第5話 チェス――狐と熊と盤上遊戯
「……ちょっと」
ハナは眼前で繰り広げられる攻防を呆れ顔で睥睨する。
動物がふたり、切り株を挟んで向かい合っていた。片や、ガタイの大きな熊、片や、冬毛に覆われた尻尾のもふもふが魅力的な狐。種類も異なり、捕食者と被捕食者の関係にもなり得る双方は、互いに思案顔で切り株の上に視線を落としている。
「自慢の粘りもここまでか、キツネっこ」
地面の上にどっかりと尻をついて座り込み、前のめりに切り株を眺めるという、あまり熊らしくない居住まいの熊が、唸るように言う。威嚇的ではなく、猫が喉を鳴らすようにどこか満足げな響きだった。
「うむむ、冬ごもり直前なら、兄貴の自慢の頭脳も鈍るかと思ったんだけどなぁ……」
狐は四つ足を揃えて座り頭をもたげ、細い目をますます線のようにしている。
切り株の上には、どんぐりがばらばらと散りばめられている――否、なんらかの法則性を持って並べられている。その法則がどんなものなのか、ハナにはいまいちわからない。
彼らが言うには、それは『チェス』らしい。無論、人間が好む卓上遊戯のチェスのことだが、彼らはそれを自分たちなりにアレンジして遊んでいるのだ。
「馬鹿を言え、冬ごもりだからと勝負を疎かにする勝負師がおろうものか。例え真冬でもねぐらから這い出て相手してやるわい」
「あのぉ……冬ごもりも疎かにしないでほしいんだけどなぁ」
「そんなこと言ったって、下手に起こそうもんなら、寝呆けた兄貴にぺろりと食われちまうのがあっしら小さきものの精々でさぁ。寝た子を起こすな、ってのは至言ですね」
「そうそう、冬眠は真面目にやりましょう」
「俺を子供呼ばわりたぁ、いい度胸じゃねぇか。ほら、これに勝てたら子供呼ばわりも許してやるよ。さっきから手が止まってるぜ」
「まだ続けるんですかぁ?」
ハナの言葉に耳を傾ける様子などさっぱりなく、ふたりの注意は相変わらず盤面と互いの言葉だけだ。
「むむむぅ……兄貴、今日はここまでってことでどうです? ほら、ハナ姉貴もいらっしゃってるし」
「おめぇ、そうやって俺が寝入るまで勝負を引き伸ばして不戦勝狙おうってのが見え見えなんだよ。言っとくが俺は勝負からは一歩も引かないからな」
熊の声が、だんだんドスの効いた低音になっていく。目も据わってきているようで……、
「クマさん、だいぶおねむみたいですねぇ」
据わっているように見えた目は、眠くてしょぼしょぼしているという表現が正しそうだ。現に、ハナがここへ来てからの熊は、言葉の威勢は良いものの、時々かっくりかっくりと首が下がって頭が船を漕いでいる。それを狐がおだてて熊をその気にさせて、勝負を続けているのだ。
狐はただ、熊の様子を観察するのが楽しくて仕方ないのだろう。そのためにわざと盤面を自分の不利にしてみたり、へりくだった態度を取っている……というのは、偏見が過ぎるだろうか。
「兄貴、勝負を続けましょうよぉ」
狐は健気に声をかけ続ける。対する熊は、いよいよ眠気が体の自由を奪い始めているようだ。そもそも冬眠は生き物の本能で、気合だ根性だと言ってみたところで抗えるものではない。
「まったくおまえってやつは……」
呟くように、熊が言った。
「俺、まだまだ兄貴と一緒にいたいっすよ。これから春まで兄貴抜きで耐えてかなきゃなんないなんて、ひ弱な俺じゃとても無理だ……」
狐の声はすっかり湿っぽくなっている。熊の様子を面白がっているのではなく、一緒にいたいから勝負を引き延ばしていたのか、と、ハナは納得する。
泣き言を言う狐に、熊は目を見開き吠えるように言った。
「おまえは昔っからぴぃぴぃぴぃぴぃ弱音ばっか吐いて、そういう気の持ちようが駄目だと何度言ったらわかるんだ」
「そんなこと言ったって、兄貴は産まれたときから俺を守ってくれて、頼れる兄貴で、俺はいっつも兄貴の後ろに隠れるばっかりで……」
熊は大きく溜め息をつき、盤上に傾けていた体を後ろに引いた。
「キツネっこに俺みたいな力を持てなんて言わねぇよ。でも、おまえは智恵が回る。鋭い鼻と、ぴんと張った髭でいろんなものを感じて、先々起こるかもしれないことを俺に教えてくれるじゃねぇか。それに、チェスをしようって、俺らだけのチェスを作ろうって、こんな楽しい遊びを考えたのもおまえだ。おまえの機敏さと頭の回転の速さなら、冬なんかものともしないで越えられるさ」
「だからよ」と熊は続けた。
「俺が寝てるあいだに一回りでかくなって、春になったら自慢しに来いよ。『俺は冬を越えた立派な狐だぞ』って、俺はそれを楽しみに冬ごもりも耐えてみせるからよ」
「兄貴……」
ふたりの動物のあいだで、熱い視線が交わされる。ハナは感動でじわりと胸を温めながら、これでやっと熊も冬眠するだろうとほっとした思いでいると、
「よぉし、そんじゃおまえの気合いを見せてみろ。おまえが俺を打ち負かすまで、俺は眠らんぞ」
ひぇぇぇぇぇぇ、とハナと狐が同じような高い悲鳴を上げた。熊は「大逆転を決めてみろ」と挑発しながら、再び前のめりの姿勢を取る。勝負のスイッチが入ってしまった熊を前に、狐も萎縮してふさふさの尻尾を体に巻き付けている。
「お願いだからもう寝てぇぇぇ」
ハナの願いも虚しく、ふたりの勝負はその後、七日に渡って続くのだった。
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