十和里山伝説「紡ぎの時計」第七幕 世迷い事

十和里山伝説「紡ぎの時計」

作者:神崎 小太郎

第七幕 世迷い事





※誤字脱字・構文など

> 遥か彼方の遠い過去を振り返れば、道すがら何度も死にかけたことがある。

⇒「道すがら」ですが「道を行きながら。途中」の意です。生きてきた道のりということであれば比喩として成立はします。ただ「道を行きながら何度も死にかけたことがある。」だと少しおかしな文章かなと思えます。「何度も死にかけている。」が適切かなと。「ことがある。」は「たまにはそうなったのも幾度かある」意味合いがあります。「何度も」と相反する表現なので、「何度も死にかけている。」がベストですね。「ことがある。」を活かしたいなら「道すがら死にかけたことが(幾度か/何度か)ある。」かなと。「何度も」はかなりの回数であり、「何度か」はそれほど多くない回数を指します。

 そう考えると「道すがら何度か死にかけたことがある。」と「何度か」にすることで回数を絞り込めます。


> 一番最初の出来事は、まだ小学生の低学年の頃でした。

⇒「一番」と「最」は同じ意味なので重複表現です。「最初の出来事は、」でよいでしよう。

 また「でした。」は丁寧語「です」の過去形ですから、この小説は一人称視点であることから「まだ小学生の低学年の頃だった。」ですね。


> まるで悲しい予兆のごとく少女の羽から綿毛が風に乗って離れ、はね色を焼け焦げた醜い蛾のように変えてゆく。

⇒「はね色を焼け焦げた醜い蛾のように変えてゆく。」は「羽の色を焼け焦げた醜い蛾のように変えてゆく。」のことかなと思います。それ場合は「焼け焦げた醜い蛾のように羽の色を変えてゆく。」と書けば係り受けがわかりやすくなります。


>いや、ともすれば本当に死でいても不思議でなかったのかもしれない。

⇒「死んでいても」ですね。

 「死んでいても不思議ではなかったのかもしれない。」は「死んでいても不思議ではなかった。」「死んでいたかもしれなかった。」が合わさったように見えます。文意がどちらかであればそちらに変えてください。


>僕の終焉のときを覚悟していたのかもしれません。

⇒ここも丁寧語の「ません」が使われています。「覚悟していたのかもしれない。」ですね。

 ちょっと気になったのですが、この地の文を根本さんと薫に語って聞かせているのでしょうか。その場合丁寧語の使い方が重要になってくるのですが。あえて丁寧語を使っている部分を出すことで、語り聞かせている効果を出すことはできますが、それなら語って聞かせている部分は丁寧語になるのが一般的です。ところどころ丁寧語を使うので違和感が出てしまっています。


> 暫しして窓から柔らかな光が届き、疑う余地なく勇希と呼ぶ声で目を覚ますと、両親がベッドサイドに寄り添っている。

⇒「しばらくして」かなと。「しばし」は副詞です。「しばらく」も副詞ですが「する」動詞の形がとれますので、「〜して」をとるのであれば「しばらくして」が正しいですね。





寸評

 勇希くんの過去話。臨死体験の状況ですね。

 蝶の存在がひじょうに印象的ですね。その姿は勇希くんの生き延びたい願望が形をとったようなメタファーを感じます。

 過酷な体験を語って聞かせているのかな、と思います。まだ次話は読んでいないのですが。

 命を助けようとしていた人々との触れ合いと、それにより医師を目指す動機となったこと。動機が提示されたことで医学部に進んだ理由もわかって、効率的な展開ですね。


 この作品はリアリティーを高めることで真価を発揮すると思いました。

 今話も、臨死体験のリアリティーを書くことで、単なる現代劇以上の質があるとみなせます。




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