場所取りで‥

@J2130

第1話

 木々やアーケードに飾られたイルミネーションが光りはじめた。

早い夕闇がそれらを一層美しく輝かせている。


 僕は広いパレード用の道から一段せりあがった沿道に立ち、時計を眺め、場内放送を待った。


 寒さは靴底から絶え間なくせりあがってくる。

でも場内はこの時期特有の赤と白の飾りつけや途切れることのない音楽、子供と恋人

達の笑顔に満ちあふれ、活気づいていた。


 周りを見れば、ぽつぽつと同じような年頃の男性が数人、所在無げに立っている。手袋をして、あるいは足踏みさえして暖をとっている。


 パレード開始一時間前の放送が響く。ここでは、この時間からシートを使っての場所とりが許されている。

 男性達は手持ちのシートを沿道に敷き、その上に腰を下ろした。僕は特別用意した毛布の一枚を路上に敷き、あぐらをかくと膝の上にもう一枚の毛布をかけ、さらにもう一枚の毛布をあとで家族が座るであろう場所にたたんで置いておいた。


 この遊園地で真冬にパレードを見るさいのコツだと思っている。

 腰の下にある毛布はアスファルトの冷気を遮断してくれて非常に暖かい。


 この場所はあまり人気がないのか、僕の毛布に接して場所をとる人はまだいない。まあ、パレードを一番前で見ることができればどこでもいい、そのうち混みはじめるだろう、僕は沿道の端を取れたこと、それだけに十分満足して、一人毛布に座っていた。


 娘と妻は先ほどお手洗いのついでにポップコーンを買いに行った。

三歳の娘に一時間この場で時間をつぶさせるのは酷である。

父親達の場所とりはパレードの前のの風物詩だろう。

 ただどの顔もそうはいらだっていない。

 僕だってそうだ。

 子供のためなら不思議と苦にならずに時間をつぶせる。


 僕はバッグから文庫本を出し、読みかけの場所を探した。

手袋をしたままの指では読みにくいがしかたがない。

もう十二月の半ば過ぎ、

もうすぐクリスマスなのだから。


「寒いですね‥、冷えますね」

 すぐ隣で年配らしき男性の声が聞こえた。


 先ほどまでは誰もいなかったはずであり、僕はやっと本の読みかけの場所を見つけたところだったので、最初は僕に話しかけたものではないと勝手に思っていた。


「寒くないですか?」

 明らかに僕の右耳に声が響いた。

 声相応の年頃の男性が僕のほうを向いている。

 黒ぶちの眼鏡をかけ、グレーのコート、会社にそのまま行けるような地味なものを着ている。


 いつのまに来たのであろう。

 古い、黄色いレジャーシートを大きく広げ、その中央ではなく、わざわざ僕の近くに座っている。三人、四人分ぐらいの大きさか‥。

 彼の肩越しにわずかに見えるレジャーシートには、ぬいぐるみの熊の顔が描かれているが、少し剥げていた。


「はい‥、寒いですね。冷えますね」

 僕は明らかな年長者に対して、失礼のないように普通の返事をした。


「毎年ね‥、来ているのですが、やっぱり寒いですよね。あ‥、熱燗はないけれど、もしよかったらどうぞ、飲んで下さい」


 彼、その男性は僕にコーヒーカップを差し出した。

そう、彼が言うように確かに熱燗でもあればこの一帯の父親同志でけっこういい飲み

会が開けるかもしれない。でもここは夢の国アルコールなんてふさわしくない。


 頂いたコーヒーは意外と温かかった。買ってきたばかりかな?

不思議に思っている僕にかまわず、男性は自分のをうまそうに飲みはじめた。

「頂きます。すいません」


 僕も遠慮せずに飲んだ。この場合、冷めないうちに飲むのが礼儀だろう。喉を通った液体も非常に温かく、それを受けた僕の胃袋はすぐに熱い血液を体の隅々にまで送り始めた。


「綺麗ですね。やっぱりこの時期は特別ですね」

 男はしみじみとつぶやいた。僕は、はぁと言って同意の意思を示した。


「ケーキもプレゼントも興味はないのですがね。この時期は特別です」

 そうですね、と僕は言った。


 寒く、年末に入り仕事も忙しくなるが、確かに特別な時期である。子供はプレゼントを期待し、僕らはその準備をし、ケーキを買い、いずれくるその日だけは、いつもは晩い会社のみんなも、早く帰宅する。


「まあ、子供の喜ぶ顔、それが見たいだけなんですよね。旦那さんもそうでしょ?ここで場所とりしているのもね。結局そうなんですよね‥、この時期ってね」

 男はにこにこしながら言った。


 そうですね、と僕はまた応えた。娘の喜ぶ顔はなんにおいても代えがたい。そのためなら多少辛くても、大変でも我慢できてしまう。


「まだ、子供が小さかったころ、妻と子供とみんなでくっつきあって寝たのが懐かしいですよ。別にベッドが小さかったわけではないんですがね。かたまって寝るのがいいんですよね。寒いのもいいなって思いました」


 彼は懐かしそうにつぶやき、コーヒーを見つめながらさらに続けた。

「クリスマスっていいもんですよね」

 すっかり暗くなってきた。妻も娘もまだ帰ってこない。クリスマスソングが穏やかに響いている。


「ある年のことですけれどね。忙しくて、ほとんど家にも帰らずに、仕事、がんばってましてね」

 僕は横を向き、彼を見た。薄暗く表情は見えにくかったが、別に変わった様子はない。


 あいかわらずコーヒーを持ちながら正面を向いたままでいた。

「クリスマスイブの日、がんばってね、仕事区切りつけて、ケーキ買って、でも、晩くなっちゃたけれど、帰ったんですよ。がんばってね。仕事がんばって」


 真冬に、でも額に汗をかいて働いているその男性の姿が浮かんだ。

「そうしたら、家、っていうか、当時はマンションだったんですけれどね。真っ暗でね」


 僕はじっと聞いていた。真っ暗のマンションの部屋を想像したら、寒気が少し戻ってきた。

「書置きがありました。実家でクリスマスやるって‥。いやー、驚いたのと、あきれたのと、辛かったのとね。自分が悪いんだけれども。いやー、本当に、なんというかね。今だから笑って言えるけれど‥」


 笑っていなかった、声も表情も。

「仕事だって家族のためにやっている部分もありますよね、好きで仕事しているわけじゃないし、遊んでいるわけじゃないし‥でもね‥」


 気持ちはわかる、痛いほど。

「つらかった‥、あれはしんどいですね」

 何度目かの同意の意思を僕は言葉にした。


なんと言っていいか分からない。そういえば僕も仕事が原因でないが同じ思いをした。

「私も、娘が一歳のとき、一ヶ月ほど入院しまして、そのとき奥さんもつきそいで病院に行っちゃったもんだから、暗いマンションに帰った時があります。そう、むなしいというか、さびしかったですね。二年くらい前のことです」


 今度は彼が、そうですか、と言って僕のほうを向いてくれた。

「なんですかね、家族って、う~ん、大事です。私もそのクリスマスの時にやっと気づきました。反省しましたよ」


 彼は、今度は少し笑っているようだった。

「反省しましてね、それからは本当に反省して、家にも帰るし、休日もちゃんと休むし、やっと平均的な父親をやりました」


「いいことですね。そう思います」

「ええ、考えてみれば当たり前のことなんだけれども。まあ、やっと気づいたというか」


「でも、お仕事はどうされたのですか? 会社なんてものは社員の都合で変わらないですし、仕事も減らないですよね」


 当然の疑問を投げさせてもらった。

「がんばりましたよ。仕事だって家族のためでしょ。お金を稼がなくちゃ食べていけないし、仕事も家庭も両方」


 どちらかにひずみはでる。いやもうひとつしわ寄せがくるところがある。僕も去年嫌な目にあった。


「大丈夫だったのですか? 無理がきませんでしたか? 私は仕事がきつかったころ、体に無理がきて、結局一ヶ月ほど休職しちゃいましたが‥」


 彼がコーヒーをいっきに飲み干した。カップに口をつけたまま、それをほぼ垂直に

立てて少しの間、動かないでいた。


 飲み終えたのか、一息ついてから、また僕のほうを見た。

「そう、大丈夫じゃなかったです。そうなんですよ。お互いサラリーマンは辛いですね」


 彼は遠くを眺めた。家族を待っているのだろう。周りには別の父親達がシートを広げはじめた。

「でも、あの事を思い出すときついですからね、クリスマスが来る度に僕はこの辺がきりきりするんです。だから‥」


 場所を確認するように周りを見回しながら、彼は笑顔を僕に向けて続けた。

「ここ、ここにね、この時期に来るのですよ。いいですよ、夢の世界です。嫌なことを忘れます。家族の笑顔を見ることができます」

 いい笑顔だった。彼は嬉しそうに笑っていた。


「あの年、一人のクリスマスイブの翌年にね、はじめて家族をここに連れてきました。勿論今頃の時期です。みんな喜んでくれて、『パパ変わったね』なんて言ってくれましてね。がんばった甲斐があったな‥、なんて思いましたよ。ああ、よかった‥って、家族はやっぱりいいものだな‥って」


 よかったですね、本当に、僕もうれしくなってそう言った。

「毎年来ています。毎年ね。そしてここ、この場所、はじめて来たときにたまたまここに座ったのです。なので、パレードも毎年ここで見ることにしています」

 黄色いレジャーシートを彼は軽く叩いた。


「他の場所で一度見たことがあります。でもね、娘も言っていましたが『なんか見た気がしない』って、慣れって怖いですね‥」

 僕は感心して、そうですか、と言った。実際に体験してみないとわからないが、そうゆうものなのかもしれない。


「だから毎年この場所をとります。ぼちぼち時間だから場所とってくる、って言うと、娘達と何も打ち合わせしないでも、時間になるとみんなここにきます。笑っちゃいますよ。父親っていうのはそうゆうものなんですかね」

 笑い声が聞こえた。僕もつられて少し笑い、そして素直な感想を言った。


「そんなもんなんですか‥確かに私もここで家族のために場所とりしていますが‥」

 僕だけではない、周りの父親達も同じような仲間である、同志である。

「普通になります。子供達は父親の場所とりを普通だと思って、そのうち成長して親に近くなってね、感謝するようになったらきっと僕らもお払い箱なんですよ、きっと‥」

 お払い箱という言葉にひっかかったが、例えとしてはそう間違ってはいないだろう。


「まあ、それも悪くないですよ。子供が大きくなったってことですからね」

 周りがかなりざわついてきた。だいぶ人が集まってきたようだ。僕は見知らぬ他人との会話に少し疲れを感じ、間をとるべくコーヒーに口をつけた。

 

「旦那さん、その後、大丈夫なんですか?」

 僕は突然の問いにとまどい、驚いた。最後の一口と思って飲んでいたコーヒーが思わず僕の口からこぼれ、膝の上の毛布に数滴落ちた。周りはすっかり暗くなっていたので、毛布の汚れは確認できなかったが、後で妻に叱られるだろう。


「お体はいいのですか?」

 ああ、僕の体調のことか‥。そうか、そういえばさっき、会社を休職したことを話した。


「ええ、おかげさまというか、何というか、テキトーに仕事をやって、ぼちぼちです」


 彼はうれしそうに笑った。

「そう、テキトーがいいですよ、本当に。それはよかったですね」

 心から喜んでくれているようだった。


「家族も、みんな辛い思いしますから。なにしろこんな時代になっても、女性が強くなった時代になっても、一家の大黒柱であることは変わらないですから。ああ、本当によかったですね」

 確かにあの時期、妻は辛そうだった。娘はなぜか家にいる僕に喜んでくっついていたが、人生に何度かあるピンチであったことには違いない。


「会社は、お気の毒でしたね‥、で終わりです。命をかけるものではないですよ。いやーよかったです。今は大分いいのでしょう?そう見えますよ」

 僕はちょっと微笑んでみせた。


「そう見えますか?出世はしていませんが、本当にぼちぼち、思いつめないでやっています。また体を壊して、家族や同僚に迷惑かけるよりそのほうがいいって、勝手に考えています」

 彼は、うんうんと頷きながら聞いていた。


「そう、そうなんですよ。そう思ったほうがいいです。自分にね、変なプレッシャーをかけないほうがいいですよ。それがいいです」

 ああ、よかった‥、と彼は最後にそんな言葉を付け加えた。心底僕の回復を喜んでくれているようだった。なぜかわからないが、安心しているようにも見えた。

 今度は僕が訊いた。


「あの、お体は大丈夫ですか?家族サービスもがんばって、会社もがんばって、ずいぶんとつらいようでしたが‥」

 彼は、彼自身の体を見回した。胸、腹と見て、手をさすり足をさすった。


「う~ん‥、しかたないと思っています」

 手のひらで、両手の手のひらで最後に自分自身の頬を何度かさすった。ひげが濃いのか薄いのかは暗くてわからなかった。

「入院しましてね、会社も無理させたと思ったのでしょう。いろいろと便宜をはかってくれました。まあ、金銭面のみですがね」

 まだ妻も娘もやってこない。彼の家族もまだ来ない。僕ら二人は薄い闇の中にいる。


「それでも元気なほうがいいですよ。家族いっしょのほうがね。数倍いいです。いや、比べられないな‥」

 音楽がとぎれたようだった。次の曲はまだ始まらない。放送が入るのか、無音の状態が続いた。

「戻りたいです‥、あのころに‥。寒くてもみんなでよりそっていたころにね‥」

 独特のマイクを繋ぐ音がスピーカーから響く。音楽も放送もない。

「ここでもね、そう、旦那さんみたいに毛布を持ってきて。でも、娘二人にかみさんでしょ。ああ、子供は二人なんです。もうすぐ来ます。そう、あの頃はひとつの毛布にくっついて入ってね。まだ娘も小さかったから、妻と僕の間に娘たちをはさんで入れて。僕はほとんど毛布の外だったけれど、それでも暖かかったな‥」

 パレード開始十分前の放送が流れた。

 僕らの会話も途切れる。

「戻りたいですよ‥。家族って、暖かいですから」

 急に妻や娘の不在が心配になった。十分前だし、話し込んで、辛い時期を思い出したせいかもしれない。僕は周りを目で探した。

「ご家族もきっと放送を聴いたでしょう。すぐにいらっしゃいますよ」

 彼はなぜか立ち上がりながら言った。

「カップ、捨ててきますよ。すいません、もうすぐ妻と娘が来ますから、ここ、とっておいて下さい。すぐ来ますから‥。ああ、わかります。このシートは何年も使っていますし、いつもこの場所ですから‥」

 僕は、ごちそうさまでした、と礼をいい、わかりましたと返事をした。僕の右には黄色いレジャーシートが敷いたままである。

 彼は立ったままぐるりと周りを見回した。

 家族を探すなら人ごみを見るものだが、なぜか彼の視線は青白い綺麗な城や、木々に光る電飾、遠くに、近くに見える、ショップやアーケード、近未来的なフォルムをした美しい建築物を眺めていた。

「綺麗だな‥きれーだ‥」

 彼のつぶやきは小さかったが、それでも僕の耳に届いた。

「今年も来られた‥、よかった‥」

 彼はのびをするよう両手を上げた。そして心の底にしみるような声がさらにそのあと聞こえてきた。

「戻りたいな‥」

 半ば向きを変えながら彼は言った。もう彼の表情は見えない。すぐに黒い人垣が彼を隠した。


「ほら、ここにしようよ、ね!」

 若い女性がシートを持って僕の前にやってきた。彼女の後ろにも女性が二人、一人は若く同じ年頃で、一人は年配の、二人の母親ぐらいの年齢か。

 僕の横には座れないはずである。どこにシートを敷くのだろう、と思っていると、突然僕の右、真横に大きく広げはじめた。

「あ‥ここ、とって‥」

 僕は言いかけて止めた。

 彼の、男性の黄色いレジャーシートがなくなっていた‥

 周りを見回したが彼の姿もない。

「いいですか?ここ‥」

 最初の若い女性が僕に訊く。きれいな声であり、思わず見上げると、大きい瞳が暗い中でもよくわかった。

「ああ、さっきまで人がいたものですから、すいません‥、シートもね‥あったはずですが‥」

 すいません‥、なんでもないです、と僕は小さくなって言った。

「お姉ちゃん、ここにさせてもらおう!」

 後ろの若い女性が言う。

「すいませんね」

 年配の女性が続いた。

 いいえ、どうぞ‥、僕は小さくなったままで応えた。

 お姉ちゃんと呼ばれた女性がシートを広げ、僕の横に座り、年配の女性を真中にし

て、向こう側にもうひとりの若い女性が座った。

 僕は視界の端でその一連の作業を見つめていた。早く娘や妻がこないかな‥と思っていた。いや、さっきの男性が戻ってきたらどうしようとも思っていた。しかたない、その時はこの僕らの場所で、みんなでそれこそかたまって見ようかな、とも考えていた。狭くて家族やさっきの男性にも嫌な顔をされるかもしれない、困ったな。

 でも、黄色いレジャーシートはどこに行ったのだろう?絶対にさっきまで、あの男性がカップを捨てにいくまであったはずなのに。

 風で飛ばされるようなことはなかった。誰かが悪意で持っていったのだろうか?でもそんなことはない、僕が気づくはずである。

 隣の女性達は先ほどの男性と同じくらいの面積をシートで占めた。

 ああ‥、どうしよう、とっておいてと言われたのに‥

 僕は夢の国で途方にくれた。パレードを恨んだ。

「よかったね、座れて」

 真中に座った年配の女性が言った。その声には安心とうれしさが混じっていた。

 僕の近くに座った女性が、

「たまには場所、変えようか」

 と言うと、向こう側で

「もう、何言ってるの!場所を変えたら見た気がしないって言ったのは、お姉ちゃんじゃない」

 笑いながら応えていた。

 僕は奇妙な感覚にとらわれて思わず聞耳をたてた。

「お母さん、寒くない?」

 近くから声がする。おそらく親子なのだろう、すると、奥の女性は次女ということ‥?

「大丈夫、娘達に挟まれているから寒くない」

 嬉しそうに言っている。

「昔はね、お父さんとお母さんに私達が挟まれていたんだけれども、逆だね」

 会話がはずんでいる。言葉が踊っている。

 僕は彼女達をそっと見つめた。

「私ね、パレードが一番好き。みんなで見れるし、待っている時間も楽しいし、あったかいしね。なんか、ここにきたなって思える、ここで待っていると‥」

 手前の女性、長女なのだろう、彼女は毛布を母親にかけなおしながら言った。きれいな横顔が少ない明かりをバックに、シルエットで見えた。長い睫毛が何度かまたたいている。

「写真、撮ってあげる」

 お姉さんのほうが言いながら、カメラを持って立ち上がった。彼女が座っていた場所のレジャーシートに少ししわがよった。

 すでに暗い中でも、僕の目にシートの柄が映った。

 無意識に眺めた情景が、一気に僕の頭の中すべてを掻き回した。

「いいよ、私が写すよ」

 妹さんの声が続く。

「撮りましょうか‥?」

 僕は言いながら立ち上がった。

 うれしそうに姉妹は、同じようにきれいな声で、

「ありがとうございます」

 と言い、お姉さんが僕にカメラを手渡した。

 僕は震える手から手袋を抜き、カメラを受け取り、沿道を降りて構えた。このままだと手振れで、ろくな写真がとれない。しかたないので、寒さのせいにするため、手に息をふきかけた。

「ちょっと待ってくださいね」

 僕は言った。

「すいません」

 彼女達はすまなそうに応えた。お姉さんはまだ立ったままでいた。

 ファインダーを覗く。遠くだと、フラッシュが届かないので少し近づく。

 中央の母親に焦点を合わせる。

 右の女性、お姉さんがシートに座る。

「撮りますよ、ハイ、チーズ‥」

 フラッシュがたかれて、青白い光が一瞬辺りを照らした。

僕はわずかに写る彼女たちのシートを見た。

「もう一枚いいですか?」

 妹さんが僕にお願いした。

 ええ、と応えて先ほどと同じように、もう一枚撮る。

 本当に黄色いシート…

「ありがとうございました」

 二人の若い女性に礼を言われるのは、きっと普段だったらだいぶ嬉しかっただろうが、今日は違う。

 お姉さんがカメラを受け取るために立ち上がった。

 僕はすかさず、彼女の座っていた場所をもう一度見つめた、確かめた。

 また手が震えてきた。 喉が渇いた。

 唾を飲み込む。

 薄暗い中でもそれはよくわかった。

 レジャーシートには熊のキャラクターが描かれてあり、その顔のあたりが少し剥げていた。

 綺麗な笑顔を見せ、お礼を言いながら、彼女は僕からカメラを受け取った。

 震えたまま僕は自分の場所に腰を下ろし、手袋をして、置いてあった毛布を二枚膝にかけた。それでも寒かった、小刻みな振動は止まらなかった。


「パパ、まった?」

 声より先にきた僕に抱きつく小さい手が、緊張と震えを僕の体から一瞬に吸い取った。

「ごめんね、暗くて分からなくなっちゃった」

 妻が言う。

 密着する娘の、その首からはポップコーンの容器がぶら下がっていて、いいにおいを漂わせていた。

「パパ、こっぷぽーん、食べてもいいよ!」

 娘は僕に容器を差し出した。僕は遠慮せずにポップコーンに手を伸ばした。まだ暖かい。

「おいし?」

 小さいがぷくぷくの顔が僕を見る。

「ああ、こっぷぽーん、おいしいよ」

 おいしい、あまり好きではないが、なぜか今日はおいしかった。体も暖まってきた。

「パパ、ずっとまってたの?」

 待っていた。今日は得にさびしかった。

「待ってたよ、間に合わないかと思ったよ‥心配したよ」

「さびしかった?」

「ああ、さびしかったよ。早く来て欲しいって思ったよ」

「ありがちょ」

 娘は自分の手にとったポップコーンを僕に渡してくれた。

 右の女性達が僕ら家族を眺めているのがわかった。視線を感じる。

「かわいい‥」

 小声で誰かが言った。

「あんた達もかわいかったけれどね‥」

 年配の女性の声がした。

 若い女性達の明るい笑い声が続く。

「今だってかわいいでしょ?」

 妹さんの大きい声が響いた。

 娘は不思議そうに僕の背中越しに女性達を見つめている。

「いくつ?」

 手前の女性が訊いた。

 指を四つ広げ、小さい声で娘が応える。

「よっつ‥」

 そう、かわいいね‥、いい子ね、彼女が言ってくれた。

「よかったな美帆、かわいいって」

 僕は軽く頭を下げ、感謝の意を伝えながら言った。

 彼女達は笑顔で応じてくれた。


「お父さんも待ってたね‥」

 年配の女性が言う。

 僕はパレードの先頭を待つふりをして、女性達のほうを見た。

「コーヒー飲んでて、ぽつんって座ってて」

「熱燗欲しいな‥、なんて言ってたね」

 姉妹の小さい笑い声が聞こえた。

「さびしかったかな‥?」

 向こうのほうで声がした。

「あんた達のために、寒いなか待ってたんだよ、お父さんは」

「そうだね。でも、みんなでパレード見れて、お父さんうれしそうだったよ。いつか言ってた、パレードが一番好きだって」

 にぎやかだった隣の家族に少しだけ静かな時間が流れた。

「お父さん、いつもここに来る前の日まで晩くまで残業して、やっと会社休んでくれて」

 手前の女性が言った。

「次の日休めばいいのに会社に行ってね」

 お母さんが続けた。

「みんなでまた来たかったな‥」

 妹さんが俯きながらつぶやいた。

「もう一度来たかったね。今度は四人で場所とりしてさ、いろいろ普段話せないことを話したかった」

「前からそうしてあげればよかったのかな?」

「でもきっとさ『俺が待っているからどっか行ってこい!』って言ったはずだよ。照れ屋だし、不器用だしね、お父さん」

「でも、お父さん。きっとさびしかったと思うな‥、ねえ、お母さん、そう思うでし

ょ?」

 少し間があった。なんとも言えない沈黙わずかに漂ったあと、何気ない、それでいて有無を言わせない口調で母親が二人の娘につぶやいた。

「お父さん、さびしくなんかなかったと思うよ。家族のためになれてうれしかったんじゃないかな‥」

「でも今の二人の気持ちを知ったら喜んだだろうね」

 姉妹が母親を挟んで目を合わせている。

 妹さんが言った。

「私達、お父さんの気持ちに気づくのが遅すぎたね。感謝するのが遅すぎた‥」

 そんなことはないよ、母親が明るく返した。

「お父さんと話したことがあるよ。いつだったかな。病院だったね。最後は筆談しかできなかったから、その前だね」

 母親は先ほどの男性と同じように、木々に光る電飾、飾りを眺めながら言った。

「『ああ、もうすぐクリスマスだな、行きたいな。娘達もあの年頃になれば父親なんてうるさいだけなのに、みんなで一日つきあってくれる。それだけでも俺はうれしいんだよ。元気になって行きたいな』って、そうお父さん話してたよ」

 二人の娘を交互に見つめながら、母親はやさしさをにじませた声で続けた。

「遅すぎてなんかないよ。お父さんは二人の気持ちを分かってたよ。大丈夫、お父さん喜んでいたし、今でも喜んでいるよ、きっと」

 何か僕も口を挟みたかったが、勿論やめておいた。僕の話しなど誰も信じてはくれない、絶対に。


 あと数分でパレードが始まるとの放送が入った。僕は娘に毛布をかけなおした。


 明るい音楽が流れ、パレードが始まった。

 みんなの視線は、パレードがやってくる右のほうに注がれた。フロートというらしい、多くの光るデコレーションがほどこされた動くオブジェが見えてきた。

 遠目にも綺麗に見える。

 美しい衣装を着た幾人もの女性達がフロートをとりまき、踊りながら近づいてきた。

 次々に目の前を通り過ぎる。

 音楽がひときわ高く響き、沿道のみんなが手を振り、写真を撮り、笑っていた。

 娘も妻も嬉しい歓声をあげ、はしゃいでいる。

 隣の親子の声も聞こえる。僕はフロートより娘の笑顔を何度も確かめた。目が光り、手を叩き、今にも踊りださんばかりに体をゆすっている。

 楽しくて、嬉しくて、自然に体が動いている。

 これは、子を持つ親の特権かもしれない。

子供の嬉しがる姿を見て、自分も心から喜べる。幸せな気分にさせてもらえる。

 僕はパレードより、娘を見て楽しくなった。

 

 ふと、視線を感じた。

 いや、みんながフロートに注目しているな

か、向こう側の沿道に違和感を覚えた。

 ダンサーの動きにつられて誰もが顔の向き

を変えるのに、ひとつだけじっと動かない顔

があった・

 人形?ぬいぐるみ?いや、やっぱり人だ。

 何を見ている?

 パレードを見ないの?

 こちら側を見ている‥

 なんだろう?どんな人?

 薄暗いなか、向こうの沿道の一番後ろに立

ち、人垣から頭ひとつだしてこちらを見てい

る顔がある。

 眼鏡をかけ、着ている厚いコートはグレー

だろうか。

 目の前をフロートやダンサーが通りすぎて

いき、その度に彼の姿も隠されるが、視界を

さえぎるものがなくなると、またすぐに現れ

る。

 向こうの沿道に確かにいる。

 一点を見つめ続ける人影がいる。

 男?背はそう高くないが、そう、そうだ。

 あの男性‥

 先ほどまで僕の横にいて、コーヒーをくれ

たあの人。

 震えはこない。僕は不思議と穏やかに彼の姿を眺め続けたが、でも怖くもなく震えもこなかった。

 なぜだろう?

 彼の表情のせい?

 おそらく彼が笑っているから。

 彼はキャラクターの乗ったフロートや、楽しく踊るダンサーをいっさい見ることもなく、それでも嬉しそうに笑っていた。

 彼の視線の先には、勿論、彼の家族がいる。

 僕の横ではしゃぐ家族を、彼は笑いながら見つめていた。満足そうに、穏やかに。

 僕もしばらく彼を眺めていた。いい笑顔は見ていて悪いものではない。

 彼の視線が僕に動く。

 微笑んでくれた。娘を見てくれた。

 軽く右手を上げた、笑っている。

 僕もつられて手を上げかけた。

「パパ!あれ!」

 娘が僕の目の前に手をだし、指差し、フロートのてっぺんにいる有名なキャラクターの姿を見るようにうながした。

「ああ、いるね」

「パパ、しゃしん!しゃしんとって!」

 僕はカメラを見上げるように構えて数枚の写真を撮った。うまく撮れていればいいが‥

「とれた?」

「ああ、撮れたよ、いっぱい撮れた」

 満足そうに娘はうなずくと、また次に来るフロートを見るため、体全体をその向きに変え、ちいさなリズムをとりはじめた。

 僕は彼のほうを見た。向こうの沿道を眺めた。

 消えている、いない。

 周辺を探したが見つからない。

 まだ見ていればいいのに‥。大切な家族が楽しむ姿を。

 見守っていればいいのに、いつまでもそばにいたかったのだから‥

 隣の親子は彼に気づいただろうか?

 気づいてくれれば彼も嬉しいだろうに。

 僕は様子をうかがうため、ゆっくりと右の家族に視線を向けた。

 仲良く毛布を膝にかけ、笑いながら、手を振りながら、あい変わらずパレードを楽しんでいる、四人で‥

 僕の隣に男性が座っていた。

「場所とり、ありがとうございました」

 ちいさく聞こえた。

「すぐに来たでしょ。毎年ここだから」

 僕はほんの少しうなずいた。

「パパ!あれもとって!」

 娘のお願いにあわててカメラを手に取る。

写す直前に彼のほうを向いたが、すでにその姿は消えていて、仲のいい母娘がパレードを笑顔で眺めていた。


 最後のフロートが通り過ぎるまで、僕も隣の家族も立ち上がらなかった。

 沿道がすぐに明るくなる。

 その光は、僕らの座っていたところが、パレードの観覧場所からすでに、通路になったことを教えてくれた。


 夢の時間が過ぎた。

 確かに僕はパレード以上の夢を見た気がした。暖かい夢を見させてもらった。こんな体験、誰も信じてはくれないだろうし、僕もいまだに信じられないでいる。

 それでもいいし、それでかまわない。

 現実に戻り、僕は落とし物はないかと慎重に下を見ながら毛布をたたんだ。

 ひざ掛けの毛布もたたもうとして、娘が気づいた。

「パパ、ここ」

 娘の小さい手が差した場所には黒くしみがついている。


「どうしたの?」

 あのコーヒー?うそだろう?

 僕はしみのにおいを嗅いでみた。

 独特の香りがした。

「さっきコーヒー飲んだんだ‥その時こぼした」

「コーヒー買ってきたの?」

「もらったんだ‥」

「え?」

「ああ、お隣の旦那さんから‥」

 妻は不思議な顔をしてしばらく考えていた。

「お隣、お父さんいたっけ?」

 娘にも訊いている。

「おねえちゃんと、おかあさんと、おねえちゃん。かわいいっていってくれた」

 娘が素直に応えている。

 なにも正直に言うことはなかった。その辺で買って飲んでいたらこぼした、ということにすべきだった。

「場所とりだけしていてね。そう、場所とりだけしていてさ、みんな来たら行っちゃったんだよ」

「ほんと?」

「ああ、本当さ。パパはお互いつらいねって言って意気投合してね」

「いっしょに見ればよかったのに」

「まあ、各家庭にはそれぞれの事情があるのさ」

 僕はイルミネーションを眺めながら言った。綺麗だ、本当に。

「残念そうだった。家族といっしょにいたかったって。でも、喜んでいたよ、家族のためになれてうれしいってさ‥」


 突然、頭の上のほうで破裂音がした。

 娘がはめたミトンの手袋のまま上空を指した。

 振り返ると白い花火が幾つも咲いている。


「あっこ」

 ばんざいの形に両手をあげて、娘が抱っこをねだった。

 両手で抱き上げる。もうだいぶ重いががんばった。

 すかさず娘の両腕が僕の首に巻きついた。

 娘が花火を見やすいように、僕は体を少し開き左の腕にその体重のすべてを受けとめた。妻が僕の右腕を抱きしめた。僕は娘と妻に挟まれた。

 花火は何度もあがり、そして咲いている。

 寒い夜空に、明るい火がはじけた。


 首に回された娘の手と、腕に触れる妻のぬくもりがいつもより暖かく感じた。

「あったかいな‥」

 僕は小さい声でつぶやいた。


 家族に聞かれるのが少し気恥ずかしかったので、わざと花火の音に混じるようにそっとつぶやいた。

「なに?」

 妻が問いかけた。やはり聞こえたのかな?

 僕は今度はうそを言った。


「また来たいなって言ったんだ‥」


 妻の体が寄り添い、意味が分かるのか、娘の手がより強く僕の首を抱えた。

 さっきよりずっとずっと暖かい。

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