第3話 落葉――落ち葉の森のパトロール
朝食を手早く済ませて外へ出ると、完璧に保温された室内とは打って変わって冷たい空気がハナとムニンを包み込んだ。
「さぁむぅぅぅ……ずっと家にいたいねぇ、ムニン」
ハナの肩にとまるムニンも普段のほっそりした姿から、羽毛をぶわりと立たせて見た目の大きさが倍増している。
よく晴れた朝ほど、森の気温は下がる。空に輝く太陽も夏場に比べれば随分と遠くにあるように見えて、日中もさほど地表を温めてはくれない。これからの季節、太陽はなおさら遠のき、空にいる時間もどんどん短くなっていく。
「今日は北のほうをパトロールしようか」
ハナの仕事は、北辺の森の平穏を守ること。その仕事には一日たりとも休みがない。サボっても誰に咎められるわけでもないのだが、サボったらサボっただけ、森のどこかで育っているトラブルの種の発見が遅れて、そのツケは結局ハナの元へ必ず巡ってくる。だから、どんな日でもパトロールは欠かすことはない。
秋の門が閉めて一段落しても、まだ冬眠ができなかったり何かしら問題を抱えた動物や植物たちがいるかもしれない。何せ、森は広く、そこに棲む生き物たちの数は計り知れない。どんなに小さな存在でも、小さな声でも、掬い上げて耳を傾けるのがハナの仕事だ。
家の前に広がる湖は、晴れ空の色を写して一面薄い青色をして凪いでいる。ハナの家は湖の南に面しているので、湖の東側を回りこんで北へ向かうことにした。まっすぐ北へ向かうなら、桟橋に舫いだ小舟を使う方法もあるのだが、パトロールではできるだけ遠回りの道を選んで、より多くの場所を見回ろうと決めている。
魔女のアイデンティティとも言えるとんがり帽子が風に飛ばないようかぶり直し、さらに右手には木から削り出した長杖を握り、ハナはパトロールを始めた。
秋の門が閉じてから、めっきりと静かになった。風も、生き物たちの声もまったく絶えてしまうことはないが、それでも、たくさんの生き物がひしめき合って賑わう春や夏に比べれば、秋の終わりはずっと静かになる。今年は春も夏も天気が安定していたおかげで、植物の健康状態もすこぶる良好だったし、おかげで冬ごもりする生き物たちは食料集めに難儀せずに済んでいるようだ。天候の不順は多くの生き物たちにとって文字通り死活問題だから、そこに頭を悩ませなくて良いというのはありがたい。
しかし、大多数にとって問題がないことと、問題が一つも、まったくないことは違う。大半の生き物が冬の備えを終えていても、それができないでいるものが森のどこかにいるかもしれない。豊かな森であっても、生き物の世界には少なからず生存競争があり、勝って生きるものがいれば、負けて去るものもいるのだから、その大原則は魔女であるハナにさえどうしようもない。
それでも、少しだけ手を貸すことで、あと一歩のところを生きられるものがいるなら、ハナは助けてあげたいと思う。
だから、ハナにとってこの時期のパトロールは少しだけ特別だ。秋の門の開いていて生き物が活発に動いている頃よりも、閉じた後のほうが、それまで隠されていたさまざまな事象が、この狭間の時間のなかで浮かび上がってくるからだ。
湖の畔を一時間ほどかけて進むと、ようやく湖の北端にさしかかる。このあたりまでは、ハナの家からも近く常に目が届くので、異常らしきものは見つからない。ハナは湖の畔を離れて進路を真北に取り、木々の密集する奥地を目指して進んだ。
湖のある場所までは、ハナが家があることもあって時折訪れる人間がいるが、ハナの家と一番近場の村を結ぶ以外には、道らしき道はどこにもない。魔女といえど基礎は人の体と同じ作りをしているから、道なき道へ分け入っていくのは慣れていても大変な作業だ。
夏には青々と茂り空を隠していた枝葉たちは、今は赤や黄色に染まってかなりまばらになっている。落葉がかなり進んで、落ちた葉を踏むと、ブーツのくるぶしの辺りまで埋まってしまう。ハナが進むのに難儀しているのを、ムニンは頭上の枝を飛び移りながら見守っている。
「わたしはカラスになりたい……」
ムニンの余裕綽々な姿を恨めしく思いながら進んでいると、遠くから同じようにガサガサと落ち葉を踏む足音が聞こえてきた。動きはゆったりとしているが小気味よく、音からしてそこそこ大きな動物がいるようだ。向こうの足音の主もハナの存在に気づいているのか、足音は軽やかに真っ直ぐ近づいてくる。
ハナが音のほうへ視線を向けると、木々の隙間を縫ってひょっこりと顔を出したのは小柄な牝鹿だった。
「やっぱり、ハナちゃんだわ」
牝鹿が鼻をひくひく動かしてそう言った。
「あらぁ、シカさんこんにちは」
ハナは顔を上げ、帽子の位置を正しつつ挨拶する。
鹿は警戒心が強く、ハナの前にもなかなか姿を見せないのだが、たまにこうして愛想良く声をかけてくれるものもいる。普段は群れを作って、ハナですら辿り着けない北の奥地にいることが多いのだが、今日は木の実でも食べに来ているのだろうか。
「こんなところで珍しいねぇ」
ハナが言うと、牝鹿は「実はね……」と深刻げに切り出してきた。余談だが、牝鹿の話し方はどこか中年の、井戸端会議に興じる奥様方の雰囲気に似ている。
「どういうわけか栗鼠ちゃんが一匹、わたしたちの住む所に迷い込んで来ちゃったみたいで。ほら、あのあたりには小川があって栗鼠ちゃんは渡らないでしょう? たぶん、大きな鳥かなにかから逃げたりしてるうちに無我夢中で渡っちゃったんだろうけど……。栗鼠ちゃんのほうも、わたしたちのことを見慣れないから怖がっちゃって、帰るのを手伝ってもあげられないし。それで、あなたの所へ行こうと思ってたのよ」
ハナは「なるほど」と頷いた。森の生き物たちは、時々こうしてハナの元へトラブルを知らせてくれる。パトロール中に呼び止められることが大半だが、今回はわざわざ自分たちの住処から出てきて、遙々訪ねてくれるところだったらしい。
「わかった、行くわ。案内してくれる?」
「ええ、付いてきて」
牝鹿は早速とばかりにくるりとお尻を向けて、すたすたと歩き出す。長い四本の足は落ち葉の障害を者ともしない。その後ろをハナが必死で追いかける。本当に、人間の体は森で生きるのに適していないなと思う。
「あの、もし良かったら近くまで背中に乗せてくれたり……」
牝鹿はあたかも首を振るように尻尾をぶんぶんと左右に振った。
「……よね……」
動物は体の触れ合いには敏感なものだ。人間だって、初対面の相手に体を触るのを許したりはなかなかしないのだし、警戒心旺盛な草食動物ならなおさらだろう。牝鹿がハナに気軽に声をかけてくれるのは、最大限の譲歩なのだ。
人間はなんでも、自分の思い通りになると思い込む傾向がある。そうではないことを常に肝に銘じておかなければならない。人間以外の生き物が主役になるこの森でなら、なおさらのことだ。
「謹んで、歩かせていただきます……」
鹿たちの棲む小川の辺りへは、ハナの足で優に二時間はかかる距離だ。牝鹿は恐らくハナを気遣って速度を落としているが、それでもハナが小走りになるくらいには速い。
途中休憩は許されるだろうかと不安に思いつつ、ハナは次の一歩のために杖で落ち葉を突いた。
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