第30話 変わっていく





 どうして、俺は抱きしめられているのだろうか。

 今まで一度も、こんなにも優しく抱きしめられたことなんて無かった。


 顔には出さないが、物凄くパニックになっていて、引きはがさなくてはと思うのに動けない。


「透真様」


 名前を呼ぶが、何も言ってこない。

 動けないまま、俺は冷静に状況を確認しようとする。


 先ほど物音がしたと思った方向には、きっと別の人がいたのだろう。

 1人で来ると勝手に判断した俺の考えが甘かったのだ。

 そしてまんまとはめられて、こうして捕まってしまった。



 これから俺はどうなるのだろう。

 全てを知ってここまで来たのだから、俺を裁きに来たはずだ。

 それでも傷つける気が無いのは、今のところの雰囲気から察することが出来た。


 暴力は嫌いだ。

 殴られないで済むのであれば、それに越したことはない。

 しかし俺の罪は、簡単に許されるものじゃないはずである。


 このまま許されて終わる、そんな簡単な話じゃない。

 俺は透真様を騙したのだから。

 殺されても文句は言えない。


 彼であれば、きっと俺の存在ごと消し去るのも可能だ。

 ここまで急いできたのだから、はいさようならと帰るわけがない。


「透真様、申し訳ございませんでした」


 とにかくまずは謝る。

 許されないとは分かっているけど、それでも悪いことをしたら謝るのは当たり前のことだった。


「……それは、何に対して謝っているんだ……?」


 透真様の声を聞くのは久しぶりだ。

 久しぶりすぎて、涙が出そうになる。


「……あなたを、裏切ってしまったことです。俺は許されないことをしてしまった。……どんな罰でも受けます」


 彼に裁かれるのであれば構わない。

 ずっと一緒にいると言ったのに、それを破った俺は許されるべきじゃない。


 ようやく体を動かせるようになったので、彼の胸を軽く押す。

 そこまで力を込めたつもりはなかったが、簡単に離れていった。


 自分でやったくせに離れていったことに悲しいと思うなんて、俺はわがままだ。


「罰って、何を言っているんだ」


 その表情に浮かぶのは、怒りと言うよりも困惑か。

 次に会った時は怒られると思っていたので、この反応はこちらの方が驚いてしまう。


 もっと問答無用で殴ってくるのが、俺の知っている彼の姿だった。

 こんなに傷つきながらも、俺に向かって優しい視線を送ってくる人なんて知らない。


 今まで感じたことの無い未知との恐怖に、自然と後ずさりしてしまった。

 だからどうして、俺の行動に悲しい目をするのか。


 直接言うことは無理なので、心の中で思い切り叫ぶ。


「仕事は、どうなさったんですか?」


 無言の状況が気まずく、俺はとりあえずの話題を提供した。

 彼と話せることなんて、仕事か妹のことしかない。

 当たり前のことだが、後者は俺から話すべきものではなかった。


 プライベートで所有しているヘリコプターで、ここまで来たのは分かっている。

 しかしそうとはいっても、ここに彼本人が来る時間を、そうそう提供出来るとは思えなかった。


 年中無休、分単位で進められるスケジュール。

 少し前まで整理していたからこそ分かる。


 妹のためのスケジュール調整は、毎回わずかしかない隙間に無理やりねじこんでいたのだ。

 それをわざわざ俺のためだけにしていたとは、到底信じられない。


「……一番に聞くことが仕事か。本当に真面目だな」


 悲しみの中に呆れを含ませて、彼が息を吐く。

 その顔はいつもと比べると、くたびれているようにも見えた。


 いや、気のせいではない。

 うっすらと隈があるし、スーツにもしわが、ネクタイも少し曲がっている。

 昔の癖で整えるために手を伸ばしかけるが、俺の仕事ではないと下ろした。



 俺の後任の秘書は、一体何をしているのか。

 前々から俺よりも彼のことを支えられると自信満々に言っていたから、辞める時に選んだのに。

 引継ぎをしている際の態度が良くなかったから、嫌な予感はしていたが、まさかここまでだとは。


 スケジュールに余裕が無かったせいで、まともに教育が出来なかった俺の責任でもある。

 頭痛のたねが増えてしまい、こめかみを軽く押さえた。


「……は、何をしていたんだ?」


「はい? なんでしょうか?」


 反省をしていて、彼の言葉を聞き逃してしまった。

 いつもより声が小さいから、あまり距離が開いていないのに、耳を傾ければならない。


「……いや、何でもない。仕事のことは大丈夫だ。今は謹慎中だから、何をしても自由だからな」


 この人は、何をもって大丈夫だと言っているのか。

 胸倉を掴んで問い詰めたい衝動を隠し、俺は一体何があったのかと尋ねる。


 もしかしたら俺が原因なのかもしれない。

 そうだとすれば、謝る理由が増えることになる。


「申し訳ありませんが、何があったのか教えていただいてもいいですか?」


 俺にも時間はあるし、彼にもある。こんなことは今まで一度も無かった。

 それならば、今まで出来なかったゆっくりと話をするということが、実現できるというわけだ。


「どうぞ中へ。立ち話もなんですから、入ってください」


 ようやく、落ち着く空間になった場所に招くのは抵抗がある。

 しかしこのままというわけにもいかず、俺は中に入るように促した。




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