秋の訪れ

入川 夏聞

本文

   一



 いぶかしげな表情でうつむきながら歩くハルトの側を、ぴゅっ、と木枯らしがかけていった。

 近くのイチョウがゆれ、いくつかの銀杏がボタボタ落ちる。


「うげっ、まいったな……」


 見ると、足元のアスファルトの歩道にも銀杏の実がぼちょぼちょと踏みならされていて、ぼやけた抽象画のような模様が、しばらくはハルトのむかう先、はるか向こうの校門までは、続いているのだった。

 校門前には、どこぞの部活顧問の教師がもうパイプ椅子に腰かけて見張りをしているのが、ハルトのしょぼしょぼとしたコンタクトの瞳を通しても、うっすらと見える。

 この高校では、部活の朝練が盛んなためなのか、朝も六時過ぎになると彼らは竹刀やら分厚い文庫本やら、思いおもいの“得物”を持って、そこに陣取っている。そして、挨拶だけして無難に通りすぎようとする生徒たちに、余計な一言を吐き捨てるのだ。

 ハルトは、ため息をついた。

 辺りは朝もやがただよい、しっとりと湿っていて、ハルトが吐く息も白く、それでいて足元からはあの悪臭が立ち上ぼり、足裏のぐちょぐちょとした感触も伝わると、たちまちにハルトは昨年も同じ感慨にいたったことを思い出した。


(ああ、俺、秋はキライだったわ)


 食欲だ、行楽だ、と世間では浮かれているが、両親とも共働きで忙しいハルトの家では、毎年、さしたイベントもない。

 学校行事で、運動会やら遠足やらが終われば、この雪深い地方の田舎町では、もう冬じたく以外、なにもやることはない。

 すべてが作業だけの、うすら寂しげなセピア色、周囲の山が茶色く色づくように、地味で息苦しい、つまらない季節が始まるのだ。

 そして、秋には、何かが起こる。

 いつも不思議と、悲しい別れが、どこかで待ちかまえているのだ。


(……)


 ハルトは、しんみりと歩く。

 ねっとりとした足裏の感触から意識を離そうとすると、ハルトの脳裏には、イヤでも、いくつかの別れの記憶がよみがえってくる。

 中学に上がる前には、小学校で一番仲の良かった友達が転校した。

 昨年も、美術部で顧問をしていた教師がとなり町の中学に行ってしまった。

 いずれの人も、人見知りで普段からあまり感情を表には出さないハルトの良き理解者だった人たちで、そうした人たちがとなりにいて、はじめてハルトは自分の素直な思いを周囲に話せるところがあったから、なんだか余計に、彼らとの別れは文字通り半身をもがれたように、それは辛く悲しいものだった。

 高校はじめてのこの秋の訪れも、何か起こる気がしてならない。

 この厳しい冬の大地はこれまでも、容赦なくハルトの悲しみに暮れる心を凍てつかせてきた。

 静かに別れの傷を癒そうにも、荒れ狂う吹雪の中で、それでも登下校は粛々と続き、その厳寒げんかんの中では悲しみを咀嚼そしゃくできるような余裕もなく、毎日ガタガタと奥歯を鳴らしているうちに、なんだかどうでもよくなってしまう本能に根ざした思考が頭をもたげ、その事実に否と心の中で叫んで日々葛藤するうちに、ぽっかりと道端にふきのとうやらつくしのたぐいなどが芽吹きはじめてしまい、その頃にはもう別れの余韻などあろうはずもなく、あたりにかおる春一番の風を恨めしく思いながら、また新たなクラス、学年に進まねばならなかった。


「それ、ハルトってちょっと、暗過ぎない?」


 幼馴染のサナエが、昔にふと、そう言ったことがある。

 それは別れの秋、悲しみの冬を越えた、ある春の日の午後だった。


「それってもしかして、誰かと別れたことを、いつまでも悲しんでいたいってこと?」


「いや……、別に」


「ねえ、もっと毎日、楽しんでもいいんじゃない? せっかく暖かくなったんだし。せっかく、また隣の席になったんだし!」


 自分の席で突っ伏していたハルトのそばの窓辺に座り、そのときの彼女はカーテンレースと共に、柔らかな風になっていた。


「別れがあれば、出会いもある。悪いこともあれば、良いことだってある。もっと、この春の景色を、楽しめばいいのに」


 そう言って、窓辺の彼女は笑った。

 当時のハルトは、何となくその様子を直視できず、まだ分厚いレンズの奥に隠されていた自分の目を、薄暗い床面へそっと反らしたのだった。



「おい、ハルトっ!」


 はっ、として、ハルトは我にかえった。が、そのまま歩み続けた。


「今朝はサナエと一緒じゃないのかっ!」


「はあ。一緒じゃないです。おはようございます、キタミ先生。そして、失礼します」


 軽い会釈をのせて、一瞥もなくそそくさ通りすぎるハルトに慌てたのか、キタミは真っ赤なロングダウンをワシャワシャさせて、粗末なパイプ椅子から立ち上がった。


「おいおい、連れないやつだな。なんだ、彼女とケンカでもしたのか? 痴話喧嘩ってやつか?」


「先生、何度も言うけど、別に俺らは付き合ってませんよ。それに、サナエならもう先にココ、通りませんでした?」


 キタミの方を振り向いたハルトは、指先を自分の足元へ向ける。そこはすでに、校門を少し通り過ぎたコンクリ面だった。


「いや、見てないな」


「ふうん。どうせ、先生がウンコでもしてた隙に、通りすぎたんじゃないっすか?」


「あっ! それなっ!」


 キタミはビシッ、と両手拳銃の先を、向けてくる。


「……失礼します」


 ハルトは踵を返し、体育館裏の部室棟へ向かった。

 途中の校庭では、サッカー部や野球部が白い息、湯気を全身から発散させながら準備運動やランニングに興じているのが見える。

 彼らを囲む防砂用の木々の葉も、赤やら黄色やらに染まり、あとは散るばかりとなっている。

 いつも通り、とハルトは退屈そうな瞳でそれらを眺めやりながら通りすぎ、やがて古くさい部室棟の一角、掠れた文字で『美術部』と書かれたプレートのかかる扉を、静かに開けた。



   二



 ハルトは高校でも、美術部に入った。

 とくに美術に憧れがあったわけでも、将来イラストレーターになりたい、と希望していたわけでもない。

 ただ、中学校のとき、その入学初日の朝の会で、担任だった教師が、部活の説明ついでに、自分の顧問である美術部を推薦していたから、と言うのが我ながら情けない理由、と言えなくもない。


「皆さんは、何か嬉しいこと、悲しいことを、誰かと共有したい、と思ったことはありませんか。そして、それがなんだか上手くいかなくて、さみしい思いをしたことはありませんか? そんなちょっぴり不器用な生徒さんを、我が美術部では歓迎します」


 自分がそんなひ弱そうな人間だと考えたことは一度も無かったが、柔和な雰囲気の美人教師がそう言うものだから、物は試しと入部してみたのだった。同じように考えたと思える輩は数人いたが、大部分は半年程度で辞めてしまい、ハルトもはじめは迷ったが、結局、三年間のすべてを美術部で過ごした。


「ハルトさんも、素敵な大人になってくださいね。あなたの繊細な絵、先生は大好きでしたよ」


 中学最後の秋、そのヨシダが他校へ赴任することになり、部室で開いたささやかなお別れ会で、彼女はハルトに向かって、そう言った。

 小柄だが、やはり大人の女性であったヨシダに、耳元で「大好き」という響きを放たれたときは、暖かい室内だのに、霜焼けのように耳先まで真っ赤になるほど、ハルトは赤面した。


「それと、最後に。サナエさんと、仲よくね」


 ヨシダは最後にそうささやくと、隣の席に座る部員の方へ去っていってしまった。赤面したままのハルトはもじもじと下を向いていたが、同時に、なぜそこでサナエの名前が出るのか、とも考えていた。というより、心の中で叫んでいた。


(なんで、サナエの名前が、ここで出るんだよ!)


 その怒りに似た激しい感情の正体が、ヨシダへの淡い憧れを踏みにじられたことへの無念さなのか、サナエとの仲を揶揄やゆされたように感じた気恥ずかしさなのか、ハルトには今もわからない。

 ただ、普段からあまり感情の起伏に乏しいハルトにとっては、とてもめずらしい体験であることは、間違いなかった。


「ハルト、ヨシダ先生がいなくなっても、美術部、やめないよね?」


 お別れ会の帰り道で、サナエがそう言った。その日の帰り道ではめずらしく、彼女の大きな二重の瞳が、どこか沈んでいるように見えた。


「ああ。別に。めんどうだし」


 ハルトがそう短く答えて、ぼたぼたと雑に絵具を垂らしたような黄緑色の山並みを遠く眺めやると、サナエの「そっか」という弾んだ声が少しうしろから飛んできた。そして、たたたっと靴音がして、そのままハルトを追い越した。

 くるり、とサナエが振り返る。肩まで伸びた黒髪も、夕日の中でひるがえる。


「じゃあね! また、明日!」


 自分が帰る先とは違う曲がり角へと消えるサナエの姿を見送ると、少しだけ、周囲の温度が冷たく感じられた。

 入部のきっかけとなったヨシダと別れるのは残念なことだったし、絵を描くことにそれほど熱心なわけでもなかった。

 それでも当時、美術部を辞めるつもりが全くなかったことは、ハルトの中では不思議なことだったのだ。



「よう。早いな」


「ん」


 美術部の部室に入ったハルトの問いに、サナエは簡潔に応えた。中学の頃よりも、サナエの髪は少し伸び、目鼻の印象も、その性格に合わせてハッキリとしてきたように思える。

 そして、最近のサナエは特に熱心で、いつもより大き目のキャンバスに対して、一生懸命に筆を走らせている。題材としては、おそらくは裏山の紅葉、特に白樺の幹と黄色の葉のコントラストがモチーフの風景画だろう。

 部室の隅にカバンを置き、ハルトもサナエの隣のSMサイズのキャンバスに向かう。こちらはまだ下書きの線だけが載っている。


「コンクールが近いわけでもないのに、よくやるな。朝から来てるの、俺らだけだろ」


「ん」


 いつもはおしゃべりなはずのサナエの、その真剣な様子をしばらく眺めてから、ハルトは黒のコンテを手に取って下書きの線を少しなぞり、すぐに席を離れると、部室の隅に腰をおろした。

 それから、セコマのメロンパンをかじり、スマホをいじり、朝の部活動を終えたのだった。



   三



 下駄箱に、ラブレター。

 白くて横型の封筒に、小さなハートの封印シール。今どき、マンガでも目にしない代物だ。

 サナエと二人で部室から教室に向かう途中のことだった。


「なに、なに? あー、それって!」


(……)


 サナエの妙に浮ついた声が、かんにさわる。ハルトはその封筒の前後に名前のようなものが書かれていないことを確かめると、スタスタと近くのゴミ箱へと向かった。


「ちょっと、ちょっと! 待ちなさい!」


 ゴミ箱の前に、サナエが仁王立ちになる。


「ハルト、そうやって誰かさんの好意を台無しにするものじゃないよ」


「いや、どうせ誰かのいたずらだろ?」


「いいから! 少なくとも、読んでから決めなさいよ」


「はあ、そうですか」


 髪をくしゃりとしてから、サナエと二人、人通りの少ない階段の陰で便箋を開く。



『あなたが好きです。恋しています。はやく私を、見つけてね』



 いびつな筆跡の手書き文字に、宛名も差出人名もない。

 きゃあ、きゃあ、言っているサナエの様子に対して、ハルトはため息を吐くしかない。


「いや、普通に気持ち悪いだろ」


「ええ? なんで!?」


「自分が誰かも名乗らず、突然好きです、なんてさ」


「きっと、すごく恥ずかしがり屋さんな子なんだよ」


「ふうん。まあ、どこの誰かもわからないんだし、どうしようもない。やっぱりこれは、ゴミ箱行きだな」


「待って!」ラブレターをやぶこうとするハルトの手を、サナエがしっかりとおさえ込んだ。


「さがそう! その子を、さがしてみようよ」


「はあ? どうやって」


「きっと、ハルトの近くにいるんだよ、その子。誰か、思い当たる子は、いないの?」


「いないね」即座に、ハルトは否定した。


「本当に? 誰も? ハルトは、恋したこととか、ないの?」


「ないね。いや、なんでお前が……そんなに熱心なんだよ」


 先ほどから、サナエの大きな瞳がいつもよりもハッキリとハルトを捉えている。手は握られたままだし、顔もいつもより、ずっと近い。


「……本当に、誰も思い当たる子がいないのかどうか、よく、考えてみて」


 そう言って、サナエは先に階段を上がっていってしまった。

 ハルトはしばらくぼうっと立ち尽くし、やがてラブレターをカバンにしまうと、ゆっくりと自分も、教室へ向かった。


 その朝の教室で、ハルトはサナエが転校することを知った。



   四



「お前、なんで、黙ってたんだよ」


 放課後の部室で、サナエは黙々と自分の絵に向かっている。ハルトは黒コンテをキャンバスに叩きつけていて、その様子を周りの部員らがおろおろと見つめていた。


「来週、転校するなんて、急……過ぎるだろ!」


 ガリリとキャンバスを引っかく音がして、ハルトの黒コンテはポキンと折れた。

 部長のカガミが立ち上がり、それに合わせて他の部員も続く。


「それじゃ、二人とも。積もる話もあるだろう、そうだろう、無理もない。我々はお先に、失敬するよ」



 部室に残された二人は、しばらく黙々と自分のキャンバスに向かっていた。

 サナエは豊かな色彩の風景画へ、ハルトは真っ黒ででたらめな線の束へ。


「……出来た」


 やがて、サナエがそう呟いて、「ほら、見て」と言った。

 口を尖らせていたハルトが、サナエの方を向くと、天窓から注ぐ西日が光り、思わず目を細めた。同時に、優しく微笑むサナエと、彼女の描いた風景画が、目に飛び込んでくる。


「私ね。あの裏山の、白樺が黄色く紅葉する今の季節が、大好きなの。だから、ハルトにも、秋が大好きになってほしいと思って、この絵を描いたんだ」


 ハルトはじっと、風景画を見つめていた。「どう?」と、サナエがどこかさみしげに聞いてくる。


「やっぱり。秋は、キライだ。なんだか、悲しくなってくる」


「私と、別れるのも?」


「……サナエは、卑怯だ。俺が、そういうこと、言うのキライなこと知ってるくせに、いつも一緒にいたくせに。そんな聞き方、卑怯だ」


「ごめん。でも、ハルトにはきっと、あのラブレターの彼女がいるから、さがして……」


「それが一番、卑怯だ。相手の本音が知りたいからって。いくら時間が、もうないからって、そんなこと。らしく、ないぜ……あれ、どうせお前が、書いたんだろう」


 一瞬だけ固まった表情を見せたサナエは、ゆっくり立ち上がり、やり場に困った瞳をうろうろとさせて、後ろ手に恥ずかしそうなしぐさを見せた。


「あれ。もう、見つかっちゃった」


「いい加減にしろ。もう、帰るぞ」


 ぶっきらぼうに部室から出たハルトを、跳ねるようにサナエは追いかけた。

 それは、幾度となく繰り返されていた、いつものままの光景だった。



 翌週の朝も、ハルトは一人で登校した。


 いつもより少し顔をあげてみると、視線の先のイチョウの鮮やかな黄色が朝日を反射して輝いている。

 そして、遠くの山裾やますそに広がる紅葉こうようの景色の中に、白い骨のような印象の白樺を見つけると、サナエが平筆でそれを描いていた光景が思い出され、ハルトは、ほっ、と両手に息を吐いた。

 いつもとは少し違う、秋の訪れを感じさせる、ある朝のことだ。


(了)

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