うさぎのベンジャミン

本条凛子

第1話 すみれのパンケーキ

「もうこんな時期かあ」


 どしんどしんと音を立て、ベンジャミンは家の屋上に急いだ。ハドソン夫妻に渡すものがそこにあるからだ。

 小さなお花のお礼には大きなお花で。

 ベンジャミンの家にはおばあちゃんがここに嫁いできた頃からずっと居座っているつるバラがある。季節に関係なく気まぐれに咲くつるバラは、家をとうとう覆い尽くしてしまった。

 とげとげはないけれど。

 葉っぱはくすぐったいんだ。

 踏まないように慎重に。

 今日も気まぐれにつるバラが咲いている。初恋の吐息の色は淡いローズピンク。鼻を近づければ、甘い香りがこちょこちょとくすぐった。

 くしゃみをこらえて銀の鋏でチョキン。


「お代だよ、ハドソンさん」

「このバラの蜜、大好きで子どもたちが取り合うんだ」

「そりゃあそうさ。僕が大事に育てているんだから。……けど人気がありすぎるのはよくないね。ミツバチのマヤンさん一家が喧嘩しちゃって」


 ベンジャミンが困った顔で言うと、ハドソン夫妻はおかしそうに笑った。

 その様子にベンジャミンは頬を膨らませる。真っ白い風船が二つできてしまった。


「大変だったんだよ。家の周りがブンブン煩くって、みんな熱くなっちゃってさ。おかげで次の日寝不足でフラフラさ」


 つるバラのお礼はたくさんの蜂蜜だった。まだ残っていることをハドソン夫妻には黙っておこう。マヤンさんの蜂蜜は美味しいから、きっとおくれよ、と言うに違いない。


「ごめんごめん。あの大家族は大変だろうねえ。でも元気なことはいいことだよ」

「そうかなあ」

「そうさ」


 家に一人のベンジャミンにはさっぱりわからない。

 ハドソン夫妻は好きなだけ喋ると満足げに帰って行った。初恋の吐息色のつるバラをくわえて。

 残されたベンジャミンは寝室に戻った。

 もう一度、ベッドに潜り込もうか迷って結局すみれの花を集めることにした。


 ぐう、ぐう、ぐう。


 お腹の虫が鳴って朝食がまだだったことを思い出す。

 すみれの花を集めたら。

 ふくよかな体にお母さんが縫った大きいシャツとズボンを。

 その上におばあちゃんからもらったフリルのエプロンを。

 組み上げた水で洗った顔に、おじいちゃんとお父さんが使っていた古ぼけた丸眼鏡を。


 これでバッチリだ。


 ふんふん鼻を鳴らしながらキッチンへ。

 すみれの花を花瓶に生けて朝ごはんだ。


 フライパンを持った?

 黒いヴィンテージのフライパンだよ。おばあちゃんからお母さん。お母さんからベンジャミンへ。渡り鳥のように受け継いだ、食いしん坊の宝物。

 大きな戸棚から昨日買ったばかりの小麦粉とベーキングパウダーを。

 ピンクの冷蔵庫はベンジャミンのお気に入り。卵と牛乳が入ってる。

 今日は甘い朝を迎えたいから、砂糖も忘れちゃいけないね。

 ボウルに全部入れたらがしゃんがしょんと混ぜちゃおう。



 がしゃんがしょん。


 卵がつぶれて真っ黄っき。


 がしゃんがしょん。


 砂糖と小麦粉、雪のよう。


 がしゃんがしょん。


 全部がボウルのなかで一つになって、お月さま。



 油をそっとフライパンに垂らしたら。おたまですくったお月さまを流しこむ。


 形は丸くしないとね。

 少し待つんだ。

 急いじゃだめだよ。


 ぷっ、ぷつ、ぷっ、ぷつ。


 出てきた、たくさんの丸いクレーター。

 ここでいいんだ、ひっくり返そう。

 ご覧よ。

 いい色合いの焼き目だ。琥珀を焦がしたみたいでいいじゃないか。


「しまった、お皿を用意するのを忘れてた」


 今のうちに、とベンジャミンは食器棚を開ける。中にあるのは全部おばあちゃんが大事に大事に集めたコレクション。

 たかがお皿、されどお皿。おばあちゃんの口癖を思い出す。そうだね。毎日お皿は特別なものじゃないと意味がない。ベンジャミンはすみれ柄の白く平たいお皿を取り出した。ついさっき見ていた夢に出てきたお皿にそっくりだ。

 もしかして春を告げていたのかもしれない。

 楽しくなってベンジャミンはパンケーキをたくさん焼いた。

 一枚、二枚、三枚……すみれのお皿の上に結局一〇枚乗ってしまう。

 焼いている間に真っ赤なやかんでお湯を沸かしてコーヒーを。

 まだあつあつ出来立てのパンケーキのうちにやることはたくさんある。

 バターを切って、マヤンさんからもらった蜂蜜を今日で全部使おう。ふんわり生地の上を甘い甘い蜂蜜がゆっくり滑って、広がって、中にも染みていく。バターも温かさに包まれて溶けていった。

 最後の仕上げに、去年作って保存していたすみれの砂糖漬けを全部のせてしまおう。


 すみれと琥珀とお月さまと……。


 なんて贅沢な朝だろう。

 お腹が幸せになるに決まっている。


 鼻をふんふんと動かせば、香ばしさと甘さが届いてよだれが止まらない。わずかに香るすみれもいい。

 ベンジャミンはエプロンを脱ぐことを忘れてナイフとフォークを取り出して、パンケーキを食べる。

 ふわふわ。

 あつあつ。

 とろとろ。

 あまあま。


「美味しい……」


 二度寝をしなかった甲斐があるというもの。

 一枚ぺろりと平らげてしまったけれど、大丈夫。

 たくさん焼いたんだから。朝ごはんは簡単には終わらない。

 だって太っちょうさぎのベンジャミンは怠惰なうさぎ。

 仕事をするのはいつだって自分の気分次第。


 朝ごはんが終わったら、何をしよう。

 家の掃除はゆっくり昨日したから。

 お仕事は締め切りはとうの昔。

 チラリと見えたキッチンを彩る紫にピンときた。


「すみれの砂糖漬けを作らなきゃ!」



 お仕事も大事だよ、ベンジャミン。

 聞こえやしないね。

 パンケーキにまた夢中。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うさぎのベンジャミン 本条凛子 @honzyo-1201

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ