第十三輪 『そして少女は返り咲く』
「ははははははははははははははははははははははははははは」
意識だけが笑っていた。
「ははははははははははははははははははははははははははは」
自分を嗤っていた。
「ははははははははははははははははははははははははははは」
救いようが無い自分を嘲笑っていた。
目が無ければ良かった。そうすれば、
口が無ければ良かった。そうすれば、そもそも彼女に想いを告げること無く、口づけを交わすことも無く、無駄に格好を付けたことも言わずに済んだ。
耳が無ければ良かった。そうすれば、彼女の返事を聞かず、優しく名前を呼んで貰わなくて済んだ。
腕が無ければ良かった。失くしても彼女を守れなかったのなら、元から必要無い。それに、今の自分に咲螺を抱く資格など無い。
紅母は実の娘に結人を奪われずに済み、輝優を招き入れた貴族の令嬢は歪んだ性癖に拍車をかけずに済み、輝優を引き取った施設の者達は恐怖せずに済み、街の溜まり場や店の者達は惑われずに済み、輝優を雇ったこの店で働く者達は彼女の奴隷にならずに済んだ。
偽っただけでも駄目だった。存在自体が誤っていた。
輝くような優しさを持って。
目が眩んでしまうほどの輝きと優しさを持ってしまったから、大勢の人を不幸に陥れてしまった。
咲螺の名を呼ぼうとして、辞めた。この際、いっそのこと、もう辞めてしまおう。
受け入れてくれる人がもう居ないのなら、きっと誰も咎めやしない。
運が良ければ、逃げた先で彼女と会えるかもしれない。
もっとも、その資格さえ無いが。
「──意気地なし」
それは、最初からだった。
「わたしが好きになった先輩は、身体を張ってわたしを守ってくれた」
騙していた自分に騙されていただけだった。みっともない蛮勇と慢心が、咲螺を死なせた。
「わたしは、先輩に殺されてなんかいませんよ」
捉え方によってはそうなる。だから、早く忘れて欲しい。終わろうとしている自分に、もう希望は要らない。
「自分から好きだって言っておきながら、それは無いんじゃないんですか?」
その通りだ。だからこそ、無責任な愛は傾けるべきではなかった。彼女が輝優のそれを散々偽物だと言って認めなかったのも、今なら納得がいく。彼女をこれ以上、偽物に付き合わせる必要は無い。
「でも先輩は、本当の気持ちを見せてくれた」
無力で無残で無様な紛い物の成れの果てだ。いざ蓋を開けてみれば、中身は空っぽで虚無だけが残っていただけだった。
「先輩を受け入れた、わたしの気持ちを勝手に否定しないで下さい」
心が、酷く痛んだ。
無責任に気持ちを振り撒き、好きな人に好きという気持ちを押し付けて強要した自分が、世界の何よりも悪辣な存在だと自覚した。
そんな感覚はとうの昔に忘れていたのに。家族を壊してしまったあの日──白母と交わり紅母に捨てられたあの時から、徐々に人間らしい感情は削れていった筈なのに。
「否定、しないで下さい!」
透明な障壁が音を立てて崩れ去り、蒼く澄み渡る大空の下、泣き顔で睨む、大好きな少女と相対する。
「こんな筈、じゃなかったんだ」
「気持ちを分かち合えたのに?」
「こんな筈じゃなかったんだ!」
「……」
「思ったでしょ……? 恨んだでしょ? ウチに身を委ねなければ、心を開かなければ、鳥花の不意打ちを受けることは無かった!」
「でも、抱き締めて、言葉を交わしてキスをしなければ、お互いがお互いを赦したかどうかは分からなかった」
「そんなの結果論だよっ!」
「じゃあ先輩の後悔はどうなんですか!」
「……っ」
「わたしは、後悔なんてしてませんよ」
「どうして……」
「最後を見られて後悔するような人に、心を赦したりなんてしませんよ」
「……強いな、咲螺は……」
「先輩が気にし過ぎなだけですよ」
「……キミには」
「はい」
「キミには、もう会えないのかな……」
「────」
「寂しいよ……」
「────」
「キミに会いたいよ……っ」
「────」
「まだ会って間もない。名前が呼び足りない、まだどこにもデートに行けてない! 話だって……まだまだ話したいことが沢山あるんだ! こんなの、ないよ……」
「先輩……」
「まだ別れたくない! これから先キミと二度と会えないなんて嫌だ! もっと一緒に居たい! もっと抱き合いたい! もっとキスをしたい! もっと肌を重ねたい! もっと……もっと……っ」
「先輩」
「────」
「大好きですよ、先輩」
「……っ」
蒼空は消え去り、気が付けば、無人の荒野に一人、佇んでいた。
勿論、身体は今も咲螺の死体の前で沈黙している。
ただ意識だけが、心だけが、雑草と枯れ花が辺り一面に広がる荒野を、ただ目的も無く歩き続ける。
その先にあるのは、希望か絶望か。否、恐らくそれはどちらでも無い。
無形の花が、そこに咲いていた。
何となしに、それを摘む。そうするべきで、そうあるべきで。
きっと、この花は自分の為に咲き誇っていたのだ。だって、あまりにも美しくて儚過ぎるから。
心の奥底から湧き上がる想いを具現したかのように、その花は美しかった。
無形の花は光と共に、段々と形を帯びていく。ただなんとなしに、感覚で理解したのは、この花が持つ花言葉。
「輝かしい未来……」
どんなに素敵で、どんなに自分に相応しくない言葉だろう。
「咲螺……」
無人の荒野に、存在を掻き消すような風が荒れ狂う。
しかし、消えようとしても、消えることを願っても、風は輝優を消し去ろうとはしない。
輝優は、一輪の花にそっと口づけた。
姿形を成していく花が、世界と呼応した。
不意に、足下に一輪の花が咲いた。
咲螺を介して見た、結晶のような花──ネリネ。
風と共に揺れるそれは、どこか、輝優に向かって微笑みかけている気がした。
その花に魅せられて。その美しさに見惚れて。
ようやく、理解した。
「また、合う日を楽しみに」
ネリネの花言葉を口ずさむ。
手に持つ無形の花は、すっかり形を成していた。
悲しみに明け暮れても、想いが消える訳ではない。
未来を諦観しても、誓いが消える訳ではない。
荒れ狂う風の中、輝優はそっと呟いた。
「待ってるよ。咲螺」
****
暗く、黒く、歪な空間だった。
目の前には、透き通るような川が流れていた。ただぼんやりと、その恐ろしい川の流れをを座って眺めていた。
「私ね。好きな人が居たの」
いつの間にか川の向こうに居た少女は、細く小さな声で言った。
姿形は見えず、あるのは輪郭と気配だけ。
「その人とは、どうなったの?」
目線を落とし、なんとんしに聞いてみた。
「生き別れちゃった。時代も、立場も悪かったから」
微笑んだのだろうと、気配で察する。
そこに哀切の色があることも、何となく分かった。
「辛く、無いの?」
「辛いわよ。凄く……でも、もっと辛いのは、あの子の願いを叶えてあげれなかったことかしら。最初に赦した、あの子と交わした約束」
「あの子?」
「ええ。好きな人との願いを叶える為に、愛を道具として振り撒いて、あの子の心を踏み躙ってしまった」
哀切が後悔へと変わった。
後悔の念に触れ、愛しい者達の貌が脳裏に浮かぶ。
「……わたしも、同じだ」
凛瞳から
彼女のことだけを考えて、他方から向けられた愛を軽んじた。
今となっては咲螺も彼女を心の底から愛しているが、それは、もう。
「いいえ、違うわ。貴女はわたしとは違う」
拒絶の意思を孕んだその答えに、咲螺は眉をしかめる。
「何が違うの? わたしも貴女と同じく、もう大切な人達とは会えないの。もう……死んでしまっているから」
気が付けば、傍らに芽が一つ、現われていた。
「貴女はまだ、花を咲かせられる。私のように、濁ってもいないし、枯れてもいない」
「何を……」
「私も、分からない。大事なことは断片的にしか覚えていない。……けれど、私と貴女は今、ここで出会った」
もう一度、少女の方を見る。
やはり姿は見えず、大きな靄がかかっているような感覚がある。
「その芽は、貴女にとっての希望を咲かせる花となるわ。だから、もう、大丈夫。道のりは長く険しいけれど、その先に私は居るから」
「待って! きちんと説明して! 貴女は何? なんなの⁉」
「貴女はただ、散華の果てに行き着いただけ」
少女の気配がゆっくりと消えていく。やがて、気配は完全に消失した。
──また会う日を楽しみに。
そう、聞こえた気がした。
少女の残滓を見届けて、芽に視線を戻す。芽はすぐに蕾となり、やがて花を咲かせる。
いつしか夢に見た光景が蘇る。
「ヒガンバナ……」
妖しく咲き誇る紅の花。
咲螺は立ち上がって、花の前に立つ。
「まだ、咲くことが出来る」
──まだ、抗える。
「まだ、咲き誇ることが出来る」
──まだ、戦える。
花を散らして失った光──それをまた、この手に取り戻せるのなら。
咲螺は再び立ち上がり、目を瞑る。
そして緩やかに目を見開き、ネリネの紋章を右眼に宿して呟いた。
「──私は、散華の果てに返り咲く」
辺り一面に、無数の彼岸花が咲き誇っていた──。
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