亡命希望者
サギは困っていた。カウンターの前に立つ人物は、いつも受け付けているのとはまるで違うタイプの人間だった。
黒く、しかし濡れ髪のような耀きを放つドレスは、サギの出身界では物語にしか出て来ないような、つまり日常では見慣れないものだ。確か特別な名称があるはすだが、サギにはわからない。顔を含めた頭部を黒いヴェールで隠しているのではっきりとわからないが、しかし体型と服装、それに先程聞いた声からすると、恐らく女性だろう。その彼女は、先程どこか恐る恐るといった様子でドアを開き、カウンターの前まで進んできた。そして、サギを見つけるなり、先程こう言ったのだ。
「ここならば、最も遠い土地へ逃げられると聞いたのですが」
声は凛とした響きを持っていて、サギは多少面食らったものだ。
普段であれば、というか、正規の客であるならば、すぐにサビがやってくるはずだ。しかし、今回サビはなかなかやって来ない。ということは、彼女は正規の客ではない可能性が高い。資格もないのにドアを見つけてしまい、入って来てしまう者が時折いるのだ。そういう者はさっさと防犯システムで追い出されてしまうのだが、それが起こる様子もない。
さて、サギは彼女に対してどうすればいいのか。
「あの」
再び声をかけられ、サギはびくりと肩を震わせてしまった。そして震わせたついでに、あることを思い出した。
「はっ、そうだ、紹介システム! あの、紹介状か、ここのことをあなたに教えた方のお名前か、何かないですか!?」
「え、紹介状? あ、その、そういったものはないのですが。ここのことを知ったのも、書物がきっかけですし」
「それでは、その書物のタイトルか、書いた人のお名前は」
「タイトルもちょっと。マレト・スクルールという署名はあったんですが」
それを聞いて、サギはようやく安堵した。マレト、つまりマレットだ。彼はいくつかの名前を持っていて、その一つが今彼女が挙げたマレト・スクルールだ。恐らく、彼女はマレットの作ったどこかの世界の住人で、そこにはマレットがここのことを記した書物が残されていたということだろう。マレットはたまにそういったことをやるのだ。
「珍しいお嬢さんと思ったけど、マレトの書物を見たお客様でしたか」
聞こえてきた声はサビのものだ。目の前の彼女は客として認められたようだと思っていると、彼女が手を口に当てるのが見えた。
「猫が、喋ってる」
そう言ったかと思うと、彼女の体が後方に倒れてしまった。
「え、えー!?」
「あれ、猫は喋らない世界のお嬢さんみたいだ」
そうこぼしながら、どこからか飛び降りてきたサビが、倒れた彼女の頬を足でつつく。
「そんなこと言ってる場合ですか社長!」
「おい今すげー音したけど大丈夫か!?」
サンミの叫び声に、サギは振り返る。
「お客様が、社長見て倒れちゃって」
「ああ、そういうことな。運んだ方がいいか?」
「サンミ君今泥だらけだろ。他に誰か、アキハルとかいないかい」
「呼んでくるわ」
ソファにダークグリーンの燕尾服を着た女性が腰掛けている。ともすればにんまりと笑っているようにも見える垂れ目は絶妙な加減で弧を描き、穏やかに微笑んでいるように見えるが、灰色の髪に黒や茶の髪が混じっている不思議な色彩、不健康にも見える真っ白な肌も相まって、やや不気味な印象に見える。
それが、人間の姿に化けたサビの姿だ。
サビの対面には先程起き上がったばかりの黒いドレスの女性が腰掛けている。
「まことに申し訳ありません」
頭を下げる彼女に、サビがほほほと笑う。
「お気になさらず。こういったことはたまにありますので」
「そう言っていただけると助かります」
「あなたの世界では猫は喋らないのですね」
「その通りです。心得がある者は言葉を解するようなのですが、私にはそちらの才能はなくて」
「それでは、さぞ驚いたでしょう」
ほほと相変わらずサビは笑っている。
「はい。でも、考えてみればそのようなこともありえると理解しているべきでした」
「おや、どうして」
「この建物は私の故国には存在しない材質でできていますし、そちらの女性や先程までいらした男性がお召しになっている衣服や生地は故国では勿論、他の国に似たようなものがあると聞いたこともありません」
「ほう。なかなか察しのよいお方のようですね。私はサビと言います。あなた様は」
「ああ、名乗っていませんでしたね。失礼しました。私の名はアンジェリカと申します」
「家名はないのですか」
「昔はローゼハイムという家にいましたが、先日縁を切っていただいたので」
「おや、家出ですか」
「ローゼンハイムの家名を背負って斬首になるわけにはいきませんでしたから」
彼女、アンジェリカの言葉に、サビの目が弧を描くのをやめる。
「なるほど。それで家名を捨て、その上で亡命をご希望ですか」
「はい」
そう言いながらも、アンジェリカはどこか不満げだ。
「おや、乗り気ではないようですね」
「亡命は不本意なのです」
「不本意? 失礼ですが、経緯を聞いてもよろしいでしょうか」
「長くなりますよ」
「構いませんとも。寧ろ聞かせていただきたい。でなければ、我々はあなたの依頼を引き受けることができないかも知れませんし」
すると、アンジェリカはため息をついた。
「そうですね。では、お話ししましょう。私、本当は、潔く首を落とされようと思っていたのです。これであの男に汚名を着せることができるのなら、私としては最高の復讐となるのですから」
「あの男とは」
「王位継承権第一位の男で、私の元婚約者でした。しかし、学園で出会ったとある娘にうつつを抜かし、挙げ句私を悪人にして、公の場で婚約破棄を一方的に宣告、更に私の首を刎ねるとおっしゃった、大変愉快な男ですよ」
「おやおや。あなたは悪人だったのですか」
「あの男が懸想している娘に、身分のことや礼儀作法について指摘しただけのつもりでしたが、どうやらそれは悪いことだったようです」
「ほほう。それで、あなたは家名を捨てた上で首を差し出し、後の世にその程度のことで婚約者の首を刎ねた王族がいたという歴史を残そうとしたと」
「その通りです。しばらくは私が悪く書かれるでしょうが、私も日記やらを元の家に残しているので、その内評価が覆り、その時こそあの男の名を貶めることができると思っていたのです。しかし、あの男は好機を逸する星に生まれているようで、私の首が今こそ落ちるという時に、国王が帰って来てしまいました」
「それであなたの斬首は取りやめに?」
アンジェリカは残念だと頷く。
「保留となりました。詳細を調査し、追って沙汰を出すと。私はそれでも良かったのですが、あの男はそれでは我慢ならないようで、私を密かに殺そうとしたのです。私は目撃者のいない暗殺で死ぬという事態だけは避けたかったので、命からがら逃げ延び、王宮の大図書館に立て籠もり、何かないかと探した結果あの書物を見つけ、そこにあった方法で扉を作り、ここに来たのです」
「なるほど。ここに来た経緯はわかりました。ですが、それならばなぜあなたは亡命を希望したのですか」
「半分は、民が望んだからです」
「ほう」
「私がいざ首を落とされるとなった時、私の延命を望んでくれた民がいました。私の斬首が保留となった際、良かったと安堵してくれた民がいました。そして王城へ連行される私に、逃げるならば手を貸す、何が何でも生き延びてほしいと言ってくれた民がいました。私は、領民の願いを可能な限り叶えるために我々はあると教わってきました。ならば、生き延びてほしいと願う領民の願いは叶えなければならないと、貴族として生まれついた私は思うのです」
「ではもう半分は」
すると、アンジェリカの口元がふっと微笑む。
「もう半分は自分のためですね。復讐をしたいのです。私が最も美しいと感じていた復讐はもうできません。ならば違う形で復讐をしてやりたい。そのために、まずは命の危険がない場所まで逃げ延びたいのです」
「なるほど。しかし、一つ問題がありますね」
「なんでしょうか」
「我々が請け負うのは、異世界に転送するということです。それは基本的に一方通行で、帰ることも可能ですが、往復の依頼は主神クラスの権限がなければなりません。しかしアンジェリカ様は人間社会では権力があっても、私から見ればただの一般人も同様、到底往復の依頼をする権限はありません。ですので、あなたの望む復讐をするには、我が社は不適切では」
サビの説明に、アンジェリカは息をつく。
「そうだったのですね。それでは、仕方ないですね」
「一方通行でも構わないならば、請け負うのですが」
「少し考えても良いでしょうか」
「構いませんよ。それに、我々もあなたのことを審査しなければならないので、いずれにせよここで少しお待ちしてもらうことになります。我々の審査が終わるまで、ここでゆっくりお考えください」
「はい」
どこか気落ちした様子のアンジェリカを見てか、ふとサビは口を開く。
「少し差し出がましいことを言っても?」
「なんでしょうか」
「ここからならば、我々はアンジェリカ様が望むありとあらゆる場所へ運ぶことができます。アンジェリカ様が住みたいと思うような世界も、条件を言っていただければそれに近いものを見つけましょう。或いは、元の世界の過去や未来に送ることもできます」
「過去や、未来にも?」
「ええ。ここは時間が循環してますから、異世界ならば過去も未来も自在なのです。あなたが望むならどこへでも。ただ、どこへ行くかはよく考えてください。そしてあなたは、元の場所に帰る以外では、どこへ行っても最初は一人で生きなければなりません。そこにはあなたに貴族であれと言う人も、あなたに生き延びよと言う民もいません。本当にあなた一人となります」
サビの言葉に、アンジェリカははっとした様子を見せる。その様子を見てか、サビは微笑む。
「だからあなたは、あなたのために、あなたが望む道をお選びください」
そう言って、サビは席を立ち、部屋をあとにした。
サビが部屋を出て、とある場所にメールを送ると、すぐに犬の着ぐるみがやってきた。マレットだ。
「やあやあサビさん。お呼びかな? お、今日は人間形態か!」
「アンジェリカ・ローゼンハイムという名に心当たりは?」
すると、マレットはぽんと手を叩く。
「お、遂に来たんだね」
「やはり知ってるな。何者なんだ、あのお嬢様」
「これの悪役」
そう言って、マレットはどこからかゲームソフトのパッケージを取り出す。『薔薇の魔女と白百合の乙女』とある。
「なんだそれは」
「最近カーンとやったゲームだよ。通称乙女ゲームって呼ばれるやつで、男を口説き落としながらエンディングを目指すゲーム。アンジェリカはこの薔薇の魔女ってやつね」
「ライバル役というやつか」
「そ。ストーリーの概略はまあいいとして、このアンジェリカってキャラ、僕は大好きでね。領民に大変好評なお貴族様で、実際行動もかっこいいんだよ。でも、主人公の攻略対象である王子様にゾッコンで、主人公に王子様が取られるって段階になって、段々狂気を帯びていく。領民に八つ当たりはしないけど、まあ主人公に対しては細々とした嫌がらせをやっててね。いよいよ追い詰められて、主人公を暗殺しようとしたところで王子様に事が発覚。王子様は主人公を守るためにアンジェリカとの婚約を破棄、そしてその場で主人公と婚約、更にその主人公に害をなそうとしたということで斬首を言い渡す、そういうエンディングなんだ」
「ふむ。そこは概ねアンジェリカ様の言う通りというわけか」
「アンジェリカはなんて説明を?」
マレットの質問に、サビは先程聞いたことを簡単にまとめてマレットに説明する。
「という感じだったが」
「うん、暗殺計画のくだりは抜けてるけど、それ以外は何も間違ってないよ。で、本来なら彼女はそこで斬首される」
「でもそうならなかった。マレット、何かやったのか?」
「そうさ。まあ聞いてくれよ。このゲームはアンジェリカの斬首のシーンで終わるんだ」
「すごいエンディングだな」
「そうだろ。でもこのゲームの凄いところはこの後だ」
「続編というやつか」
「その通り。これがまた面白くてね。続編では、アンジェリカに婚約破棄を言い渡し、おまけに斬首した王子様は領民から大変評判が悪いんだ。おまけに斬首される時のアンジェリカの演説を聞いた領民があちこちで反乱を起こしている。それを主人公と王子が平定していくってあらすじだ」
「その話、三まであるんじゃないか?」
「流石サビさんいい勘だよ。そう、更に続編があってね。そこではアンジェリカが魔女として復活、領民を扇動しながら王子と国取り合戦をするっていうね、もう乙女ゲームってなんだっけって内容になるんだ」
「それ最早主人公が霞んでないか?」
「そうでもないよ。主人公が行く先々で仲間を増やすことで戦況が変わっていくんだ。攻略はこの部分だね。二までは若い美青年ばかりだったけど、三になると美青年だけでなく、現役引退した老将軍や強い武器を作るドワーフ、更に最強の封印術が使える魔女なんてものまで攻略対象だから、カーンも僕もすっかり楽しんじゃって」
興奮した様子で更にまくしたてそうだったが、サビはそんなマレットの顔の前に手を出した。
「ゲームの話はわかった。それでマレット、なんで君はゲームの世界なんてものを再現して、アンジェリカを生き延びさせたんだ?」
「ちょっとした実験だよ。それにしても、そうか、斬首を逃れるとここに辿り着く可能性が出るんだね」
マレットの言葉にサビは顔をしかめた。人間に化けているためか、いつもより感情がはっきり表情に出ている。
「君、いくつか作ったな?」
サビの言葉に、マレットの頭がこくりと縦に動く。
「お察しの通り。何パターンかこしらえてみたんだ。育ちが少し違うもの、育ちは同じもの、アンジェリカの枠にいつだかに君達に転送してもらった魂を入れたもの。そこへ更に環境変化をつけたり、イベントの前後を変えたりと、結構いっぱい作ってね。そうして、どのルートならアンジェリカが勝者になるのか、その可能性を探ろうと思って」
「その可能性の一つがここに辿り着いたと。ということは、往復運賃もマレット持ちですか」
「そこで相談があってね」
「というと?」
「ここに辿り着いたのは今のところあの一例のみだ。僕は彼女を分割して、選択肢を増やしたいんだ。僕が意識に介入して、元の世界に戻ると選択したもの、異世界に飛ぶと選択したもの。この二つは僕の方で処理をするから、サビさんがやることはない」
「では、彼女の自発的な選択についての面倒を見ろと?」
「そういうこと。ただ、彼女には好きな時に戻る選択肢も与えたいから、彼女が異世界に飛ぶと決めたら、こことの連絡方法を教えてやってほしい。関連する経費は全部僕が持とう」
「わかった。ではそのように処理しよう」
「頼んだよ」
そう言うや、マレットの姿がぐにゃりと歪み、そのまま空間に溶けるようにして消えた。それを見て少しして、サビはアンジェリカの待つ部屋に戻った。
サビが部屋に戻ると、アンジェリカはなぜかヴェールを取っていた。編まれた白銀の髪、白い肌、少し釣り上がり気味の目、つんと小高い鼻、ほのかに赤みを帯びた唇、それらがバランスよくおさまった顔を見ると、魔女というより女神か何かのようだと、サビは密かに思う。
「アンジェリカ様、お待たせしました」
「いいえ。お陰で少し考えをまとめることができました。審査の結果はどうでしょうか」
「審査の際に、少し調査をさせていただきました。アンジェリカ様、あなたは、あなたの元婚約者が恋した相手を殺そうとは思わなかったのですか?」
訊ねると、アンジェリカは一瞬目を見開いた。
「どうしてそんなことを」
「いえ、純粋な疑問です。まず、自分の元婚約者より、その相手を殺そうとするのではないかと」
「そういうことですか」
そうこぼし、一旦目を伏せたが、すぐにアンジェリカは半ば睨むような目でこちらを見る。
「殺そうと思ったことはあります。でも、考えたのです。それであの娘を殺すのでは苦しむのはあの男だけになります。私は、二人共に苦しんでほしかった。二人共貶めたかった。だから殺すのではなく、私が死ぬことにしたのです。私が死ねば私の死を悼み、私の死の原因を憎んでくれる民がいると、私にはわかっていましたから」
「その民が何をするか予想がついているのですか」
「予想はつきませんが、私の希望はあります」
「なんでしょう」
「いつの日か、私の代わりにあの男を困らせようとしてほしいですね」
「それを彼がうまく治めてしまえば、あなたの無念は晴れないのでは?」
「別に私は、民に無念を晴らしてほしいとは思ってません。そうしてくれたら嬉しいくらいです」
そう言って、アンジェリカは目を細める。
「とは言え、過去に殺意を持ったことは否定できません。審査にそれは関係するのでしょうか」
どこか不安げな彼女に、サビは微笑む。
「いいえ。今のは私の好奇心のようなものです。我々はあなたからの依頼を受けましょう。アンジェリカ様、あなたはどこへ行きたいですか?」
アンジェリカは一度言い淀んだが、やがて口を開く。
「しばらくここに置いてもらうということは可能でしょうか」
「は」
あまりに予想外の返答に、サビは目を丸くする。
「失礼。ここに滞在するとは」
「言葉の通りです。一度しか移動できないならば、私は元の世界に帰ることを選択したい。でも、それは今すぐではだめです。過去や未来に送ってもらうことも考えましたが、いずれにせよ、今のままの私が戻るのは論外です」
「では、ここである程度過ごし、その後元の世界に帰ると」
「ええ」
「ご希望はわかりました。しかし、我が社は会社であって、逗留施設ではありません。アンジェリカ様を滞在させるわけには」
「ここの従業員として雇っていただけないでしょうか」
「はい?」
「というわけで、今日から一緒に働くことになったお嬢さんだ」
「よろしくお願いします」
腰を落とし礼をするアンジェリカを見て、その場にいた全員が唖然とした。
「社長、本気ですか」
サギが訊ねると、既に猫の姿に戻っているサビはあくびをする。
「本気だよー。それにこれだと、お嬢さんがいる間は定期的にあんちくしょうから金を毟り取れるからね」
「そうかもしれないですけど」
「アンチクショウとは」
「お嬢さんにもその内紹介するよ。差し当たっては、サギ」
声をかけられ、サギはびくりと肩を揺らす。
「なんですか」
「警戒しないでよ。同じマレットの被害者なんだから、お世話してあげてねってだけ」
「お、サギちゃん良かったね。後輩だよ!」
「私自信ないんですけど」
「ま、後輩教育って観点でいくとサンミの方がいいけど、お嬢さんには内勤させる予定だから」
「外の勤務というものもあるのですか?」
「そっちは汚れ仕事だからね。お嬢さんには荷が重すぎる。というわけだから、サギちゃん、よろしくね」
それを聞いて、サギはため息をつく。
「わかりました。なんとかやってみます」
「うんうん、よろしくね。あと、お嬢さんの名前も考えてあげてね」
「え。流石にそれは」
「私や他の人がつけるとお嬢さんがおうちに帰れなくなるから、サギがつけないと」
確かにその通りではあった。会社のあるこの空間は、サビを主神とした世界という定義がされている。そのため、サビをはじめとしたこの会社に芯から属している者に直接名付けられると、所属が書き換えられ、この世界の者と認定されてしまうのだ。しかしだからといって、元の世界の名前のままでは障りがある。そして、この会社内で他の世界との繋がりを持ったままで、上位権限を持たないのはサギだけだ。
「いい名前とか自信ないんですが」
「ま、ここでの呼び名程度だから、気負う必要はないよ。ルールは覚えてる?」
「三文字までで、もうSがつくのはだめ」
「よろしい。お嬢さん、先にも説明しましたが、これから彼女が君のここでの呼び名を決める。それ以後、我々はお客様であったアンジェリカ様を一旦忘れる。元の世界に戻りたい時は、私に向けて自分の名前を名乗り、帰る旨を伝えること。わかった?」
「はい。サギ様、よろしくお願いします」
「様はいらないです。えーと、そうだな」
サギはアンジェリカをじっと見る。そこで視界に映る諸々を流し見しつつ、ふとある単語を思いつく。
「ヌエ」
「お?」
「え」
「ヌエちゃんってのはどうでしょう」
「お嬢さん、いかが?」
サビが問いかけると、彼女は頷いた。
「わかりました。私は今日から、ヌエと名乗ります」
「うん。おめでとう、ヌエちゃん。君は今日から、弊社サビノカギの社員だ。皆程よく仲良くするように」
ということもあったと思いながら、サビは目の前に立つヌエ、いやアンジェリカを見た。出会った当初の美貌に拍車がかかり、神々しささえある美しさに成長した彼女は正に女神といった容姿だ。そしてそれは、かつてマレットに見せられたあのゲームの続編に出ていた姿にそっくりだった。
「行くのですね」
「はい。お世話になりました」
「サギがいたら号泣してただろうねえ」
今はここにいない人物の名をあげると、アンジェリカは苦笑する。
「ええ、きっと。だからこそ、帰界中の今旅立とうと思いまして」
「死ぬかもしれないよ」
事実、あのゲームにはそういうルートもあるとマレットから聞いている。
「そうかも。でも、なんとかします」
「……元気でね」
「はい。これまで、ありがとうございました」
頭を下げる礼は、サギがよくやる礼だ。それを見て、サビはため息をつき、獣人の姿を取る。
「それでは、アンジェリカ・ローゼンハイム様。これよりあなたを元の世界に戻しましょう」
サビが爪先を床で叩くと、アンジェリカの服がつなぎからシンプルなワンピースドレスに変わる。黒一色だが、よく見ると胸のあたりに薔薇の刺繍が施されているものだ。
「色は黒にしてしまったけど、それでいいかな」
「ええ。そうだ、黒いヴェールのようなものはないでしょうか。あちらの世界では、私のこの髪は目立つので」
「いるかい?」
「できれば。まだ私だということは隠したいし」
「わかった」
頷くと、サギの手には黒い紗が現れた。それをふわりとアンジェリカの頭部にかけてやる。
「勿体ないなあ。お前の髪は綺麗なのに」
「ふふ、ここの人にはよく言われました。でも、向こうでは生まれながらの白は不吉なものなんです」
「そうかい。でも、私達がお前を綺麗と思っていたことは忘れないでね」
「それは勿論」
「うん。それならいいよ。さ、あちらの扉を通れば、元の世界に戻れる。アンジェリカ様が行きたい場所を念じながら開けば、そこへ通じます」
「わかりました。では、行ってきます」
笑顔を見せつつ、アンジェリカはサビの指した扉を開け、その向こうへ行ってしまった。
それを見届け、サビはタブレット端末を取り出す。
「三年後のミッドクロウ大森林地帯か。なんでまたそんなところから。……まあ、機会があったら聞いてみるか」
サビはタブレット端末をしまい、猫の姿に戻った。
いつ彼女がヴェールに縫い込まれた術式に気付くか、そしてそれをいつか彼女が使うだろうか。
そんなことを考えつつ、サビはその場を離れた。
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