魔女の棲む森

とや

第1話 門――過ぎゆく秋と魔女とカラス


 

 湖面を漂う水鳥たちが、早朝からかまびすしく鳴き立てていた。秋の渡りを促すその声は互いを鼓舞し合うようで、それでいて過酷な旅を思い慟哭しているようにも聞こえる。やがて、朝靄に煙る森の静寂をつんざきながら、水鳥の最後の一団は大空へと舞い上がっていった。

 湖に突き出した桟橋の先端に立ち、ハナはそれを見守る。顔を上向けると、湖の真上にはぽっかりと、秋の薄い色をした青空が見えた。その青との対比も鮮やかに、周囲には紅葉あるいは黄葉真っ盛りの落葉樹が広がる。ひしめく木々の頭上を越えて、水鳥たちの姿はすぐに見えなくなった。

 夏のあいだ森を賑わせていた水鳥の声も絶え、この北辺の森の秋はいよいよ極まった。

 空から注ぐ鳴き声の残響が遠ざかると、ハナは湖面に向けていた身体を翻した。黒染めのワンピースの裾と二つに結った白色の髪を、湖面を渡る寒風がふわりと舞い上げる。頭に被った黒いとんがり帽子が風に掠われないよう、黒手袋をした手で押さえるのも忘れない。

 桟橋を渡りきったところで、ハナももとへ一羽のカラスが飛んできた。ハナは腕を差し出して、黒い鳥のための即席の止まり木を拵える。カラスらしからぬ羽音のない飛び方で、彼女はハナの腕に着地した。間近に見るカラスの瞳は、不思議な金色をしている。その瞳を見つめて、ハナは彼女へ語りかけた。

「さぁて、秋の門を閉めにいこう、ムニン」

 鈴が弾むような可憐な声音で語るハナに対し、ムニンは無言のまま視線を合わせることで答える。

 ムニンは魔女であるハナの使い魔だが、ハナは彼女の鳴く声を未だかつて聞いたことがない。使い魔のなかには魔女と言葉でコミュニケーションを取るものもいるが、基本的にはその特性は様々だ。言葉を交わせるか否かも、魔女との関係のあり方も、それは当人たちだけのオリジナルで、他と引き比べることはできない。

 ハナはムニンの沈黙を不快に思ったことはなかった。彼女は口以上に饒舌に語る金色の瞳を持っている。その瞳を見つめることは、ハナにこの上ない安心感と友愛を情を齎した。

 

 北辺の森の魔女であるハナの役目はこの地の平穏を守ることだ。そのため、人里からは離れ、森の奥地にある湖の畔に一軒の家を築いてそこに寝起きしている。それでいて、たまに呼ばれれば人里へ出向いて占いやまじないを人びとに施して対価を得てもいた。

 生きとし生けるものが本来持っている自然のペースに合わせて生きていくのは、ハナにとって自由気ままな余生のようなものだった。人の暮らしは時間の流れがめまぐるしすぎて、今となっては到底ついていけない。

 だが、のんびりしているように見えて、ハナはハナなりに忙しくもある。森の平穏を守る調停者として、森の生き物同士でいざこざがあれば出ていって穏便に解決しなければならないし、今朝のように、なかなか南国へ渡りたがらない水鳥の渡りを促したりして、森の季節が先へ進む手助けもしなければならない。

 渡りを行う鳥のなかにも、その気質が希薄なものや臆病なものがいて、自らの渡りの本能を忘れていたり忘れようとしたりする。遠い南国を目指す旅は長く険しいから、臆する気持ちが本能を上回ることだってあるものだ。それでも、彼らはこの地では冬を越せず、繁殖することもできない。だから例えそれが過酷な道行きでも、ハナは彼らの渡りを促し続ける。

 今朝飛び立っていった水鳥の最後の一団も、ハナの説得を受けてようやく心を決めた。自らの運命を受け容れる心の用意を整えたのだ。ハナは最後に彼らに旅の無事を祈るまじないを施した。きっと南国へ辿り着いて、またたくさんの仲間たちと暖かな冬を迎えていくことだろう。

 ハナは湖に背を向け、紅葉しながら葉を散らしていく森のなかへと向かう。

 朝露に濡れた落ち葉は幾層にも重なって、ハナの足の裏で、ふかふか、ぱきりと音を立てる。枯れて土に落ちた葉は、歳月をかけて土の養分になり、次の世代の樹木を育てる。

 ハナは長い時間をこの森と共に過ごしながら、若木の芽吹きやその凄まじい生長をつぶさに見守っている。それでも、森はハナよりずっと長生きだ。何百、時に千年を数える老大樹たちに比べれば、ハナはとても幼くちっぽけな存在だ。

 森によって生かされているのだと、ハナはいつも思う。

 

 森には四つの『門』がある。実際に建造物がそこにあるのではなく、『門』と呼ばれる空間が森のどこかにある、と例えるのが良いだろうか。

 秋の門は、湖からさほど遠くない小高い丘の上にあった。頂上からは湧き水が出て、緩やかな坂を細く清涼な流れを作って湖の方へと下っている。ハナはその流れに添って丘を登っていく。

 次第に木々の姿がまばらになり、足元はごつごつとした大きな岩が目立つようになる。道らしき道が絶え、滑らないよう気を付けながら岩の上を伝い歩いて行くと、やがて岩と岩の隙間から湧き水の出る場所に辿り着いた。丘を下っていく流れの源だ。そしてそこに、秋の門があった。

 門はいま開いていて、湧き水と共に金色に似た淡い光が溢れ出すのを見ることができるが、閉まっているときには門の気配は一切消えてしまう。ここにある、と知っていなければ、そしてその存在を感じることができなければ、この森の、引いては世界のあちらこちらに存在する季節の門を知覚することは誰にもできないだろう。

 ハナは不安定な足元に気を配りながら岩を伝い歩き、門の前に立った。

「おつかれさま。また次の年までおやすみなさい」

 そして、ゆったりと波打つように溢れる光に手の平で触れる。

 途端に、目の前から光が消え、耳元から音が消えた。

 秋の門が閉じ、森を満たしていた秋の気配が去ったのだ。この一瞬ばかりは、ハナの胸のなかに喪失感が漂う。ハナたちを取り巻いていた大きな存在が、突然消えてしまうのだから。

 しかし、すぐに気持ちは切り替わった。

「はぁぁぁ、やっと終わった!」

 肩に乗るムニンのことなど無視して、ハナは両手を思いっきり上空へ掲げ、伸びをする。慌てて肩から飛び立ったムニンが、非難するように大きな羽音を立てた。

 秋の門が閉まるということは、取りも直さず、ハナの秋が終わったということだ。

 なにせ秋は忙しいのだ。水鳥の渡りに獣たちの冬眠までの世話したり、果ては寝付こうとしない、つまり落葉しようとしない落葉樹の体調を診たりと、圧倒的な存在である冬を前に、とにかく短期間であらゆることを推し進めなければいけない。秋の閉門は、それらが一段落したことの合図だった。

 これから一ヶ月ほどの移行期間を置いて、今度は冬の門が開かれる。その空白の一ヶ月が、魔女であるハナにとっては悠々自適の休暇に当たるわけだ。

「まあ、本当は休暇なんてなくても、時間なら有り余るほど持っているんだけどね」

 そう独りごちて、ハナは丘の上から鮮やかに染まる森を眺めた。

 この一ヶ月、ここでなにをしようか。そして、なにが起こるだろうか。そう、思いを馳せながら。

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