第7話 秋は夕暮れ――茜と金色の幻
ハナは夕暮れ時に村を辞した。
泊まっていかないかと誘われるのを、「枕が変わると眠れないから」と適当な理由をつけて断り、村と森の境目まで見送りを受けて、一人、家路につく。太陽はもうかなり西に傾いている。少し早足で戻らないと、空が明るいうちに家まで辿り着けないかもしれない。秋の夕暮れは美しいが、空が茜に染まったと思えば、すぐに夜が来る。
村と森の境界線には特になにがあるわけでもない。しかし、その一線を越えた瞬間に、ハナの耳を森の静けさがつんざいた。賑やかな音があるのが当たり前の世界から急に静寂のなかへ入り込むと、耳が圧迫されるような錯覚に陥る。まるで、魔女の短い不在を森が責めてでもいるかのように。
ハナはその錯覚を打ち払うように頭を降る。
何度も村と森を往復しても、この感覚はいつも初めてやって来るような顔でハナに覆い被さってくる。森に住むハナにとって森の静けさ、密やかな賑わいのほうこそに馴染みがあるはずなのに、村からの帰り道はなぜかいつも、森に拒まれているような気がしてしまう。
だからといって、村で多くの人に囲まれているのも息が詰まる。村人たちと話しているのは楽しいし、彼らの温かさに心が救われもする。それでも、あのなかで毎日を過ごすことはできない。数日程度なら良くても、いずれきっと心身が軋みを上げて拒否するようになる。
「どこに行ってもまるで他人」
ハナは投げやりに呟いた。一緒に大きな溜め息が漏れる。
こんな生活が、あとどれだけ続くのだろうか。
秋の侘しさが際立つようになった森の道を、家のある湖畔を目指して歩いていると、前方の空から黒い影がハナに向かって舞い降りてくるのが見えた。ムニンだ。
ハナの目線の高さまで高度を下げ滑空しながらやって来て、ハナの伸ばした腕に吸い込まれるようにぴたりと着地する。金色の目がハナを見上げた。
「お出迎えありがとう。ただいま、ムニン」
カラスは首を傾げる。「おかえり」とハナは心のなかで翻訳する。
「ずっと待っててくれたの? 寒かったでしょう」
家を出るときは室内に残してきたし、鍵もしっかりかけてきた。それでもムニンは時々家を脱走することがある。どうも屋根裏かどこかに、カラスが出入りするのに良さそうな穴が開いているらしい。
脱走といっても、使い魔であるムニンはハナの元へ必ず戻ってくるので特に不都合は感じていない。ムニンにはムニンの考えがあるのだろうと思ってハナは放任している。
それに、こうしてお迎えにも来てくれることだし。
「エリンの子は双子の女の子だった。太陽のように明るく元気に育つようお祈りしてきたよ。きっと、あっという間に大きくなるんだろうなぁ」
ムニンの金色の瞳を見ながら話すと、耳の圧迫感はそっと引いていった。
「今日、久しぶりに双子を見て、やっぱりわたしも双子だったのかなって思っちゃった。双子ってなんだか憧れるというか、心惹かれるんだ。自分と切っても切り離せない存在がいるって感じがする」
ハナが家族について覚えていることはほとんどない。時間が経ち過ぎて、今までに起こったたくさんのことが、家族のいた頃の記憶をすっかり上書きしてしまったのだろう。
それでもはっきり覚えているのは、繋いだ手と交わした声。その手が、当時のハナと同じ年頃の子供のもので、交わした声は子供と大人の中間のような女の子のものだった。声がなんと語ったのか、その意味は今となっては汲み取れない。ハナが今話している言葉とは違うものだった。恐らく、当時のハナはその意味をしっかり理解していたのだろうが、今のハナにはもう理解するすべもなかった。
「ねえ、ムニンはどう思う?」
ハナはムニンの金色の瞳を見つめる。金色の光に、黒い影のような姿。カラスは本当に夕暮れに映えるなとハナは思った。
金色の瞳は、映した空の茜色と木立の影を淡く溶け合わせ、とろりとした質感を醸し出してさながら琥珀のようだった。
琥珀。悠久の記憶を閉じ込める樹脂の化石。
「大丈夫、ずっと一緒にいるよ」
繋ぎ合った手から柔らかな感触と温もりが伝わってくる。まだ子供らしさの抜けない声で、精一杯大人の真似をして、彼女は言う。その顔は、茜と金色の光に呑まれて、輪郭をうっすらと見ることしかできない。
それは、轟々と音を立てて燃え盛る炎。ばきばきと断末魔を発しながら炎に包まれ折れていく木々。
熱風が二人を取り巻いていた。
ハナは、手を握り合ったその子の名前を呼ぼうと口を開ける。けれど、言葉が出てこない。
あなたは、誰――?
「……あれ?」
ハナは目をぱちぱちとしばたいた。次の瞬間、冷たい風が顔面に吹き付けて、いつの間にか前髪の生え際にかいていた汗を一気に冷やしていった。
体が急に寒さを認識して、「くっしゅん」とくしゃみが出る。
周囲を見回すと、既に太陽は沈んで空は藍色の星空に変わっていた。日没を過ぎてそこまで経っていないらしく、星空のなかにほんの少しだけ太陽の光が残っている。
「え? 夜?」
さっきまでまだ空は明るくて、急げば日没までには充分に帰れるはずだったのに。
「……夢? なんだったんだろう、今の……」
唖然として佇むハナの頬に、いつの間にか腕から肩に移動しているムニンが羽毛を擦り付ける。それではたと我に返った。
「そうだね、とにかく今は帰らなきゃ」
森の魔女といえど、夜の森を前に油断はできない。今日は夜歩き用の準備をなにもしていないからなおさらだ。
一刻も早く帰ろうと、ハナは家路を急いだ。
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