タケ
一方、時を同じくして現実世界は東京。秋葉原の雑踏の中に悪魔のような男が一人、「その時」が来るのを待っていた。
もうそろそろだ。あの女がビラ配りにやって来る時間だ。シフトが変わっていない限り、休暇を取っていない限り、あの女は必ず来る。
男はゲームセンターの前で、長い前髪で見え隠れしている両目をギョロギョロとして辺りの様子を伺っていた。着ている真っ黒のパーカーのフードを頭にかけたり外したり、落ち着かない様子は明らかに周囲から浮いている。しかし周りの誰も、彼に目を止める者はいなかった。
男の内心は不気味に高揚していた。これから起こる白昼堂々の人殺しなど誰も予期することなど出来ない。今この瞬間、俺だけが知っている。日本中に駆け巡る凄惨な殺人事件がこれから起こることを。
腕時計に目をやる。15時。来るぞ……。道路を挟んで向かいの路地から、黒いメイド服に身をまとった背の小さい女が歩いてくる。男は彼女の姿を見た時、思わず堪えていた涙を流してしまった。
「ゆったん……」
ゆったんとはそのメイドの女の呼び名である。男はゆったんの働いているメイドカフェに入り浸る常連の太客だった。しかしつい先日、男はゆったんが彼氏らしきイケメンと一緒にラブホテルに入っていくところを偶然目撃してしまったのであった。男の一方的な逆恨みである。
ゆったんが横断歩道を渡ってこちらにやって来た。いつもと同じ定位置に立つと、手慣れた様子でビラを配り始める。
男はおもむろにリュックを地面に下ろし、ごそごそと中からサバイバルナイフを取り出した。
ぎゅっと両手で握りしめ、ゆったんを睨み付けた。その時、ぱっと二人の目が合った。
「あ! タケル君! おーい!」
ゆったんは男を見つけると無邪気な笑顔で大きく手を振る。ぶんぶん手を振るものだから、持っていビラを何枚か落っことし、風に飛ばされてしまった。大慌てで飛んでいくビラを追いかけるドジなゆったんを尻目に、男は泣いていた。ナイフを握りしめたまま、膝から崩れ落ち、人目を憚らず号泣していた。
「そんな物騒なもの持って、何してんの?」
男の目の前に現れたのは警察官だった。男は訳が分からなかった。
「どうしたの? 話聞かせてもらえるかな?」
男は気が動転した。当初の予定では、ゆったんを殺して、自分も死ぬはずだった。こんな予定ではなかった。
気が付いたら男は走り出していた。周りの音が何も聞こえない。そして男の目には、ゆったん一人だけしか映っていない。ゆったんは、目を見開き、悲鳴を上げている。
「うおおおおおおお!!」
男はサバイバルナイフをゆったんに突きつけたまま、突進していく。その時、ゆったんの目付きが変わった。
「ん?」
男の体が動かなくなった。走っているその状態で、少し宙に浮いたようなその状態で、ぴたっと体が動かなくなった。目の前に見える景色も、全て時が止まったように動かなくなっている。
「ちっ。めんどくせーな……」
ゆったんが頭をボリボリかきながら近付いてくる。
「ふざけんなお前! 計画が狂ったじゃねえかよ!」
「はい?」
どうやら声だけは出せるようだ。
「私はね、今この女の体を借りてんの。この女が死んだら、私も死ぬわけ」
「へ? ゆったんじゃないの? 声が、別人みたい……」
「私はね、別の世界で魔王やってんの」
「ええ!?」
「今から私はアンタに乗り移って、元の世界に帰ろうとしてた所だったの! それが何でアンタがこの女を殺そうとしてんのよ!」
「俺に乗り移る?」
「アンタが今日のこの時間に、あの場所に来るのは分かっていたわ。私は未来予知ができるから。でもアンタがこの女を殺そうとする未来は見えなかった……アンタ一体、どんな手を使ったの?」
「いや、特に何も……」
「嘘はやめて。アンタは今、未来をねじ曲げたの。これは立派な魔法よ」
「まま、まほう!?」
「地球じゃそう言うんでしょ? イメージしやすく言葉を選んであげてんのよ。というか魔法を使える地球人がいるなんて初耳だわ……アンタ、面白いかも」
「なな、なんなんですか? やめ……やめて! こっち来ないでぇ!」
「騒ぐなやかましい! じっとしてろ!」
ゆったんの姿をした魔王はタケルのおでこを、指で小突いた。するとタケルの体が動くようになった。
「うわあ! びっくりした……一体、さっきから何なんですか? ちょっと、パニックですよこっちは!」
「アンタは今この地球で一番生きてて価値の無い人間のはずだった。だからアンタの体を奪って元の世界に帰ろうとしてた。アンタがいなくなって困る人間が一人もいないから」
「はは。確かにそうだけど……」
「親もいないんだろ?」
「ああ。俺は捨て子だから……」
「ふっ」
「笑わないで下さいよ」
「気が変わった。お前の体は乗っ取らない。この女の体のまま元の世界に帰ろう」
「え! ゆったんはどうなるの?」
「地球じゃあ行方不明ってことになるだろうな。この女は多くの人間に愛されている。大きな悲しみを産み出してしまうことになる。しかしもうしょうがない。予定変更だ」
「ゆったんに会えなくなっちゃうってこと? ゆったんのいない世界なんて……」
「元々殺すつもりだった癖に何を言ってるんだ? あと何か勘違いしているようだが、アンタも一緒に連れてくぞ」
「は?」
「アンタは私の従順な下僕になってもらう。そして、勇者から私のことを守ってもらう」
「はあ!? 勇者?」
「未来予知によると、今まさに向こうの世界で勇者が誕生している予定だ」
「俺は行かないぞ」
「黙れ、今からアンタは私の下僕だ。名前はタケと呼ぼう」
魔王は両手を合わせて合掌すると何やら呪文を唱え始めた。足元に魔方陣が現れ、そこから赤い光が伸びてきて、柱のようになった。タケと魔王は赤い光の中に、溶けるようにしていなくなった。二人がいなくなると、止まっていた時が動き始めた。
走っていた警察官が立ち止まった。
私は今、誰を追いかけていたんだっけ?
警察官は首を捻った。
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