第8話 理由

 社長室に行くまでには、廊下の突き当たりまで歩き、エレベーターを最上階まで乗ることになる。


 芽生はなるべくゆっくりと、心を落ち着けながら歩いて向かった。エレベーターに乗り込み、ボタンを押すとき、手が一瞬震える。


 これで、クビだと言われたらと思うと、押すのを戸惑った。しかし、もう昨晩、クビを覚悟したのだから、仕方ないと思いつつ、えいや、とボタンを押した。


 ドアが閉まり、そしてエレベーターが動き出す。あっという間に最上階についてしまい、もう戻れないぞという気持ちで社長室の前まで歩いた。


「失礼します、総務の折茂です」


 息を深く吸って吐いてから、ドアを開けた。


「二分で来いと言ったのに遅かったな」


「すみません、作業中だったのと、社長からの電話に部長がビビっていまして」


「ふん、まあいい」


 相変わらずな態度の涼音は、見た目だけでいえば格好良かった。


「いつまでそこに突っ立ってるつもりだ。ここまで来い」


 机を指でトントン、として勝ち気な笑みを見せつけるようにしている姿も、さすが社長という仕草なのだが、涼音に限ってはなぜか腹が立った。


 整えられた長机の向こうに座って、芽生を見据えるその瞳は、まるで肉食獣が獲物を見つけたようにキラキラと光る。


「……クビですか?」


「昨日、なんであれを出した?」


 芽生の質問には答えずに、涼音はそう伝える。


「……はい?」


「だから、昨日のラストオーダー。俺になんであの雑炊を出したんだ?」


「えっと、出した理由ですか?」


 そうだ、と涼音はうなずく。


(クビの皮一枚繋がってる、まだ……)


 芽生は、ドキドキして緊張していた気持ちが、すう、と退いていく。雑炊を作ったことを思い出すと、ふと冷静になった。


「……社長が、疲れた顔してたからです」


「それだけか?」


「いえ、違います」


 それに涼音が芽生に分からないように口の端を上げた。


「昨日、社長は、お料理をほとんど口にしていませんでした。それに、飲み物も。食べていたのはお通しの筍と酢の物、香の物。ビールを残したまま二杯目はホットのウーロン茶。指先も白くて、私寒いのかと思ってあったかいおしぼり持っていったんです。覚えていますよね?」


「ああ」


 昨晩、涼音はほとんどの料理を食べず、連れの二人の話を聞いて、二人が料理を主に食べていた。


「でも、空調は効いていました。寒いんじゃなかったら、食欲がないか、具合が悪いかです。でも、話した感じだと具合が悪いようには到底思えませんでしたから、食欲がなかったんだと思ったんです」


「社長が具合悪そうにできないだろうが」


「そんなの知りません」


 しれっと切り捨ててから、芽生は続けた。


「居酒屋メニューは、味付けも濃い目ですし、こってりも多い。食欲がないときにそれは辛いです。しかも社長ですから、お付き合いやら外食も多いんだろうなと思って…なので、胃に負担の少ないお雑炊に、身体を温める生姜を入れて、カフェインのない番茶にしたんです。疲れているのに眠れないとか文句言われても困りますからね」


「なるほど」


 涼音はそこまで黙って聞いてから、ゆっくりと背もたれに背を預けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る