第十輪  『輝優(きゆり)の決意、そして散る鮮血』

咲螺さくらっ!?」

 

 あ、と気の抜けた声を漏らした時には既に、天井と輝優きゆりの焦燥に満ちた顔が映り込んでいた。


「咲螺、どうしたのっ。風でも引いた? 熱があるの? 顔が熱いよ!」

 

 輝優は咲螺の重く熱い身体を抱いて起こし、自分の額と咲螺のそれを合わせる。勢いが強かったので、ごちんと音が鳴った。


「あ、ごめん!」


「い、いえ……」


 最近だったら文句の一つや二つでも言っていたが、今はそんな気力すら無い。


「やっぱり、熱だ……」

 

 焦燥が一段と強く増し、咲螺を再びベッドに寝かせて毛布を掛ける。次に輝優はアゲラタムで作られた布を持ってきた。

 

「ひっ」


 その青い色や香りが凌辱と拷問の光景を想起させ、思わず悲鳴を上げてしまった。


「ご、ごめん……これ、嫌だったよね……。分かった、待ってて、薬持ってくるからっ」

「あ、せんぱ……」

 

 咲螺が呼びかけるよりも早く、輝優は急いで部屋を出ていった。


****


「ウチは、どうすればいいの? もう後戻りなんて出来ないことは分かってる。でも、このままだとこの子は……」


「決意、することね。終止符を打つには、それしか無いわ」

 

 いつの間にか寝ていたのだろう。霞む視界は二人の像をおぼろげに映し、熱した身体は再び意識を深淵に誘おうとしている。

 その誘惑に勝つことが出来ず、咲螺は再び眠りについた。

 

****


 再び目が覚めてゆっくりと身体を起こせば、傍らにはベッドに状態を委ねて眠っている輝優の姿があった。今までずっと付きっきりで看病してくれていたのだろうか。

 

「あ」


 額に置かれていたアゲラタムの青い布がずりっと落ちた。

 そして次第に熱の感覚が身体に蘇り、寒気が背筋を駆け抜けて息が荒いのを自覚する。おまけに、汗で服が肌にべとついて気持ち悪い。


「……?」


 すると右手に、身体中を支配する熱とは別の温かさがあるのを感じた。見てみれば、輝優の右手が繋がれていた。


「せんぱい……」


 不意に漏れ出た囁きは、自分でも驚くほどに優しく安堵に満ちた音色だった。

 そのことに戸惑いを覚え、強く息を吐いて輝優の寝顔を見下ろす。

 

 ——今なら殺せるだろうか。

 

 これもまた、自然に湧き出た考えだった。

 右手を動かせば彼女は起きてしまうかもしれない。

 

 しかし、左手ならどうだろうか。

 

 しわぶき一つの音すら立てず、ゆっくりと彼女の細い首を絞めて息の根を止めることは出来ないだろうか。もしくは左手ではなく花赦でもいい。腕から出してゆっくっりと近付ければチェックメイトだ。

 

 今なら、彼女を殺してこの部屋から逃げ出すことが出来る。


「さく、ら……?」

 

 ぎくり、と咲螺は驚いて左手を引っ込める。「よだれ垂れてますよ、先輩」

 

 なんとか平静を装って話す。


「うぇっ?」


 と、間の抜けた声を出して輝優は慌てて口元を拭う。勿論、冗談だ。


「嘘に決まっているじゃないですか」


「えっ、なあんだよぅ!」

 

 赤面しつつも安堵した様子を見せる彼女を見て、咲螺は自然と自分の口元が綻んでいたことに気付く。


「あっ、今、笑った?」輝優がニヤニヤしながら聞いてくる。今度は咲螺が揶揄われる番だ。

 彼女は空咳をすると、「別に、笑ってませんよ」と言った。


「それより……」


「うん?」

「ここにずっと居たら、わたしの風邪、移りますよ? 手を繋いでるならなおさら……」

 

 その言葉を受け、輝優はゆっくりと自分の手元に視線を落とす。瞬間、勢いよく頬が赤らんでいった。


 「わっ、ご、ごめんっ。嫌だったよね……手汗かいてたかもしれないし」

 

 どうしてそんなに勝手に凹んでしまうのだろうと咲螺は疑問に思ったが、「別にそんなことない」と告げる。


「え、そんなことって?」


「いや、だから、その……別に、先輩に手を握られることが嫌だってことは無いですよ。それにわたしが寝ている間もずっと看病してくれてたんでしょう? むしろお礼を言わないとだし」


「そ、そっかあ……あ、いや、でももしかしたらウチがキミの寝込みを襲っていたかもしれないし……」


「えぇ……」

 

 その発想と、そこまで自分を卑下するのかという面倒臭さに、咲螺は呆れて溜息を零す。

 

 ここ一週間、正確には手足を失って以来。輝優がこのように自分を卑下し、咲螺に対して気を遣い過ぎることが増えた。

 

 出会った当初の太陽のような笑顔は今も健在だ。

 しかし、それ以上に哀しさや罪悪感を滲ませて笑う時が増えた。


 咲螺としては当然、今の彼女の方が安心するので良い。ただ、願わくば、初めて出会った時の彼女に戻って欲しいと、時折思ってしまう。

 自分に最も酷いことをしたのは彼女だが、この約二週間、最も共に時間を過ごしたのも彼女なのだ。


「先輩」

 

 どうしてか、ここまで弱ってしまった先輩に、咲螺は顔を近付けてそっとキスをした。


「ん……って、ちょ、ちょっとっ」


 唇を離したあとに輝優は頬を赤らめて狼狽した。

 今思えば、今まで散々自分が好き勝手やってきた行為に対して、いちいち慌てるのもおかしな話だ。

 だが、今はそれより、輝優の面倒事を解決しなければならない。ただでさえ熱にうなされているというのに、延々と自分を責めてもらっては安らかに眠れない。


「キスも愛情の証明、ですよね……先輩が自分で言ってたことです。それに……ヴァ、ヴァギナもどくどくしてないしっ」


「な、そんな言葉使っちゃだめでしょ!」


「これも先輩が言ってたことじゃないですかっ」


「う……」


 輝優はバツの悪い顔をする。


 「そもそもっ」と咲螺が続ける。


「舌を絡めるキスも、溶けるようなセックスも、骨が折れたり砕けたりする痛みも、あそこの中を掻き回される訳の分からなさも、身体を貫く痺れも……全部、すべてっ、先輩から教わって、無理矢理刻まれたことなんですよ!?」

 

 言っている途中から、頭が熱くなっていくような気がした。そしてまた哀しさや罪悪感を表情に滲ませる輝優に、尚も咲螺は続ける。


「怖かった。いきなり倉庫に連れ込まれたと思ったらお腹を蹴られて全身を舐め回されて……。痛かった。処女膜を破られた時の喪失感と腕や膝を折られた時の痛みは今も忘れない……。苦しかった。訳が分からない感覚に頭が溶けそうになって、それでもぶち込まれたヒペリカムがずっと電流を出してるから、意識が飛んでも飛んでもすぐに戻されて……。許せなかった。中身の無い、嘘で塗り固められた愛情に飲まれていきながら、それでも先輩に段々と心を赦していってしまう自分が……っ」


「咲螺……」


「どうしてっ。どうしてなんですか! どうしてわたしは、あなたのような最低な人に心を赦そうとしているんですか! あんなに酷いことをされて、いたぶられて、犯されて、身も心も凌辱されたのに……っ」

 

 涙が頬を伝った。それが分かった時、気が付いたら輝優に抱き締められていた。


「……好きだ。咲螺」

 

 耳元で小さく囁かれたその言葉は、咲螺の感情にある荒波を沈ませ、心の奥底にそっと沈殿していった。


「やめて、ください……何度も言っているじゃないですか。みせかけの愛なんて欲しくも無いし聞きたくも無いっ。だから、軽々しくそんな言葉を吐かないで!」


「好きなんだよ! あれだけ道具として、今までの皆と同じだと思って屈服させようとしていたのに、ウチはキミのことを好きになってしまったんだよ!」

 

 両肩を掴まれ、輝優の涙で濡れた瞳に射抜かれる。その奥には様々な激情が滾っているように思えた。だが、それは咲螺も同じだ。それ以前に、彼女が本当の愛を言っているかなんて分からない。そして、咲螺の喉元まで出かかっているこの感情も、どう表現していいのか分からない。


「勝手なこと……言わないでください」


「ウチは本気だよ。こんな気持ちを、他の皆に抱いたことが無い」


「どう信じろっていうんですか。いや、その前に、虫が良すぎじゃないですか」


「そんなのは、百も承知だよ。だから……覚悟を見せる」

 

 真摯な眼差しで、そう言った。咲螺はそれを真っ向から見つめる。

 その背後に、光が差した。薄闇の空間を照らしたのは。廊下の灯りだろう。


「──どう? 覚悟は決めたの? 輝優ちゃん」

  

 まともに顔を合わせるのは二週間ぶりだろうか。ラベンダーの花弁群で縁取られた眼鏡を掛けた、銀髪の美女。


 鳥花は妖艶な微笑みを浮かべながら、二人を——特に咲螺を舐め回すような視線で見つめながら、二人が居るベッドへと歩み寄る。


「店長……」


 咲螺は脳裏に浮かんだ怒りと嫌悪感を出来るだけ隠しながら、彼女の全てを見透かすような眼差しと相対する。

 鳥花は笑って、「あながちそれも間違いでは無いわね」と言った。


「は?」


「貴女、私の眼差しを受けて、いつも『全てを見透かされている』と思っているでしょう?」

 

 咲螺は絶句した。彼女が言ったことが、まさに今思っていたことだからだ。だが、偶然の場合がある。占い師なんかがよくやる手口だ。

 しかし、鳥花は唇に人差し指を当てると、咲螺に顔を近付けた。


「心の中も静かにしないと、悪いお姉さんに見透かされてしまうわよ?」

 

 この女は、咲螺の心が視えているのだ。

 そして、観ているのだ。

 咲螺が堪え切れない激情に駆られて惑っている様を。その気持ち悪い目で。


「正確には、目、ではないの」


 唇に当てていた人差し指を咲螺の顎へと這わし、軽く持ち上げる。


「……気持ち悪い。触らないで————」


「——ラベンダーの花護。御詞みことばは『心透の沈黙』」

 

 静かに呟かれた筈なのに、その文言は咲螺の耳朶に強く響いた。

 

 花護、と言った。愛する家族である彼女らが持っていた力の名を。

 

 その家族を傷つけ、咲螺に絶望を味合わせる原因を作った炎の覇者————凛瞳りんどうが無慈悲に振るったものの名を。


「ねえ、輝優ちゃん。もう一度聞くわ。覚悟は決まったの?」

 

 輝優は俯いたまま動かない。鳥花が現れた時からそうだった。まるで彼女がここに来ることを最初から知っていたかのように。


「ウチ、は……」


「先輩、何なんですか、その覚悟って……」

 

 鳥花を睨みながら、問う。この女の花護に纏わる質問。きっとそれはただ一つの言葉で終わり、答えを聞いた瞬間、正気ではいられなくなるだろう。だって、人生を変えた原因を作った女の手先が、目の前にいるかもしれないから。


「焦らないで、ゆっくりと悩んでいいのよ……。ゆっくり、ゆっくり……それだけで咎めるほど、あの方は不寛容でいらっしゃらないもの」

 

 鳥花がねっとりとそう言っている途中から、咲螺は気付かれないようにゆっくりと左手を動かしていた。こめかみが熱と痛みに侵されている。心臓は今にも破裂しそうだ。


「私の、私達の主様は……」

 

 沸点の限界を超えた怒りは、緊張と入り混じって、鼓動で不協和音を奏でる。

 後戻りはもう出来ない。


「麗しき凛瞳様ぁ……っ!」


 酔いしれた瞳で天を仰いだ鳥花めがけて、咲螺の腕から花赦が放たれた。


「鳥花あああああああッ!!」

 

 無防備な白い首に、翡翠色の管が迫る。息の根を止めるなら今しかない。


「咲螺──ッ」

 

 だが、寸前で花赦を掴んで止めた輝優によって、咲螺の殺意が昇華されることは無かった。


「何してるんですかっ。離してくださいっ。その女を殺せないじゃないですかっ」


「キミには、させない」

 

 輝優は右手で花赦を掴んだまま、左手で蜜柑が描かれた浴衣から歯の鋭いグラジオラスの短剣を取り出した。咲螺の目が見開かれ、鳥花は視線をそちらに向け、口角を上げる。


「そう、決断は思ったより早かったようね」

 

 輝優はそれを無視したまま、咲螺を見つめている。その眼差しは先程の真摯なそれだ。


「しょうがない。これしか方法は無いんだ」


 自分に言い聞かせるようにそう呟いた。まるで咲螺の意見など聞き入れるつもりは無いというように。


「嘘つき」

 

 咲螺の思考は熱と闇に飲まれていく。


「やっぱり、全て嘘だった」

 

 頬を伝う涙は、さっき嘆いた時の名残だろうか。そうでなければ、一体何なのか。


「……悪いとは思ってる」

 

 胸の奥に広がる感情の整理がつかない。いや、もしかしたら名前だけは浮かんでいるかもしれなかった。でも、それを今言ってしまえば、彼女に負けるような気がして。


「案外、楽しめましたよ」


 昏い笑みを浮かべて言った。


「ああ、こちらこそ」

 

 グラジオラスの剣先が光り、振り下ろされた。

 

 ──鮮血が、散った。


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