第十ニ輪 『鳥花の嗤い』

 鮮血が、散った。

 

 輝優の腕から飛ぶそれを、鳥花の手首から飛ぶそれを、咲螺は茫然と見ていた。

 

 輝優の持つグラジオラスの短剣の切っ先は鳥花の手首を刺していた。

 その手に持つラベンダーの眼鏡は、柄の片方が針へと変貌し、輝優が短剣を突き立てる手を通り越して腕に突き刺さっていたのだった。


「う、ぐ……っ」


 輝優が微かな悲鳴と共に強く息を吐いた。


「いやだわぁ」


 緩慢に流れる時の中、鳥花が紅い唇を舐めて妖艶に呟いた。

 柑橘の香りが鼻腔に届くと共に、咲螺は自分の目の前で庇うように鳥花と対峙している輝優の後ろ姿を、ただ眺めていた。


「やっぱ、そうなんだ。この感情は、恋ってやつなんだ」

 

 そう言って咲螺の方を振り向いた彼女の貌は、どこか憑きものが取れたように清々しいものだった。

 そこへ、鳥花がねっとりとした口調で口を挟む。


「八方美人の偽者が何を言っているのかしらぁ? 愛と力を渇望する貴女が、そんな小娘一匹に愛されようと正攻法で努力するなんて想像も出来ないわぁっ!」


 眼鏡のもう片方の柄を抜き出し、その先端で輝優の喉を狙う。


「……っ!」


 輝優は再び鳥花と相対し、左手で迫る針を左手で掴んで食い止める。

 

 互いに命を刈り取らんとする交錯が始まった。


「しかし、理解に苦しむわぁ。力を手に入れられなくていいのかしら? 自分の愛を否定してもいいのかしら?」


「あんたが言うように、選択をして決断しただけだ。本当の愛を教わったから、それが分かって、気付いたから……ウチは咲螺を守るって決意した!」


 最後の言葉を、輝優は力強く放った。

 

 咲螺の胸が高鳴った。そして、感じ取った。輝優が放ったその言葉に、偽りなど存在しないことを。彼女は暴力と凌辱による手段としての愛と決別し、心の底からの、本物の愛に、真っ向から向き合っていることを。


「せん、ぱい……」

 

 目の前の背中に向けて呟いたその言葉に、熱が籠もっていたことに気付く。これも、熱のせいだろうか。輝優に感じる温かな胸の鼓動は、熱で火照っているせいなのだろうか。


「決意、ねぇ。青春……羨ましい限りだわ。けれど、崇高なる御役目の前に青臭い美談など必要無いの。私の邪魔をするのなら、今ここで散りなさい」

 

 直後、輝優の右腕に黒紫色が生じた。それはラベンダーの針が刺さる辺りから段々と広く波紋していき、右腕を侵していく。

 鳥花は困惑する輝優に近付き、唇から鼻までを妖艶に舐めとってから口元を歪めて囁いた。


「勘の良い貴女なら分かるでしょう? ラベンダーの花護、その御詞の意味……」

「くそ……」


 輝優の右腕は徐々に力を失っているように思えた。それと共にラベンダーの針は腕を掘り進めていく。


「はい、これでその右腕は『沈黙』を始めたから枯れ果てました。次は右腕……といきたいところだけれど、その前に、貴女には店長の私に逆らい、挙句の果てに御役目の邪魔をしたことへのお仕置きをしなければね」

 

 そう言うと鳥花は右腕に刺さったラベンダーの針を勢いよく抜き、手元で器用に回すと、


「はぁい、ではお仕置きを始めます」


 背後に居る咲螺を目掛けて針を投げた。

 肉が千切れて裂かれる音が鈍く響いた。

 目の前を覆う彼女の右腕からは先より一段と鮮血が流れ出ており、グラジオラスの短剣の切っ先を伝って滴り落ちていく。


「どう、して……」

 

 全て嘘に過ぎない筈だ。直前に庇ってくれたのも、先程までの言い合いも、その前の逢瀬も、最初の笑顔も。


「言った、じゃん……。ウチは、咲螺が……好きなんだって……」

 

 愛して欲しいだけなら、力を得るためだけなら、どうしてここまでする必要があるのか。


「驚いたわぁ。貴女にそんな気概が……ふふっ、でもラベンダーの沈黙はさらに貴女の右腕を蝕んで──」

「そうやってまた、縛る気か」

「はぁ?」

 

 鳥花を見ているようで、しかしその実、別の何かを視ている輝優の言動に、鳥花は訝しげに目を細める。


「この名前の……意味が、嫌いだ。それでも、ウチが好きになった人の持つものは、結局それだった」

 

 ラベンダーの槍に貫かれた腕はさらに黒紫に変色し、生気を失っているその右腕に輝優は左手に持ち替えたグラジオラスの短剣を突き立てて。


「咲螺……アゲラタムの布、咥えさせて」

「へ、は、はい……っ」

 

 確固たる覚悟を決めた雰囲気だった。

 それが何なのか、自然と想像してしまう自分が憎い。だから、止めたかった。でも、ラベンダーは恐らく、すぐにでも輝優を蝕んでいってしまう。


「ありがと」


 咲螺は何かに駆られるように、輝優にアゲラタムの布を咥えさせる。


「先輩……」

 

 左腕を侵す濁色は徐々に付け根へと上り、輝優の瞳も段々と色を失っていく。


「見てて、咲螺」

 

 そう言って、彼女は突き立てた短剣を、黒紫の沈黙に侵食されているぎりぎりの境界線に合わせ、


「……これが、ウチの覚悟と証明だ」


「せんぱ──」

 

 力一杯に突き刺した。

 声にならない悲鳴が、狂乱した。

 喉が焼き切れるのではないかという程に上げられる悲鳴。鳥花も予想外だったのか、目を見張っている。


「先輩……っ!」

 

 残酷で痛々しい光景に、思わず目を背けたくなる。だが、輝優は言った。見ていてくれと。

 絶え間なく響く炸裂の音と、耳を塞ぎたくなるような悲鳴がさらに続く。


「と、りか……お前の、しがらみはっ、断ち切るっ!」

 

 やがて、沈黙の侵食は右腕と共に、グラジオラスの短剣が一閃して断ち切られたのだった。

 切り離された腕が畳を転がり、溢れ出す血飛沫が辺りに飛び散る。


「……っ」

 

 ふらつく輝優は咄嗟に右肩から花赦を出してアゲラタムに繋ぎ、その青い布で左腕の断面に押し付けた。


「……はぁ、はぁ……っ」

 

 断面から溢れ出る血は止まり、左手で器用に布を結び付けて固定し、輝優は顎を引いて左手に持つグラジオラスの剣先で鳥花を指す。


「ふ、ふふふ、ふふふふっ!」

 

 輝優が言った覚悟と証明。それが成されたことへの意味を、咲螺は今、痛い程に理解していた。

 今すぐ彼女に抱き着きたい。抱き着いて、胸中で渦巻く激情の限りをぶつけたい。


 しかし、そうするには鳥花という女の存在が危う過ぎた。底知れない笑みと真意を覆い隠す、幾層にも渡る仮面。


 全てを剥ぎ取って引き摺り出すには、些か苦労しそうだった。


「堪らない……堪らないわぁっ! その熱血! 青臭さ! 感極まりました! 壮絶で美しい演出をご苦労!」

 

 両腕を広々と開いて感嘆を叫ぶ狂人。

 耳障りな声で勝手な感想を並べるこの女を早く叩きのめしたいが、何せ、向こうには花護がある。圧倒的に部が悪過ぎる。


「あんたの称賛はいらない。それより、ウチが欲しいのは咲螺からの激励と熱烈なハグとあわよくばキスだ。だからさ、さっさとその首頂戴よ」


「な……っ、い、いやそれより先輩! 腕の方は大丈夫なんですか⁉」

 

 文句を押し込み、痛々しい覚悟と証明を気にかける咲螺に、輝優は振り向いて太陽のような笑顔を見せた。

 いや、正確に言えばその笑顔の輝きは常のそれよりは明るさが足りなかった。


「先輩……」

 

 輝きが落ちた平凡な笑顔。だが、それはどこか吹っ切れたような様子を秘めていた。


「ああ、我慢出来ない! もっと貴女の溢れ出る若さを見せて頂戴! この糞みたいな世の中で光る煌めきを!」


 鳥花がラベンダーの針を両手に構え、突き刺す。

 だが、輝優が瞬きの速さで、刺突された針を短剣と左腕から出した花赦で押し上げる。そして既に、左足は鳥花の懐へと潜り込んでいた。


「たかが人嫌いの厭世家が。お前の勝手な価値観で……ウチの輝きを推し量るなっ!」

 

 甲高い金属音が響き渡る。

 針に剣先を押し付けながらも刃は鳥花の首元へと迫りゆく。

 淫靡な笑みを爆発させた鳥花は、最後に大きく嗤った。


「ああっ! お見事!」

 

 鈍く不快な斬撃音が鳴った。

 花弁の刃がその細く白い首を裂いていくと共に、赤黒い濁血が吹き出ていく。


「ら、あぁっ!」

 

 やがて断絶を終えた刃が空気を斬ると同時に、鳥花の狂顔は地を跳ねて転がった。


「せん、ぱい……」


 その血濡れた瞬間をへたり込んだまま呆然と見ていた咲螺は、ゆらゆらと立ち上がる。


「せんぱい……っ」

 

 顔を返り血で染め、ぽたぽたと血が滴り落ちる短剣を握りながら立ち尽くす輝優に、咲螺は抱きついていた。


「先輩、先輩っ、先輩!」

「さく、ら……」

 

 迸る激情が瞬く間に輝優を求める情へと変わりゆき、涙に塗れた顔を輝優の胸に擦り付ける。


「生きててよかった! 先輩が、死ななくてよかった……っ」

 

 直前まであった不信感も、今はもう無い。

 完全な清算、とまではいかない。しかし、それでも、輝優の確固たる覚悟と愛情の証明は、咲螺の心の芯まできちんと届いていた。


「咲螺ぁ!」

 

 輝優も力強く、腕で咲螺を抱き寄せる。

 顔が潰れそうだが、彼女の温もりと匂いに包まれるのならそれも良いと思った。


「先輩、わたし、あなたの気持ち……痛いほど伝わりました……。これで全てが許されるわけじゃないけど、わたしは──」


「その前に、先に謝らせて欲しい」

 

 抱擁が緩み、見上げるとそこには輝優の憂い顔があった。


「キミから愛されてキミを殺せば、花護を手に入れられるって鳥花から聞いたんだ」


「それは、どうして……」


「キミの性質は、あの柊皇も目をつけていた」


「……凛瞳……っ」

 

 胸底からせり上がる悪心。だが、今はそれに目を瞑って輝優の話に耳を傾ける。


「柊皇も、キミも。ウチ達の始祖である『原初の巫女』が持っていたと言われる、『花扱』……それを宿してるんだって。花に赦された性質とは違う、花を扱うもう一つの性質」

「なんで、そんなものがわたしに……」


「柊皇がキミの村を襲ったことに関係あるんだと思う……そして、ウチはキミを籠絡して殺し、花護を得ようと思った」


「殺すこと、それが引き金なんですか?」


「そう、なんだ……っ」淡々と、しかしあとになるにつれて口調は力強いものになっていた。

 

 きっと、怒りと後悔の念が込められているのだろう


「先輩」

「さく──」

 

 互いに湧き出た悪心。それも、唇を重ねたら柔らいだ。ゆっくりと唇を離し、息がかかる距離で咲螺は微笑みかける。


「こうして、抱き合ってキスをしている……それだけで、先輩はわたしに赦されている。違いますか……?」

「咲螺……」

 

 不安と後悔、そして微かな怒り。

 輝優の揺らぐ瞳に宿るそれらの念は、再び咲螺が唇を重ねていくことでまた一つ、消えていく。


「きっかけがどんなに歪なものでも、その過程でわたしは先輩の底にあるものを見ました。振りまく太陽のような笑み、その下に見え隠れする本音……」


「ん……」

 

 唇を重ねて、憂いを消し去って。


「永絆のことは、きっとこれからもずっと好きなんだと思う。……でも、目の前で身と心を削って気持ちを伝えてくれた人を蔑ろにするなんて考えを、ママ達には教わってないし、するつもりもないです」


「咲螺ぁ……」


「もう、泣かないで下さいよ! さっきまであんなかっこよかったのに」


「いや、やっぱりなずなちゃんには勝てないのかぁって」


「そっちですか!」


「……でも、ありがと。こんなウチを愛してくれて」

 

 真意から浮かんだ笑み。

 咲螺は胸を高鳴らせて、微笑み返した。


「わたしは、先輩が輝く光で偽っていたとしても、あなたを愛します」

 

 愛されたい少女から歪な情を注がれ、身と心を凌辱された。しかし、肌を重ねて、心をぶつけて、浮き出た真意は酷く脆くて儚げで。


 曝け出し合った感情は皮肉にも、互いの心の底の暗い沈殿を結び付けた。


 きっとこの人は、先の見えない暗がりの道も輝くような優しさで照らしてくれる。この人は、ようやく、はっきりと自分を愛してくれると言っていくれた。その嘘偽りの無い彼女の気持ちが、嬉しくて堪らなかった


「ウチは、優しく美しいキミを、愛してる」

 偽りで塗り固められたハリボテの輝きでも、それを受け入れて赦してくれた人が居る。


 暗闇のどん底に光が無いのなら、せめて自分が彼女の進む道を照らす光になろう。

 輝くような優しさが、眩し過ぎて大切なものを失ってしまうのなら、偽りを許し、愛を赦してくれた彼女だけに、その輝きを見せよう。輝優は心の底から、そう思った。


 両者の瞳が閉じられ、二つの影が近付く。


「──美味しい」

 

 不意に聞こえた声と同時に、視界の端に紫の影がよぎっていた。


「蜜、本当に美味しい」

 

 咲螺の閉じられた瞳は見開かれ、唇から漏れ出るのは甘い喘ぎではなく鮮血。その下を見ると喉にラベンダーの針が二本、突き刺さってた。


「人の不幸から湧き出る蜜は……本当に美味しいわぁ!」

 

 後ろを振り向く。輝優の背後に転がっている鳥花の顔が、嗤っていた。離れた位置にある死体の首の切断面から生える花赦と繋がれていて、本体の両手は構えられたまま床に垂れていた。


「ごぽっ……せん、ぱい……」

 

 咲螺の白く細い首が、喉から黒紫色によって侵食されていく。やがてひゅー、ひゅー、と空気が抜けるような音が聞こえ、彼女の顔色はどんどん青白くなっていく


「さく、らぁ……?」輝優は茫然と愛しい人の名を呼ぶ。


 無理解に襲われた表相はやがて血色を失い、まるで口から流れ出る血が咲螺の魂もろとも吐き出しているようで。


「咲螺ぁっ!」

 

 膝から崩れ落ちた彼女を受け止め、抱きかかえる。


「甘い、甘いっ、甘い! 不幸の蜜も、貴女の配慮も、貴女達の胸焼けするような演出も!」

 

 胸底から込み上げてくる憤怒。全身を粟立たせ、脳を湯立てるそれが左手の短剣に伝播する。再び背後を今度は強く振り向き、厭世家の名を思い切り叫んだ。

 距離が足りない。ならば、花赦を短剣に巻き付けて刺し殺す。


「だから甘いのよ」

 

 生首が嘲笑いながら、花赦によって本体へと素早く引かれる。


「逃がさ──」

 

 脳を焼き切るような灼熱が走った。

 いつの間にか咲螺の喉から抜かれていた針の一つが、右腕の断面から肩口にかけて貫いたのだ。


「こ──っ」


 瞳は白目を剥こうとする。

 そして、遅れて理解する。自分も、咲螺と同じように沈黙に支配されていくのだと。そして、咲螺が死に近付いていく様を、自分はただただ見守ることしか出来ないのだと。


 横で、ニタニタと嗤う生首が、停止している輝優を見て喋っていた。


「貴女はもうこの子を抱けず、名前を呼んで貰えず、キスもしてもらえない」

 

 横にゆらゆらと揺れながら、他人事のような冷めた口調と、満足げな笑みを浮かべて。


「まあ、ここでこの子をこうしておかないと、貴女のとても残念で最高に美しい泣き顔が見れなかったからねえ。凛瞳様にはきちんとお詫び申し上げないと。醒めないうちに凍結させて凛瞳様にお届けかしら」

 

 夕食の献立を考えるように斜め上に目を向けて、意味が不明なことを言う。


「お礼は言っておくわ。御馳走様でした。あーあ、身体と繋ぐの時間かかるのよねぇ」

 

 沈黙させた身体の中で、意識だけは叫んでいた。

 鳥花が「あ、言っとくけど」と、確認ごとを告げる調子で言った。



「──その子、もう死んでるわよ?」



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