第16話 無月――魔女夜会

 月のない夜が始まった。

 新月の夜、家の窓辺から湖の水面がぼんやりと輝くのを見たハナは、ローブを羽織り、とんがり帽子を被って外へ出た。ムニンが肩に乗って従う。

 桟橋近くの入り江へ降りていくと、浜辺にほど近い水のなかから白い光がぼんやりと、空へ向かって立ち昇っているのが見えた。

「ほんとに動き出したぁ。シュネーの通信機だよ。すごいねぇ、ムニン」

 四日前、北辺の森を訪れた魔女仲間のシュネーが、この日のためにハナに用意してくれた通信機だった。なんでも、湖のなかへ沈めることで、水を媒介にして映像を映し出すことができるらしい。ハナには、説明されてもまったく理解できない原理だったが、こうして実際に見てみるとシュネーの言葉通りなのだとわかる。

 やがて、光の中に一人、二人……と、幾つもの姿が浮かび上がった。すべての人物がとんがり帽子を被り、丈の長いローブで体を覆っている。黒や暗色で身を固めた者が大半を占め、全員が似たり寄ったりの姿をしていても、ハナにとって彼女たちはすっかり見慣れた存在で、それぞれの醸し出す個性をはっきり見て取ることができた。

「全員お揃いのようだね」

 集う魔女たちのなかから、一人が声を発した。ハナと同じ黒いとんがり帽子と黒いローブ姿。とんがり帽子の下からは、紫色の髪と闇のなかで禍々しくも映る赤色の瞳が覗く。口元に浮かべた笑みは、片側だけが吊り上がってどこか皮肉っぽい。

 ハナは、居並ぶ魔女たちを見回した。ハナを含め、全部で七人。ハナの思い浮かべる顔触れに、あと一人届かない。

「……エトワールは?」

 ハナは訊ねた。

 エトワールはハナやシュネーと同期の魔女だ。彼女の星の光のような優しさと、そこに秘められた力強さが、どれほどハナたちの希望になり、皆を導いてきたか。ハナはどれほど時間が経っても、はっきりと覚えている。

 しかし、ハナの言葉に瞬時に応える声は、なかった。

 その意味するところを無言のなかに捉え、ハナのなかにじんわりと影が広がる。

「……エトワールは、役目を全うしてこの世を去った」

 重々しく答えたのは、最初に口火を切った紫髪の魔女だった。ファータという名前で、集う魔女たちのなかで最年長の彼女は、ハナたちの先輩に当たる魔女だ。

 「そんな」と、ハナの口から思わず震えた声が漏れる。

「なんだ、シュネーったら言ってなかったの?」

 別の魔女が口を開いた。黒く長い前髪で片目を隠している。もう片方、金色の瞳は猫のように瞳孔が縦に長く裂けていた。集う魔女のなかでもっとも幼い顔立ちをした彼女は、魔女のなかで唯一、白一色の姿をしたシュネーに目を向ける。

 対するシュネーは苦い顔で相手を見返した。

「わたしから言えるわけがないじゃない……」

「それっていつのこと?」

 ハナは誰にともなく訊ねた。場に落ちた沈黙で、自分以外全員がエトワールの死を知っていたことは明らかだった。

「半年前、夏至の直前だったかな」

 黒髪の魔女が、片目でハナを見つめながら言った。

「ルシル」

 シュネーが黒髪の魔女に対し、咎めるように名前を呼んだ。名前を呼ばれたルシルは、冷めた表情をして明後日の方を向く。

 先を続けたのは、ファータだった。

「エトワールの死は言祝ぐべきことだ。しかし、それを伝えられなかったシュネーの気持ちもわかってやってくれ。ハナ、おまえならわかるだろう?」

 シュネーはエトワールの死を知っていて、それをハナに伝えられなかった。それは嫌がらせなどではなく、伝えることでハナが負う悲しみを思えばこそ口にできなかったのだろう。ハナもシュネーもエトワールの同期で、遠い日々を手を携えて乗り越えた仲間だったのだから。

 ハナはシュネーへ向き直った。

「大丈夫、シュネー。わたしなら大丈夫だから」

 そう言いながら、「本当に大丈夫なのだろうか?」とハナは自分の胸に問う。ハナの心は、大切な人の死を知らされて相当荒れているはずだった。しかし、周囲に仲間の魔女が集い、その死を皆で分け合っていると思えば、心は静かにその事実を受け容れられているようにも思えた。

 もっと孤独な状況で、エトワールの死を告げられていたなら、自分はいったいどうなっていただろうか? ……考えたくもない。

「始めてください、魔女夜会を」

 ハナは魔女たちを見回して言った。皆、過去に手を取り合ってから、もう何百年と見知った顔だ。初めに魔女夜会が開かれてからのことを思えば、その数は格段に減って、もう残り僅かになってしまっていたが。

 ハナの視線を受け、年長者のファータがゆっくりと頷き、宣言の声を上げる。

「よろしい。魔女夜会をここに開催する。まず初めに、ほかでもないエトワールのことだ。……今年、我らが朋友がまた一人、役目を終えて眠りに就いた。親しい人々に見守られ、安らかに逝ったと聞いている。彼女のためにしばし祈ろう。死後の世界が、我らが朋、エトワールにとって楽園であるように」

 ファータの声が終わるかどうかのうちに、ハナはそっと目を閉じた。

 エトワール。わたしたちの希望の星。

 古びていくハナの記憶のなかで、彼女の存在はいつも明るい光となって灯っている。去年までは当たり前のように魔女夜会で顔を合わせていた。

 魔女夜会から一人また一人と魔女が消えて行くたびに、それがいつか我が身にも訪れるかもしれないと思いながらも、逝くのは自分のほうが先だろうと、どこか楽観的に構えていたのかもしれない。あれほど多くの時間があったのに、残される側の喪失など考えたこともなかった。

 ハナは目を開け、月のない空を仰いだ。満点の星々が、様々な色の宝石のように濃紺の空を彩っている。それらがこの夜空から消え去ったとき、すべてを押し潰すような暗闇だけが残るのだろう。

「なぁに? 今さらそんな悲しげな顔してさ」

 湖の上に浮かぶルシルの姿が、興味深そうな視線をハナに向けて言った。

「わたしたち魔女は、この世界からいつか根絶されるべき存在なんだよ。わたしたちが存在しているだけで、この世界はいつか同じ過ちを繰り返すかもしれない。だから、魔女が減ることは世界の存続に繋がる、喜ばしいことなんだ」

「そう割り切れるものじゃないでしょう」

 シュネーがルシルを睨み付ける。ルシルも同じくハナたちと同期なのだが、昔から冷めた性格と皮肉のある言葉遣いがシュネーとは折り合わなかった。

「割り切らなきゃ。誰かの死を悲しむなんて、わたしたちにそんな資格はないはずなんだから」

「仲間の死を悼んでなにがいけないっていうの?」

 反論するシュネーに、ルシルは「ふん」と鼻先で笑う。

「そういえば、シュネーは不思議な考えの持ち主だったよね。魔女の歴史を後世に残すだとかなんとか……」

 シュネーの顔にさっと赤みが差すのが、遠目にもわかった。

「ルシル、そこまでになさい」

 溜め息まじりに告げたのは、ファータだった。ほかの魔女たちも、ルシルとシュネーのやり取りを、呆れ半分の顔で眺めている。顔を合わせれば互いに噛み付き合う二人なのだ。

 ファータが滔々と告げる。

「魔女の処遇については、大戦の終わりに取り決めがなされている。新たな魔女を『生産』することなく、現存する魔女の『終わり』を静かに見守る……我々はそれに従うが、心の自由までも束縛されたわけではない。仲間の死を悼むことは禁じられていないし、こうして集い、議論をすることも許されている」

 静観していた魔女たちは一斉に頷いた。ルシルは苦虫を噛み潰したように顔を顰め、それから「……申し訳ありません、ファータ」と呟くように言った。

「ハナ」

 ファータはルシルに向かって無言で頷き、それからハナへ呼びかけた。

「はい」

「エトワールのこと、おまえに無理に告げずとも良いとシュネーに勧めたのはわたしだ。おまえは感じやすい。エトワールを亡くしたおまえが、地の底よりも深く沈むだろうことは見えていたし、なにより、人々から殊さら距離を置くおまえには、その心を立て直すための精神的な支えが足りないと案じたのだ。だから、最終的にこの場で告げると決めた。すまなかった」

「いいえ、わたしが不甲斐ないばかりに、ご心配をおかけしました」

 ハナは湖上に浮かぶ魔女たちに、頭を下げた。

「ハナ、わたしたちは独りじゃないよ」

 魔女の一人が、ハナの頭上から優しい声を降らせた。ハナは目頭が熱くなるのを感じる。

 何百年、共に過ごしてきた仲間たちにとって、ハナの考えることなどすべてお見通しなのだ。ハナの心に根差した、深い孤独も。

「さあ、顔を上げて、ハナ。魔女夜会を続けましょう」

 シュネーの華やいだ声につられるように、ハナは伏せた顔を持ち上げた。涙が一筋、目から溢れて頬を伝う。それを拭いもせず、ハナは湖上の景色を眺めた。通信機の光のなかに浮かび上がる仲間たちと、その頭上に降り注ぐ満点の星々。

 一人、ハナにとってかけがえのない存在がそこから欠けてしまった悲しさはあるけれど、欠けていない六人がハナを見ていてくれる。

 この美しい光景を記憶に焼き付けようと、ハナはしばし瞬きをやめて、視界に映るものすべてを食い入るように眺め続けた。

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