第2話 吐息――夜明けの一撃

 魔女の住む家は静けさに満ちている。窓を覆うレースのカーテン越しに、うっすらとまだ暗い光が差し、室内をわずかに照らし出している。

 部屋の真ん中には食卓があり、対面するように椅子が二つ。食卓は二人がけにはやや大きく、四人程度なら余裕を持って座れそうだ。しかし使われている座席は一つだけのようで、もう片方の椅子の上には本や衣類がアンバランスに積み上げられ、なんとか倒壊せずに異様な姿を保っている。

 食卓の中央には、ステンドグラスの傘と真鍮の体を持つ卓上ランプが場所を占め、その傍らにパンやチーズ、それらを切るための小刀を載せた大皿があり、透明な硝子の蓋が被せられている。

 さらに大型の本が三冊、しおりを挟んだ状態で重ねて置かれているのと、糸でかがった白紙の束と硝子のペン、インク壺が見て取れる。椅子の一つが荷物置き場になっている反面、卓上はまだすっきりとしていて、秩序を保っているようだった。

 食卓から壁のほうへ視線を移すと、天井から床まで一面の書棚が威圧感を放っている。びっしりと収められた本は分厚く頑丈そうな装丁のものが多く、背表紙が色褪せ劣化したものから、インクや糊の香りの立ち昇りそうな新しいものまで、特に法則もなさそうに入り交じっている。書棚の下のほうは観音開きの戸棚や引き出しになっていて、中身を窺うことはできない。

 書棚を前に見て右手の方には、隣のくりやや水回りのある棟へと続く片開き扉がある。

 その右側には、作り付けのクローゼットの扉が開け放されていて、狭い空間に洋服がすっきりとぶら下げられている。モノトーンのものが大半で、なかでも黒一色のワンピースが幾つも並んでいた。どれもローブのようにゆったりとしたシルエットのものだ。

 クローゼットのある部屋の一角は衣類収納や身繕いの場になっているようで、他に腰丈のチェストや小振りなドレッサーが集められている。チェストの上には同じ形のとんがり帽子が三つ並んで置かれていた。まったく同じように見えて、よくよく見てみれば、裏打ち布の色味が三つとも異なっている。

 チェストから視線を横にずらしていくと、室内で一番大きな窓にレースのカーテンがかかっている。部屋をぐるりと見回すあいだにも、外から注ぐ光はどんどん明るくなっていく。夜明けが近そうだった。

 そのカーテンの下にはベッドがあり、色とりどりの毛布が何枚も重なって盛り上がっていた。枕の上に白い髪を蒔きながら、この家の主である魔女が安らかな寝息を立てている。目鼻立ちは大人と子供の中間、まだ十五、六歳程度に見える。楽しい夢を見ているのか、時折口角が吊り上がり、「ふひひ」と笑い声のような吐息が唇の隙間から漏れる。

 そして、そんな住人の眠りを見守るように、ベッドからさらに右手、玄関口付近の高い止まり木の上からカラスがじっと金色の眼差しを注いでいた。

 カラスは微動だにせず眠る少女を見つめている。室内で変化していくのは、枕元に置かれた時計の針の位置と、部屋を照らす明かりの光度だけ。やがて、時計の針が7時26分を指し示す。今日の日の出の時刻だ。

 分針が僅かに動くや否や、カラスはばさりと羽を広げた。狭い室内では、羽を広げるだけでカラスの存在感は一気に大きく増して見える。次の瞬間、まるで梟のように羽音一つ立てずするりと止まり木を離れ、ベッドに眠る少女の元まで一直線に滑空した。こんもりと盛り上がる毛布に着地すると、ぴょんぴょんと両足で跳ねながら少女の顔の近くまで移動する。

 そして――、

「っいぃぃぃででででででで!!!!」

 幸せそうに眠る少女の頬を、太い嘴の先で容赦なく抓り始めた。

 悲鳴を上げながら少女はその場で身もだえ、手を振り上げて顔のあたりをがむしゃらに払う。しかしカラスは軽やかに跳ねたり飛んだりして腕の攻撃を交わしながら嘴の攻撃を顔に向かって加えていく。

「わーわーわかった! わかったから!!」

 とうとう少女が目を開け、がばりと体を起こした。カラスもそれでようやく執拗な攻撃をやめて、ベッドの真ん中あたりまで後退し、少女の顔を見上げた。

 叩き起こすならぬ抓り起こされた魔女――ハナは目にうっすらと涙を浮かべながら抓られた頬をさすり、カラスを見下ろす。金色の目が満足そうな光を湛えているのが実に憎らしい。

「ムニン、もうちょっと優しく起こしてっていつも言ってるでしょう?」

 ハナが抗議するが、ムニンは首を傾げたり明後日の方を向いたりして、その意向に添う気がないことは明らかだった。「そもそも自力で起きないのが悪い」とでも言いたげだ。ハナの口から「はぁぁ」と大きな溜め息が溢れる。

 ハナが完全に眠りから覚醒したことに満足したのか、ムニンは今度は食卓へとひとっ飛びに向かい、そこからハナをじっと見つめた。朝ご飯を要求しているのだ。ハナの溜め息がまた一つ。

「わかった。顔洗って、スープ温め直してくるから待ってて」

 ハナは柔らかな毛布の感触を惜しみながら、足を床に下ろし、スリッパをつっかける。部屋は暖炉がなくても暖かいから、布団から出ても寒さに震えることはない。魔女の生活の知恵が家のあちこちに活かされている、そのうちの一つが室内の温度の適温化だった。そうしなければハナもムニンもこの森では生活していけない。

 ハナは目元に滲んだ涙を拭いながら、スリッパの底をぺたぺたと鳴らして厨のほうへ向かう。その途中「あ」と、ムニンのいる食卓のほうを振り返った。

「おはよう、ムニン」

 カラスはそれに応えるように首を傾げた。

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