第31話 彼の話





 俺の新しい家は物珍しいようで、透真様はきょろきょろと辺りを見回している。

 彼の住んでいる場所と比べると小さいから、気になって仕方が無いのだろう。


「お茶しかないので、どうぞ」


 誰かを招くことなど想定していないから、飲み物の種類が少ない。

 さすがに水道水を出すわけにはいかず、彼に出せるのはお茶しかなかった。


「あ、ああ」


 文句でも言われるかと思ったが、意外にも湯呑みを手に取り、そのまま飲んだ。

 絶対に入れないけど、もしも毒でも入っていたらどうするつもりなのか。


 危機感が足りなさ過ぎて、心配になってきた。



 俺はテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろすと、彼の顔を見る。

 よくよく見れば見るほど、他者を圧倒するようなオーラが半減しているのが分かる。


 俺がいない間に、一体何があったのか。

 まだ1ヶ月と少しぐらいしか経っていないにも関わらず、この変わりように驚いてしまう。


「……あれから」


 俺から話しかけるのもなんだと待っていれば、湯のみをテーブルに置いた彼が呟くように話し始めた。

 相槌を打とうとしたが、邪魔になると思い、俺は口を閉じて耳を傾ける。


「美春が目を覚まして、結婚の準備をし始めて……突然お前が仕事を辞めた」


 上司である彼に相談はおろか、辞めることを面と向かって言わなかったので、きっとその時は驚かれただろう。

 しかし俺一人が居なくなったところで、なにか支障が起きたとは思えない。


「辞めたと聞いた時は、別にどうでもいい。いっそ清々したと思った。評価の低いお前がいなくなったところで、何も変わらないと」


 やっぱりそうか。

 彼だってそう思ったのだから、俺がいる必要なんて無かった。

 胸が痛むが、事実は受け止めるべきだ。


「しかし、段々と歯車が狂っていった」


 俺がいなくなって順調だから戻ってくるなんて思うなよ、そんな言葉を予想していたのだけど、どうやら違うらしい。

 展開が読めないでいる俺を置いて、彼の話は進んでいく。


「最初はスケジュールが上手くいかないところから始まった。ダブルブッキングをしていたり、無理なスケジュールを組まれていたり、そんなことが何回か起きた」


 まあ最初は慣れなくて、そういったことが起きたかもしれないが、何回もは駄目だろう。

 少しのミスで、会社が傾く可能性はある。

 俺よりも出来ると言っていたくせに、どうしてそんな事態になったのか。


「そんなささいなミスが続いたかと思ったら、ある日とんでもないことが起こった。一之宮グループとのパーティーで、粗相をしたんだ」


「粗相とは?」


「……現当主に酒を渡した」


「さすがに、冗談ですよね?」


「俺もそう思いたい。だが、事実だ」


 一之宮家の現当主は、体質的に酒を受け入れられないというのは、この世界に身を置くものであれば当たり前に知っているはずのことである。

 もしも透真様の話が本当だとしたら、知らなかっただけでは済まされない。


「飲む前に気づいたから最悪の事態は避けられたが、それでもありえないことだ」


「それは後始末が大変でしたね」


 自分が起こしたことではないが、考えただけで胃が痛くなってくる。


「さすがに無理だとクビを飛ばしたが、そこからがさらに酷かった」


「これ以上ですか」


 すでに最悪の状況だと思うが、さらに酷いとは何が起こったのか。

 聞くのが恐ろしくなる。


「代わりの人材が、ことごとく使えなかった。仕事を頼んでも全く上手くいかない。逆に仕事が増えるだけ。睡眠時間も満足に取れなくて、ずっと会社にいた」


 だからそんなにくたびれているし、隈も出来たわけだ。


「そんな状況になって、ようやくおかしいと思った。こんなことは今まで一度も無かったのに、急にどうしてかと。……調べればすぐに分かった」


「どうしてですか?」


「……お前がいなくなったからだ」


「俺が……?」


 俺一人がいなくなって、そこまでおかしなことになるか?

 にわかには信じられず、眉間にしわが寄ってしまう。


「俺一人いなくなったところで、何かが変わるとは思えませんが」


「そんなことは無かった。俺や周りの誰も気づいていなかっただけで、お前は完璧に仕事をこなしていたんだ」


「完璧なんて言い過ぎですよ。おれはただ自分の仕事をこなしていただけです」


「その、仕事をこなすということが、どれだけ大変なのかを、誰も分かっていなかった。お前を使えないと決めつけて、虐げていた。気づいた時には、すでに遅い。会社は上手く回らなくなっていたんだ」


 大きく息を吐き、彼は少しの間目を閉じた。

 そして次に目を開いた時には、久しぶりに瞳の中に強い光がともっていた。


「本当に悪かった」


 深々と頭を下げられ、彼のつむじが見えた。

 彼にそんなことをさせられないと、俺は立ち上がる。


「気にしないでください。俺は俺の仕事をしていただけで、不便に思ったことはありませんでした。それに引継ぎをきちんと行っていないうちに、辞めてしまった俺が悪かったんです」


 起こっていないのだから、謝られる理由はない。

 むしろ、こちらの方が悪いのに。


「俺が謝らなきゃいけないのは、このことだけじゃない。……美春の件もだ」


 妹の件だって俺が悪い。

 そう主張したが、鋭い視線に言葉をのみこむしかなかった。




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