第4話 琴――魔女と人魚姫
「思ったよりも長丁場になったねぇ」
ハナは頭上の枝にとまるムニンに言った。
牝鹿に声をかけられ、彼らの領内に入り込み出られなくなった栗鼠を救出するために片道二時間をかけて森の奥地へ向かい、鹿の群れにすっかり怯えて枝の上に隠れてしまった栗鼠を説得すること一時間。栗鼠を本来の彼らの住処まで送り届け、そこから湖の畔へ辿り着く頃には、晩秋の短い昼間は既に終わり、薄暮の時間になっていた。
栗鼠は冬眠のための餌を探しているうちにオオワシに狙われ、逃げるうちに道に迷ってしまったらしい。
オオワシは寒さに強く、この北辺地域では渡りをしない数少ない猛禽だ。秋から冬のあいだ、餌となる小動物たちが眠りに就くと彼らの狩りは困難になる。そこに獲物を見つけたのだから、オオワシも執拗に追いかけたのだろう。栗鼠は随分怖い思いをしたようで、ハナと話す間も随分長いあいだ震えていた。
栗鼠は冬ごもりのための巣を既に作り上げていて、ハナは栗鼠の無事を願いながら別れた。栗鼠が冬眠を始める時期は、その年の気候にもよるが、早いものなら一ヶ月も前には準備を終えて巣穴の底に潜ってしまう。これ以上準備が滞れば、寒さも堪えるだろうし、猛禽に狙われる確率も跳ね上がる。かといって、餌が不足すれば冬のあいだ生き延びることができないから、栗鼠も大変だ。
冬眠をする生き物は、冬のあいだ生命維持に必要なエネルギーを最小限に絞り込み、数ヶ月の期間を土の下で過ごす。過酷な冬を生き残るため生命が編み出した知恵だが、眠るといったって、ベッドでぬくぬくして快適に過ごすのとはわけが違うのだ。生命を薄く引き延ばす、とハナは例える。
「冬なんてなくて、いつでも暖かく過ごしやすい世界だったらいいのになぁ」
冬は険しく、そして寂しい。ハナもムニンが共にいてくれなければ、到底この森で冬を生きていくことはできないだろう。
ハナが冬を思ってなんとなく寂しい気持ちを抱えていると、ふと、どこからか弦をつま弾く音が聞こえてきた。
それが人工的な音楽だと、ハナにはすぐにわかった。生き物や草木の生きる音ならば事欠かないような場所で、その音は殊更耳に際だって聞こえる。
「竪琴……?」
ハナは音に誘われるように、湖の岸辺へ向かう。
かくして、湖の北端の小さな入り江に、ひとりの人魚を見つけた。
「あらぁ、綺麗ね」
人魚は若い女性の姿で、凪いだ水面を物憂げに眺めながら竪琴を抱え、まるでその気持ちを物語るように寂しい旋律を奏で続けている。
人魚など珍しいなとハナは思う。この湖は地下で海に続いているらしいと聞いていたが、ハナには確かめるすべもない。しかし、人魚は海に棲む生き物で、淡水の湖や川には棲まないから、彼女はきっと水底の道を通って海からやって来たのだろう。しかし、どうして。
人魚は飽くことなく竪琴を奏で続ける。同じフレーズが繰り返され、曲が何度もループしていることにハナが気づいても、なお音楽は鳴り止まない。そこからは、人魚のこの音楽に対する執着のような感情が滲んでいるようだった。
人魚の奏でる音楽は珍しく貴重なもので、ハナはいつまでも聴いていたい気もしたが、さすがに日没が迫って空気がひんやりとしてくると、ハナは不安に思って声をかけることにした。
「ねえ、寒くない?」
いきなり背後から声をかけたのに、人魚は特に驚く素振りも見せずにゆっくりと人間の上半身を振り向かせた。ハナの存在はしっかりと感じ取っていて、その上で無視を決め込んでいたのだろう。
人魚は弦から細い指を離して、じっとハナを見ている。神秘的な目が、薄暗くなり始めたなかでも青くくっきりと見えた。
「こんにちは、わたしはハナっていうの。見ての通り、この森の調停者をやっている魔女よ」
言いながらハナは、自分の身に纏う黒いワンピースやマントの裾を手で持ち上げてみたり、被ったとんがり帽子を指さしたりして見せる。人魚は無表情のまま、その手の動きを目で追っていた。
「あなたに会えて嬉しいわ。素敵な音楽ね」
人魚は少しだけ微笑んだように見えた。それも一瞬のことで、ハナの目の錯覚だったかもしれないが、そうでないのだとしたら、音楽を褒められたことを喜んでいるのだろうか。
「ここが気に入ったのなら、しばらくいてくれて構わないわ。竪琴も好きなだけ弾いて。でも、もうひと月たらずでここは冬になるの。この湖も凍ってしまうから、そうしたらあなたは仲間の元へ帰れなくなってしまう。そのことは覚えていて。長く留守にしたら、きっと仲間もあなたを心配するでしょう?」
「仲間」とハナが口にした途端、人魚はふと顔を伏せた。それからまたハナに背中を向けて、また湖に向かって竪琴を奏で始める。
それが、仲間の元へ帰れないことを暗に語っているのだと、ハナには悟った。
「……また、あなたの元へ来てもいいかしら?」
ハナは訊ねる。人魚はその声が聞こえないかのように、一心に旋律を繰り返す。
否定のないことは肯定と受け取ろうとハナは決め、踵を返して入り江から離れた。ムニンがハナの肩にとまりハナの顔を不思議そうに覗きこんできたので、ハナはムニンに微笑みかける。
「複雑なのよ、人魚姫はね」
人魚は海に棲み、その音楽は歌がもっぱらで器楽はやらない。彼女の奏でていた竪琴の音楽は、ハナにも耳に馴染む、つまり人間の作った音階による音楽だということだ。
あの人魚の女性は、きっと竪琴を人間から譲り受け、その人間から音楽の手ほどきを受けたのだろう。そのことと彼女が仲間の元へ帰れないことには、きっと繋がる理由がある。
だから彼女は仲間の元を離れ、わざわざ水底の道を遙々旅してこの湖へやって来たのだろう。ならば、今の彼女に必要なのは、思う存分に音楽を奏で、心に整理をつけるまで静かな時間を与えてあげることだろう。この湖は、今の彼女にきっとふさわしい場所だ。
そういえば、人魚姫の悲劇の一端を担ったのは海の魔女だった。
おとぎ話の魔女は、ときに叡智を授けるが、その叡智ゆえに悪い結果をおびき寄せることも多い。魔女と聞いて思い浮かべるのは、どうしても善よりも悪だ。
もっとも、あの人魚姫の足は人間ではなくちゃんと魚の鰭の姿をしている。喋らないとこは似ているが、おとぎ話ほど深刻な状態ではなさそうだ。
「海の魔女は人魚姫にちゃんと警告をしたわ。彼女の強い思いを前に禁忌の薬を差し出さざるを得なかった、我が儘なお姫様に振り回される魔女こそ被害者だって言えなくもないんじゃないかしら」
背後から追いかけてくる物憂げな旋律に、ハナは少しだけ怒りを感じてしまう。いつだってそう。愚直に向こう見ずに、自分は正しいと突き進んでいく者にとって、叡智と道理をもって道を説こうとする魔女は目障りな存在なのだ。でもきっとそのことを知っているのは、魔女として辛酸を舐めた経験を持つ者だけだろう。
そうでないならきっと、ハナの人生は大きく変わっていたはずだ。
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