第4話 甘い

「手を洗いたいのだが」


 オーダーを席に届け終わった芽生の目の前に、鬼社長が突如現れた。切れ長二重の整った顔立ちが目前に現れたのに、別の意味で芽生は思わず心臓が止まりそうになった。


「あ、お化粧室ならこちらの奥です……」


「ありがとう」


(うっわ、びっくり! あんなにきれいな顔だったのね)


 女子社員が騒ぐのも分かる、と芽生は一人納得していた。スマートな聞き方、上質なスーツ、革の靴はピカピカに磨かれている。まるで一つも隙のない大人の男という感じだった。


「ま、大丈夫よね。私、会社では地味だし」


 芽生が片付いたテーブルを布巾とアルコールで拭いていると、大きな影が現れる。振り返ると、鬼社長の涼音が立っていた。


「あ……と、どうされました? ご注文の品まだでしたか?」


 芽生が慌てると、顎を急につかまれる。ぐい、と顔を寄せてくると、ふさふさで長いまつ毛の奥の瞳がじっと芽生を見つめた。


「――お前、うちの会社の人間だな?」


「えっと……」


 芽生は目を泳がせる。


「名前は確か、折茂芽生。総務部だ」


(……あ、もう完全にばれてるこれ)


 名前を、しかもフルネームで言い当てられてしまっては、逃げ場が全くない。芽生は泳がせていた視線を、涼音に戻した。


「俺が、社員の顔と名前を覚えていないとでも思ったか? ――甘いな」


 冷や汗を垂らす芽生を見て、ふと、涼音が勝気な笑顔を見せた。芽生はそれを見ると、逃げ出そうとするのをやめて、顎を持たれた手を外した。


「そうです……折茂です」


 時刻は、閉店の三十分前。ラストオーダーを取りにまわるところだった。店には涼音たちの一行と、もう一組カップルがいるだけで、この様子に気がついている者は誰一人としていない。


「折茂芽生、なんで、ここで働いているんだ?」


「後で話しますから。今は仕事中なので……。ラストオーダー伺いますね」


「今、言え。俺を後回しにするなんていい度胸だなお前」


(何この人、めっちゃ上から目線!)


 芽生は涼音のその言い方にカチンときた。


「仕事優先なんです、私は」


「へえ、会社の規定を知っていてそれを言ってるなら、命知らずだな。俺の会社を優先せずに、このバイトを優先するっていうのか?」


「そんなこと言っていません。それに、会社の仕事はきちんとやっています」


 それは知っている、と涼音はあっさりとうなずいた。それに芽生は驚く。なんで、と顔に書いてあったのが丸見えなのか、涼音が面白そうに笑った。


「早川からの報告書はきちんと読んでいるからな。お前が優秀だということくらい分かっている。その優秀なお前が、ここで働く理由はなんだ?」


 芽生がどうしようかと迷っていると、二人に気がついた真鍋が心配して駆けつけてきた。


「あの……お客様。何かありましたか?」


「ああ……いや。なんでもないよ」


 涼音はにやりと笑うと、席に戻っていく。真鍋が芽生を心配そうに見た。この居酒屋では、芽生のダブルワークが禁止なのは誰もが承知の事実だった。


「鍋ちゃん、大丈夫。有紀君にはまだ言わないでね。自分で、対処できるところまではやってみるから」


「わかりました……でも、無理しないでくださいよね」


「うん。ラストオーダー取りに行ってくるから、八番テーブル行ってきてくれる?」


「はい」


 芽生は、気を引き締めると、ラストオーダーを聞きに向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る