第3話 プルースト効果はどこまで効力を発揮するのか
あの味が食べたい!
そう、あの味。
そんな味があなたにもありますね。
残念ながら、実際、その味は二度と味わうことは出来ないのです。
その味は当時の思い出と共に、記憶の中だけに存在して、日々摩滅する感覚と共には再現することができないのだから。
たとえ同じものを食べても、あの時の味とは別の味なのです。
きっと今際の際に、走馬灯を見る時にだけ蘇るのでしょう。
その時まで、楽しみはとっとおきましょう。
必ず味わえるはずです。
⋯⋯と、そういう抒情的な話をしているのではないのだ。
今回は、魚醤の話をしようと思う。
私は、自宅から半径500メートル以内でもっとも魚醤を使っている主婦だと自負している。
都会とはとても言えない場所だが、半径1キロメートルに広げると、ベトナム料理屋さんがあるから負けてしまうかもしれない。
娘の同級生に韓国のママさんがいて、彼女も魚醤使いだ。中々の手練れだが、私ほどではあるまい。
日本で手に入る魚醤には様々な種類がある。
ナンプラー、しょっつる、いしる、ヌクマム、ユールー、パティス。
クサヤ汁とアンチョビも仲間に入れたいが、今回はやめておこう。
他にも海老醤油、鮭醤油、アミ醤油、地方物産展に行けば、その地方で取れる様々な魚介類の魚醤が売られている。
You !
何故魚醤を使わない?!
⋯⋯あ、臭いからだよね。
魚醤はあなたの料理を劇的に美味しくする。
焼き飯が一味足りない、そんな時に一垂らし。
旨味に満ちた匂いが立ち上る。
しかし、その臭いが苦手な人は多かろう。
ナシゴレンまで寄せる必要はない、一垂らしでいいのだ。
ナムルの味がぼんやりする?
そんな時に隠し味として醤油の代わりに。
これは魚醤仲間の韓国ママから教わったものだ。
キムチを漬ける時、チゲ鍋をする時、韓国料理の隠し味に魚醤は欠かせない。
生春巻きのあのタレかい?
ナンプラーにレモンと砂糖とニンニクで代用が効くから是非作ってみて欲しい。
白ご飯で作ったオムライスにケチャップで落書きした後に、この甘臭いタレをかけても美味しい。
超裏メニューなのでおすすめはしない。
グリーンカレー?
もちろん入れる。
魚醤あってのグリーンカレーだ。
カフェで食べる奴より美味くできる。
ランチセットで750円はとりたい。
さて、ここからが魚醤を使う量に差が出るところだ。
魚醤をイタリアンに使おう!
イタリアではトマト文化が広がる以前から魚醤を使ってきたそうで、コラトゥーラという魚醤がある。
イタリアのマンマの味、ヌテラだが、どうにも日本で買えるオーストラリア産のものとヨーロッパで買えるものと味が違うので、友人が日本に帰ってくる時に大きな瓶で買ってもらっている。それに加えて、コラトゥーラを頼もうとしたら、漏れた時にクサ死ぬからと断られた。
味わってみたい本場のコラトゥーラ。
引きこもりの私はすぐにネットで検索する。
なんだ、買えるでないか!
まぁ、世界でもお馴染み、このフラインググースのナンプラーを使い切ってからだ。
まずは、シンプルなパスタを作るときに塩味として使う。
風味が飛ばないように最後に入れるらしいが、刺激的なので私は少し火を入れる。
ペペロンチーノを作って、塩加減を整えるのに使うとちょうどいい。
うちではナンプラーで味付けしたパスタに「下品な味のパスタ」というありがたくない二つ名がついたが、夫はペペロンチーノではなく上等な旨味の「下品な味のパスタ」ばかり食べるようになった。
トマトソースの隠し味にするも良し。
イタリアの人がトマトソースを作る時に、昆布茶を入れているレシピをどこかでみたことがある。
なるほど、海から来た味を足すことは肯定されているのだと解釈した。
トマトに入れる玉ねぎは多くても少なくてもいけない。
ニンニクは多めに、コクを出すために粉チーズを大匙一入れる。
そして塩味の調整に魚醤を投入。
なんの問題もないトマトソースが出来上がる。
魚醤を身近に感じられるようになって頂けただろうか?
さて、話は冒頭へ戻る。
生きているうちにあの味には出会えまいと諦めつつある味がある。
とあるベトナム料理屋のフォーだ。
学生時に何度か入ったあの店は、もう地図上にはない。
さあ、二度と味わえない思い出を偲んで、今夜は魚醤をたっぷりと使う、フォーもどきを作ろう。
ベトナムの様々な文化を取り入れてきた歴史に想いを馳せながら、自己流で作るなんちゃって料理だ。
わたしは過去、何度もあの味の再現を試みてきた。
輸入食材店で初めて魚醤を買ったのは、あの味を再現する為だったように思う。
今の所、成功するには至っていない。
鍋に水を張り、中華スープとコンソメとを半分ずつ入れる。
玉ねぎをスライスして鍋に入れて出汁にしよう。
コロナ自粛が始まって以来、筋トレを始めた私は、コンビニで売っているサラダチキンを冷蔵庫にストックしている。
深夜、目覚まし代わりに筋トレをして、私の脆弱な筋肉はタンパク質を欲していた。
今日はサラダチキンがトッピングだ。
少しの生姜とナンプラーで味を整える。
旨味調味料は嫌いかね?
体に悪いと思っている?
そんな事を考えているストレスの方が、体に悪いのだよ。
たっぷり入れよう、白い粉。
ライムはないから食卓レモンでいい。
そうだ、パクチーが欲しい!
慌てるなかれ。
義母が、庭に撒いたら雑草ほど増えたからと送ってきたのを冷凍してあるではないか。
砂糖はシュガーポットごと出しておく。
汁の準備はこれで大丈夫。
麺は、もちろん米の麺があればいいのだが、これは個人が個人の為に作る夜食だ。
フォーだと思えばフォーになる。
代用として、夏の残りの素麺を使おう。
やや伸び気味に茹でるのがコツだ。
フォーにコシは必要ない。
お前はフォーだ、お前はフォーなのだと呪文を唱える。
麺に汁を入れて、もやしを⋯⋯
もやし!
決してもやしを茹でてはいかん。
もやしは生で山盛り乗せるのだ。
薄く切ったサラダチキンを乗せて。
フォーのかけらもないが、これはフォーなのだよ。
素麺に言い聞かせる。
啜るか啜らないかは、個人の自由だが、フォーの場合は麺をレンゲに乗せてゆっくり食べるスタイルを推したい。
辺見庸氏の「もの食う人々」という本に倣ってのことだ。
まあ、自分で言うのもなんだが、割と美味い。
美味いが、やはりあの味ではない。
ナンプラーの香りが、記憶を呼び起こす。
あの味はもっと濃厚で魚介の味が濃かったはずだ。
飽きてきた所で、砂糖をひと匙入れる。
きっとあのフォーは、店の秘密のレシピだったのだ。
あの店が無くなって、そこで働いていた料理人は、どこかであの味を作り続けているのだろうか。
あの頃の自分と、今の自分との隔たりも感じつつ、当時のことを思い出しながら箸とレンゲを進める。
少し甘い味は好きだが、変化をつけるためにタバスコを取り出す。
シラチャーソースがあれば、それも悪くない。
しかし、突発的な思いつきから始まるB級的な夜食では、タバスコで代用してかまわない。
甘辛いスープにふやけた麺、生のもやしがすごく合う。
そういえばあの店で出していた生春巻きは、スイートチリソースではなく、甜麺醤のような黒く甘いソースで提供されていたっけ。
魚醤の香り漂うキッチンでぼーっと記憶に囚われながら、フォーもどきを口に運ぶ。
さぁ、レモンを入れてしまおう。
甘辛さに酸味が入れば完璧だ。
汁も飲もう。
体にいい物がさっぱり入っていない汁だが、白い粉のお陰で旨味抜群だ。
音も無くドアが開けられる。
娘が眠そうに立っていた。
「⋯⋯なんか臭いんだけど」
「あ、ごめん。におう?」
「なに食べてんの?」
「えと……そうめん?」
気持ちはフォーだったんだがなぁ。
魚醤の匂いは、何度でも私をあのお店へ誘うのだ。
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