第32話 妹のこと
「……美春の件も、最初は全く気がついていなかった。……いや、いい。話を聞いてくれ」
彼がお茶を飲み干してしまったから、お代わりを入れようとしたが止められる。
何かをして気持ちを落ち着けようとしていたのだが、失敗してしまった。
座れというジェスチャーをされ、俺は素直に従う。
「結婚の話を進めていくうちに、違和感が出てきた。一つ一つは取るに足らないワガママだったが、それは今までの姿とはかけ離れていたんだ」
俺にバレたことは分かっているのに、そんなすぐにボロを出してしまったのか。
これでは、俺の決意や努力が水の泡である。
今まで上手くやっていたのに、どうしてこんなすぐに。
顔には出さずに、脳内で頭を抱える。
「婚約者だから、わがままも可愛いものだった。物をねだられても、全然苦じゃなかった」
「それなら何故?」
わがままなところも可愛いと思っていたのなら、一体何が駄目だったのか。
「男と出来ていた」
「なっ!?」
なんて馬鹿なことを。
思わず表情が崩れてしまうぐらい、その内容はありえなかった。
透真様に選ばれ、結婚が間近であったのに、どうして他の男に目が向けられるのか。
妹の考えが、俺には全く理解できない。
「それは確かなんですか?」
あまりに信じられなくて、俺は冗談じゃないのかと確認してしまう。
しかしこんな嘘をつく人ではないことも、俺は知っていた。
「確かだ。証拠も揃っているし、俺がこの目で見た」
「そう、ですか」
それなら冗談でも、間違いでもない。
本当になんてことをしてくれたのかと、妹の頭を叩いて、透真様に謝らせたい気分だった。
「愚妹が、ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「謝らなくていい。お前は全く悪くないし、気づかなかった俺が悪い」
「いえ、透真様は全く悪くありません」
こうなると分かっていれば、逃げる前にやることがたくさんあったのに。
妹を野放しになんて、絶対にしなかったのに。
「俺の監督不行き届きです。本当に申し訳ありません。こうなることは予想出来たのに、それを見逃した俺が全て悪いのです」
「……予想出来たというのは?」
「実は、妹の性格を少し前に知りました。本当であれば、透真様に報告すべきだったのですが、俺は逃げることを選んでしまったのです」
「そうか」
とうとう言ってしまった。
俺のせいで、透真様に不利益を与えてしまったのだ。
どんな罰でも、喜んで受けよう。
そっと視線を外し、俺は唇を噛みしめた。
「別にそのことでお前を責める気は全く無い」
その言葉は、俺の救いにはならなかった。
むしろ怒る価値すらないのかと、目の前が暗くなった。
「どうして、ですか?」
自分がどこ見ているのか分からないし、言葉に詰まってしまう。
どんな罰でも受けると思ったばかりだが、切り捨てられるのは嫌だった。
「どうして? それはこっちのセリフだ」
頬が温かい。
しかし、それがどうしてなのか理解出来ないほど混乱している。
「……透真、様?」
目が熱い。
ボロボロと涙が零れてしまう。
泣いても、彼を困らせるだけなのに。
止めようと思っても、勝手に出てきてしまうのだ。
「どうしてお前は、俺のことを責めないんだ。ずっとずっと酷いことをしてしまった俺を、お前には責める権利があるだろう」
「透真様を責めるなんて、そんなこと俺には出来ません。あなたが悪いことなんて、絶対にありえないのですから」
「どうしてお前は……!」
絞り出すような声が耳に入ったかと思ったら、温かく力強い何かに体が包まれた。
彼が抱きしめている。
そんなわけがないと否定しても、それ以外に考えられなかった。
「透真様」
「俺は馬鹿だ。どれだけ支えられたのか知らずに、子供のかんしゃくのようにお前を遠ざけた。大事なものが全く見えていなかったんだ」
抱きしめられる腕の力は強くなり、息をするのが辛いぐらいだ。
しかしそれが心地良かった。
彼の腕の中は安心出来ると、本能が判断し自然と擦り寄っていた。
「全て、透真様のためです。ずっと傍にいたのは俺の意思です。だから辛いことなんて全くありませんでした」
「……どうしてそこまで俺に尽くすんだ?」
「あなたは俺の全てですから。あなたのためなら、喜んで自分の命を捧げられます」
「俺にはそんな価値は無い」
「何を言っているんですか。あなたにはそれだけの価値があるんです」
そこは絶対に譲れない。
俺の固い意志が伝わったのか、彼は小さく笑うと、肩に顔をのせてきた。
「どうして気づかなかったんだろうな。お前はずっと変わっていなかったのに。変わったのは俺達の見る目だということを」
甘えるようにぐりぐりと顔を押し付けてくるので、首筋に髪があたりくすぐったさから笑ってしまった。
「誰にどう思われても良かったです。あなたのそばにいられるのならば」
「それならどうして俺から離れた。……いいや違うな。離れる選択肢を選ばせた俺が悪いのか。助けを求めることも、頼ることも出来なくしたのは俺だ」
「俺が弱かったから逃げただけです。あなたに捨てられる未来が耐えられなくて、姿を消すしか無かった」
「……そのまま消えなくて良かった」
肩を濡らすものの正体は、彼の俺に対する気持ちだろう。
俺はそれが嬉しくて、思わず背中にしがみついてしまった。
引き剥がされることも無く、拒絶されることもなく、俺達はしばらくの間抱きしめあっていた。
まるで今まで置き忘れていた、何かを取り戻すかのように。
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