星空へ願う
「おと〜さ〜ん!」
先ほどまで何かに気を取られていた息子の栄太が駆け寄ってきた時、カシャと何かが潰れるような音がした。
栄太が驚いたようにかかとをあげて、下を見る。笑顔で私の元に来ていた顔が一変。何か大切なものを失くしたような、罪を覚えるような、なんとも言えない顔になった。
「どうした? 栄太」
栄太はすがるような目で私を見た。
「お父さん! でんでん虫、踏んじゃった!」
私は、
「そうか。それはカタツムリには悪いことをしたな」
としか言いようがなく、栄太の元へ歩み寄ると、しゃがんでカタツムリをじっと見つめるその頭をぽんぽんと叩いた。
「待って! まだ生きてる!」
栄太は真剣な顔でカタツムリを凝視して言った。
「そうか! 良かったな」
どれどれ? と私もしゃがんでカタツムリを見た。
殻の砕けたカタツムリは、ゆっくりと砕けた殻から胴を伸ばし、目玉なのか角なのか分からないものを左右に伸ばして動いていた。その姿は痛々しく、自分の殻が割れて身体に刺さるなんてこと、このカタツムリはどう感じたのだろうと思うと哀れに思った。
ところが栄太は違った。
「地面にいたら、また踏まれちゃうよ! お父さん! 葉っぱに置いてあげようよ!」
そう彼は言うと、そっとカタツムリに手を伸ばした。栄太は、カタツムリの砕けた殻がぱらぱらと落ちるのを気にする様子もなく、近くで咲いていた紫陽花の葉にカタツムリを乗っけた。
「これで踏まれないよね?」
私を見上げる目は眩しい光を宿していて、私は頷くしかなかった。
もうあのカタツムリは助からないだろう。私には分かっていたけれど、それを告げることなんて出来なかった。
その後、息子と私は手を繋いで散歩を再開した。
しばらく公園で遊んだ栄太は、帰り道、先ほどカタツムリを乗せた紫陽花の葉っぱを覗き込んだ。
「お父さん。でんでん虫いない……」
後で調べて分かったことだが、紫陽花の葉には毒があり、カタツムリは食べないそうだ。紫陽花の葉から早く離れたかったのかもしれない。
「どこかに散歩に行ったのさ」
あんな状態でも移動ができるなんて、案外しぶとい生き物なのだなと思いながらそう答える。栄太は納得いかない様子で紫陽花の周りを見回していた。
次の瞬間、栄太が小さく悲鳴を上げた。
「お父さん!」
そのただならぬ声に驚き、栄太の視線を辿ると、先程のカタツムリが地面にいて、そこに蟻がたくさんたかっていた。
私も思わず息をのむ。弱ったカタツムリを蟻が食べるのは仕方がないことだろう。しかし、栄太にこれは刺激が強すぎる。
「栄太。帰ろう」
私は栄太の手を引いた。栄太はいやいやをするように手を振り払った。
「でんでん虫、可哀想だよ!!」
栄太は迷わず手をカタツムリに伸ばした。たかった蟻を乱暴に手で退けていく。そしてカタツムリを自分の小さな掌に乗せた。
「僕、この子、育てる」
神妙な顔をして栄太は言った。
殻がグシャリと砕けただけでなく、蟻からも噛まれただろうカタツムリ。息子の掌で微かに動いているだけだ。これでは三日と持つだろうか……。
私はなんとも複雑な思いに駆られたが、
「そうしようか」
そう答えた。カタツムリは痛みと苦しみで早く死なせてくれと思っているかもしれない。だが、助けたいと思う息子の優しさも無視できなかった。
栄太は家に彼なりの早足で帰ると、
「おか〜さん! 空き瓶頂戴!」
と言った。
「何に使うの?」
妻の咲の声に答えずに、息子はティッシュを少し濡らしてらガラスの瓶の底に敷いた。
「乾燥したら死んじゃうかもだもんね!」
そして、その中にゆっくりとカタツムリを入れた。
「何? 何か拾ってきたの?」
咲が瓶の中を覗き込んで、顔を凍りつかせた。痛々しそうな表情に変わる。
「でんでん虫! 僕が踏んじゃったから、こんな姿になっちゃったの。ありにも食べられそうになったんだよ!」
「そうだったの……」
咲は私を一度見て、少し悲しげな目をした。私は分かってる、というように無言で頷いた。
そんな私の手を栄太の小さくて柔らかい手が掴んだ。
「お父さん! カタツムリって何食べるの?」
「何だろうね?」
私はスマホを取り出して、「カタツムリの餌」と入れて検索をした。栄太がスマホを覗き込む。
「カタツムリって葉っぱを食べるんじゃないんだね」
出てきた野菜の写真に栄太は目を丸くしている。
私は画面の下の方に、
「紫陽花の葉は毒があるのでカタツムリは食べません」
とあるのを見つけて、慌ててスマホで検索したページを閉じた。
「まだ僕見てたのに」
栄太が頬を膨らませたけれど、私は
「早く野菜をあげたほうがいいんじゃないか?」
と栄太の気をそらせた。栄太は再び真剣な顔になって、
「そうだね! お母さん! にんじんない?」
と咲に訊ねた。
「今日、ちょうどチャーハン作ったから、人参のヘタが残ってるわよ」
咲は人参のヘタを小さめに切って、栄太に渡した。栄太は注意深くその人参を瓶の中に入れた。私はその間にカタツムリについて色々検索をした。
殻を失くしてしまったカタツムリの運命は……。
「お父さん?」
私ははっとしてスマホをポケットにしまった。
「栄太はなんでにんじんをカタツムリにあげたんだい?」
私は夕食のチャーハンを食べながら、栄太に訊ねた。
「だって、きっと、ムサシはにんじん食べたことなさそうだから。食べて元気になってもらいたいの」
「ムサシ?」
「うん。名前つけたんだ! かっこいいでしょ?」
私は栄太を我が子ながら良い子に育っているとありがたく思った。
「人参を食べたら、糞がオレンジ色になるらしいぞ」
私の言葉に、
「そうなの? 面白いね! ムサシ、たくさん食べてくれるといいな!」
と栄太は顔を輝かせた。
夕飯の後、ムサシの様子を栄太と見たが、ムサシの動きは悪かった。僅かに角を動かす程度しかしない。私はムサシの未来を思うと憂鬱になって、ベランダに出た。その後ろを栄太がついて来る。
「お父さん?」
「ほら。見てごらん、栄太。今日は梅雨晴れだったから、星が見えるぞ」
「本当だ。久しぶりに星見た」
私たちはしばらく無言で空を見上げた。
「ねえ、お父さん。ムサシも死んだら星になる?」
「え?」
私は栄太の目を見て、しばらく言葉が出なかった。なんて澄んだ悲しい目をするんだろう。まだ6歳の少年がする表情なんだろうか。
「ムサシは僕が踏んじゃったから死んじゃうんだよね。僕のせい、だよね」
私はなんと答えたらいいか分からなかった。もう悟っているこの子になんて言ったらいいんだろう。
「お星さまはねがいを叶えてくれるかな? だったら、おじいちゃんにおねがいしたいな。ムサシをもう少し長生きさせてくださいって」
「……そうだな。祈ろう」
私は栄太と星の下でただ祈った。
栄太はムサシのことをだろう。
私は自分の父親に、栄太が悲しむことがないようにと祈った。
二日後の夜、ムサシは空の星の一つになった。
栄太は大粒の涙をこぼしながら、ムサシの亡骸を庭に埋めた。私は、なんと声をかけていいか分からず、その小さな後ろ姿を見つめていた。
「お父さん」
栄太に呼ばれて、私はうん? と返事をした。
「ムサシ、にんじん、すこし食べたみたい」
栄太は私に瓶を渡してきた。
本当だ。ムサシの乗っていた人参が少し削られていた。ムサシは最期に人参を食べたんだな。
「ムサシ、にんじん、おいしかったかな?」
「きっと気に入って、今も食べてるさ」
「そうだといいな」
私と栄太はこの日も偶然晴れていた夜空をムサシを探すように見上げた。
星が輝いていた。
了
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