾を掴む手は震えていた。


「…やっぱクソだな。あんた」


 座り直し、俯く彼女の顎を持ち上げる。怯えるような瞳からぽろぽろと涙が溢れる。指で拭い、顔を近づけると彼女はぎゅっと目閉じ、唇を結ぶ。結ばれた唇に、唇を重ねる。つんつんと舌でノックするが開けてくれるわけもない。スカートの中に手を滑らせるとそっちに気を取られ、結ばれた唇が緩んだ。隙をついて舌を入れる。


「っ!っ…!」


 抵抗する身体を押さえつけ、彼女の唇を貪る。しばらくして離してやると、彼女は息を切らしながら私を睨んだ。


「…行かないでほしいならさ…どうしたら私を繋ぎ止めておけるかなんて、分かりきってるでしょう?」


 彼女の耳元で囁く。


「…クズめ…」


「…お互い様だろ」


「っ…」


 胸ぐらを掴まれ、押し倒される。憎しみに満ちた瞳が私を見下ろす。


「…ようやくその気になりました?」


「お望み通りめちゃくちゃにしてやるわよ。わたしを煽ったことを後悔するくらいに」


「ははっ。強気ですね。処女のくせに」


「貴女みたいに節操が無いよりマシよ」


 するりと、制服のリボンが解かれる。

 ブレザーのボタンが一つ一つ外されていく。

 全て外れたところで、次はブラウスのボタンに彼女の手が掛かる。

 震えた手でボタンを外す。一つ、二つ、三つ…。そこまで外され素肌が露わになったところで手が止まった。ぽつぽつと、露出した胸に雨が降り落ちる。

 その雨が、私の激しい苛立ちや劣情を洗い流してしまう。

 何をさせているんだろうか私は。そんな顔をさせたいわけじゃないはずなのに。


「…実さん」


 身体を起こすと彼女は怯えるように身を引いた。少々強引に抱きしめる。


「…実さん…」


「っ…離せ…」


 力を抜く。しかし彼女は突き飛ばそうとしない。


「…っ…お願い…優しくしないで…」


「…うん。…嫌いでいいよ。…突き放しなよ」


「…出来ないから…苦しいのよ…」


「…どうして?」


 その答えは彼女の心臓が語っている。平常時よりかなり早い心臓の鼓動が。


「貴女なんて好きになりたくないのに…わたしの心はわたしの言うことを聞いてはくれない…」


「…私の心も言うこと聞かないよ。…あんたを好きになりたいのに」


「恋なんて知ったって苦しいだけなのに」


「恋が分からないのも辛いですよ。みんなが当たり前のようにする好きな人の話に、私は混ざることが出来ない」


 腕に少し力を込め、彼女の頭を自分の胸に押し当てる。


「…ドキドキしてないでしょ」


 逆に、掴んだ彼女の手首から伝わる脈は早い。

 だけどそれが私にうつったりはしない。


「…ごめんなさい」


 私の肩に頭を埋め、彼女は何度もそう呟いた。謝罪の言葉を呟くたびに震え、小さくなっていく身体を抱きしめる。

 押し返して抵抗するが、その手に力は一切入っていない。


「…やめて…優しくしないで…貴女を嫌いでいさせて…」


「…私を嫌いになったって、あんたはいずれまた恋に落ちるんでしょ。…女性との恋に。…どれだけ望んだって、男性を好きになれることはないんでしょう?」


「っ…でも…わたしは…だめなの…だめなのよ…同性を愛してはいけないの…」


「…恋をする度にこうやって自分と、自分が恋した相手を傷つけるんですか。…やめなよ。そんなこと続けてたらいつか殺されるよ。自分自身に…あるいは傷つけた女性に」


「…なら…貴女がわたしを殺して…」


 泣きながら彼女は呟く。出来るわけないだろう。…そんなこときっと、彼女も分かっていると信じたい。


「…一回…いや、何回か抱いてからでいい?」


 茶化す空気ではなかった。だけど、茶化さずにはいられなかった。


「…最低ね…ほんと最低…クズ…」


「…軽蔑した?嫌いになった?」


「…なれたら…苦労しないわ…」


「…そうだよね」


 恐る恐る、彼女の腕が私の背中に回される。


「…契約…何で破らないの。…わたしじゃなくてもいいんでしょう…」


「…うん。あんたじゃなくてもいいよ。…でも…どうしても放っておけないんだ」


「…わたしが…貴女の友達に似てるから?」


「…そう。…死にたいって泣いていたあの子に」


「…その子は…命を絶ってしまったの?」


「…ううん。大丈夫。生きてるよ。…今は彼女が出来て、毎日幸せそうに笑ってる。…あの頃の面影は…全くないとはまだ言えないけど、ほとんど無くなった。あいつにはもう私は必要ない」


「…寂しくないんですか」


「…寂しいよ。どうしようもないくらい寂しい。…でも、あいつの恋路を邪魔しようとは思わない。あいつがせっかく掴んだ幸せを壊したくはないから」


「…わたしはその子の代わりですか」


「…悪く言えばそうだね。…でも…」


 でも…?その続きは何を言おうとしたのだろうか。分からなくなり、言葉に詰まってしまい、沈黙が流れる。


「…私…実さんが好きだよ」


 呟いてしまった言葉に自分でも驚く。彼女の心臓の音が加速したのが分かる。なのに…。

 なのにやっぱり私の心は静かだ。


「…ごめん。…私の好きは多分、あんたの好きとは違うんだ。…人として好きって意味。恋ではないと思う。あんたを独り占めしたいっていう、強い想いはない。でも…なんだかんだで真面目で…優しいし…何より、あんたの弾くヴァイオリンが好き」


 彼女を抱いたままぽつりと溢すと、彼女はようやく私を突き放し立ち上がった。乱れた制服を直しながら何をするのかと彼女の動向を見守っていると、楽器ケースから楽器を取り出し始めた。ヴァイオリンだ。


「…貴女、どういう曲が好き?」


「えっ、リクエストしていいの?」


「…分かる曲なら弾いてあげる」


「えっと…じゃあ…」


 普段聴く曲を片っ端から上げてみる。10曲くらいあげたが、全て分からないと却下された。


「…貴女、マイナーな曲しか聴かないのね」


「いや、ドラマの主題歌とかありましたけど」


「テレビ見ないから分からない」


「…あんた、カラオケ行ったら何歌うんだよ…」


 一度カラオケに行ったことはあるが、あの日は一曲も歌わなかった。


「…合唱曲とか…教科書に載ってる曲とか…あとは友達が教えてくれた曲とか…」


「…合唱曲ってカラオケにあるんだ」


「…他にないの?」


「…んー…あとアニソンしかないからなぁ…アニメ見ないっしょ?」


「そうね。…じゃあ、イメージを聞かせて。落ち着いた曲が好きとか、明るい曲が好きとか…あるでしょう。そういうの」


「…幻想的な曲が好きですね。"彼方かなたはるか"とか」


「…その人は知らないけど…まぁ良いわ。…幻想的な曲ね」


 ふぅ…と息を吐き、実さんがヴァイオリンを構える。軽く何音か鳴らして音をチェックした後、静かな旋律が奏でられる。夜の森みたいに静かな曲だ。目を閉じると、風が木の葉を揺らす音、それから微かにフクロウの声が聞こえる。青白い月の明かりだけがあたりを照らしている。明かりはそれだけなのに、充分明るい。

 その明かりがスポットライトのように、ヴァイオリンを弾く淡い水色のドレス姿の実さんを照らしていた。ゆらゆらとドレスの裾を揺らしてリズムを取りながら優しい旋律を奏でるその姿はまるで、森の精霊みたいだった。




「…ちょっと、何寝てるのよ」


「…!」


 彼女の不機嫌そうな声で現実に戻る。淡い水色のドレスは着ておらず、制服を着ている。夢を見ていたようだが、まだあの光景が生々しく思い出せる。


「…ちゃんと聴いてましたよ。…今の、何の曲?クラッシック?」


「…もう一度同じ曲弾けと言われても無理よ。…即興で弾いたから」


「…実さんが作ったってこと?」


「…えぇ。今作った」


「…今」


「今」


 "幻想的な曲"というイメージを聞いてからあの一瞬で、私を夜の森へ誘ったあの曲を作ったというのか。


「…すげぇな。あんた」


「…お気に召したかしら」


「うん。めっちゃ良かった」


「…寝てたくせに」


「ちゃんと聴いてたって。…引き込まれて、夢を見てた。あんたが月明かりに照らされながら淡い水色のドレス着て夜の森でヴァイオリン弾いてる夢」


「…どんな夢ですか。…でも、夜の森ね。…そう」


「…そういうイメージの曲であってた?」


「…そうね。月と森はイメージして弾いてたわ。…ドレスは知らないけど」


「森の精霊みたいだったよ。実さん」


「…あぁそうですか」


 ため息をつくとヴァイオリンを綺麗に拭き、ケースにしまう。そして私の隣に戻ってくると、頭を私の肩に預けた。恐る恐る握られた手を握り返す。


「…わたし以外に優しくしないで」


「…それは無理です。でも…あんた以外を抱かないっていう今してる契約なら、守れます」


「…なら…契約は継続しなさい」


「…実さんがたまには相手してくれることが条件ですよ?」


「…わたしがしたい時だけよ」


「…私がしたいときは?」


 彼女は答えない。答えを待っていると、くるりと私の方を向き直し、私にしがみついた。震えるその身体を抱きしめ返す。


「…貴女との関係は恋人じゃないから。…だから…好きなんて言わないし…言わないで」


 そう呟いた彼女の身体は酷く震えていた。


「…この関係の名称が、恋人になる日は来ますか?」


 その問いに対する答えは、その日いくら待っても返って来なかった。

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