第17話 錯覚――聖女エトワール

 エトワールは聖女だった。そして、多くの人々にその聖性を信仰されながら長い長い後半生を全うし、この世を去った。

 しかし、彼女を信仰する人々は知らなかった。彼女は聖女である以前に魔女であり、二百年以上も昔に世界を席巻した大戦で多くの命を奪い、数々の土地を焦土にしたということを。

 彼女は大戦の後、己の過去を悔い、そのあまりに重い罪を贖うために一つの塔を築くと、大半の時間をそこに籠もり、暗闇の部屋のなかで、世界を統治する神に向かって祈りを捧げ続けた。過去の悲劇が再び起こることのないように、と。

 あるとき、大戦により居場所を失った家族が塔へ辿り着いた。エトワールは彼らを手厚く介抱し、行き場のない家族のために塔の麓に家を建て、住まわせた。

「こんな所で一人、なにをしておられるのか」

 そう訊ねられたエトワールは、「人々のために神に祈っている」と答えた。そしてそれから、七日に一度だけ塔の上から降りてきて家族と交流した。

 自分たちを救いの手を差し伸べた恩人、祈りに生きる乙女エトワールに対し、家族はいつしか心酔していく。やがて彼らは伝道者となり、エトワールと、彼女の住む祈りの塔を近隣諸国へ広め始めた。

 大戦の深い傷痕を抱える諸国にエトワールの噂はあっという間に広がり、祈りの乙女を一目見ようと人々は続々と塔の麓に集った。エトワールは七日に一度人々の前に姿を現すと、一日をかけて衆人の話を聞き、また彼女から彼らに話をした。

 塔を訪れる者は引きも切らず、やがて何十年もの歳月のなかで、塔の周辺に多くの人が住むようになり、塔を囲んで一つの都市にまで発展した。それは、戦争によって傷ついた人々が、平和を求めて築き上げた都市だった。

 塔の周辺が都市になり、彼女を切望する者たちが殺到してもエトワールの祈りの日々は変わることなく、六日間の孤独な祈りと、一日の衆人との交流を続けた。

 エトワールは集う人々に、平和の尊さ、非道な暴力の虚しさと人を思いやる心を説いて教えた。彼女の教えを、都市の伝道者がさらに世界中へ流布した。エトワールはいつしか、世界の平和を守護する聖女として、世界中から信仰されるに至る。



 魔女夜会から三日後の夜、ハナは箒に跨がり、高い塔のある都市を上空から眺めていた。北辺の森から南下して二日かかる距離、砂漠のオアシスにその都市はある。昼は灼熱、夜は零下の厳しい気候のなかで、信仰を頼りに発展した都市。夜を待ち、ハナの黒い姿が目立たなくなるのを待ってから、都市へ空から接近した。

 ハナは一度、エトワールの住む塔のなかを訪ねたことがある。そこは彼女以外に誰一人立ち入ることのできない禁域だった。

 聖女となった彼女が、人々の見えないところでどんな優雅な暮らしをしているのだろうか。そう期待しながら向かった、あの日の浅はかな自分を呪いたいとハナは思う。

 エトワールが祈りを捧げていたのは、窓もなく明かりを灯すランプの一つもない、真っ暗闇の部屋だった。上下左右すべてが荒削りな石の壁で覆われた冷たい部屋で、エトワールは真の暗闇とずっと正対し続けていた。それが、彼女の『贖罪』だった。

『体を失った魂はどこへ行くのかしら。わたしは天の国ではないと思う。だって、天の国を主宰する神など、この世界には存在しないのだもの。魂は消えてしまうのよ。真っ黒な闇のなかに、ただただ、融けていくの』

 彼女は優美な微笑みを湛えて、かつてのハナにそう語った。あのときの彼女の姿を忘れることはできない。六日の断食で痩せ細った体を緩やかなローブで隠し、優美に見える微笑みの裏には途方もない絶望が秘められていた。

 平和の守護者などと、とんでもない。彼女はずっと、大戦の影を背負い続けて、その重みに押し潰されそうになりながら、それでも影と共にあることを――大戦の記憶から決別せずにいることを――決してやめたりはしなかった。世界を食い尽くした絶望をその身に飼いながら、その絶望が自身の体と共に朽ちて無くなることをひたすら待ち続けている。

 ハナは、そんな彼女へ畏怖さえ感じた。

 大戦から数十年、当時はまだ多数存在した魔女たちのなかで、そこまでの絶望を抱きしめ、ひたすら己の罪過に向き合い続けた者など、彼女以外に一人としていなかったからだ。皆、つらい記憶を忘れてしまうことに必死だった。そうしなければ、発狂するか、自ら命を絶つしかなかったから。



 戦後に人々の心の灯火となって信仰されたエトワールは、戦中は魔女たちの希望の星だった。殺戮兵器として『生産』され、戦地へ送られていく魔女は、ミッションを成功させ、戦果を上げられなければ『不良品』として廃棄されてしまう。生きるためには、他者をより多く屠る必要があった。

 そのなかでエトワールは、どんなに過酷なミッションも一丸となって切り抜けていくため、同期の魔女たちの先頭に立ち続けた。ともすれば恐怖と絶望でちりぢりになりかねない幼い魔女たちを常に一つにまとめ上げ、彼女のチームは連戦不敗の記録を打ち立てる。

 それは取りも直さず、終戦に至るまでもっとも多くの命を奪い、土地を焼いたということだ。

 終戦に近付けば近付くほど、目に映る光景は凄惨を極めていった。戦前の平和の面影など微塵もなくなった世界で、焦土の上に死体を並べ、それをさらに焼き尽くすような、絶望をより深い絶望で強固に塗り固めるような作業が続いた。多くの仲間が命を失い、残された者たちの背負う荷物が増えていく。

 それが、ハナたちの経験した大戦だった。



 エトワールは、戦後二百年以上に渡って続く平和の立役者となった。そして、今年、死んだ。

 彼女の教えを支えにして生まれ、成長した都市はいま、夜のなかで静けさを保っている。しかし、いまやその心柱である塔は、エトワールを失ってがらんどうになってしまった

 平和の支柱を失って、人々はこれからどんな道を歩んでいくことになるのだろう。或いは、本来あるべき道を踏み外していくことになるのだろうか。

 エトワールが二百年かけて構築し、守ってきた平和の瓦解するする音が、ハナの耳に聞こえてくるようだった。あの大戦だってそうだったのだ。それを守ろうと多くの人が望み、強い意志で臨まなければ、中身のない平和などある日突然崩れ去る。そして、戦争の理由を作った者たちから遠い場所で、多くの命が無益に失われ、そうして膨れ上がった戦火は、燃やせるものをすべて燃やし尽くすまで止まらない。平和とは、それほどに脆いものだ。


「エトワール、あなたには見えていたの?」


 あの真の暗闇のなかで、頑なに塗り固められた絶望のなかで、彼女はそんな未来を見ていたのではないかと思う。だって、そうでなければ、平和がいかに貴重なものであるかを、心から訴え続けるなんてできるはずもない。彼女は六日間、彼女の記憶のなかの凄惨な現実と絶望と向き合い続け、その悲惨さから、守るべき平和の姿を取り出して人々に語り伝えていたのだろう。

 人々は、彼女は「神に祈る聖女」と解釈したが、それは人々の錯覚に過ぎなかった。だって彼女は、この世の神の存在など微塵も信じていなかったのだから。


『魂は消えてしまうのよ。真っ黒な闇のなかに、ただただ、融けていくの』


 彼女の魂も、彼女が見つめ続けた闇のなかに消えていったのだろうか。そして、ハナの魂もいずれは――。


 ハナは塔のある都市を遠目に眺めるに留め、夜の終わらぬうちに砂漠地帯を後にした。塔に背を向けたあとは一度も振り返ることなく、逃げるように空を駆け続けた。

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