第九輪  『花石の守護者』

「誰だ、お前は……」

 

 目の前の、咲螺の皮を被った少女に問いかける。少女は妖艶に微笑んで、鮮やかな断面を晒す右腕に口づける。


「私は私よ。まあ、主導権はこの子に握られているけれどね」


「答えに、なってない。第一、その右眼……それは、伝承にもある『原初の巫女』のそれに似ている」


「本物、って言ったら?」


「ふざけるな!」

 

 気が付いたら、輝優は激しく憤っていた。何に対してかは分からない。しかし、怒鳴らずにはいられなかった。


「貴女はどうしてそんなに怒っているの? いえ、違うわ。狼狽しているのね。自分の獲物の器を見知らぬ女に横取りされて」


「獲物……? 違う、そんなんじゃない! 咲螺は、ウチにとって……」


「獲物に変わりないでしょう。自分の酷く身勝手で傲慢な愛を押し付け、極上の甘い蜜を啜るための享楽でしかない」


「黙れ! お前にウチの何が分かる。それに、出てくるタイミングが遅すぎたんじゃない? 咲螺はもう、ウチの術中に嵌ってるよ」

 

 輝優は昏い笑みを浮かべて言った。


「ウチの輝きから目を背けられる奴なんて、居やしない」

 

 挑戦的な物言いに対し、咲螺を纏った少女は「ふうん」と舐めるような視線を寄越した。


「なるほど贋作というものはいつ見ても穏やかではないわね」

「は?」

「咲螺が言っていなかった? 貴女の言う愛……もっと詳しく言えば、その輝き。そんなものは偽物に過ぎないと」

 

 に、せ、も、の。

 そう発せられた時、輝優は全て聞き終える直前に立ち上がって少女の胸倉に掴みかかっていた。


「ウチの、この輝きは絶対だ! あいつから植え込まれた力は、皮肉にも今一番都合よく働いているからね!」


「そうやって、暗い過去を悲劇だけで、被害者面で終わらせたくない……それは立派で前向きな考えだわ。けれど、肝心なのはその活かし方よ。確かに、今まで貴女が堕とした子達は貴女のそれで満足したかもしれない……でも、そこには心の底からの愛は無く、代わりにあったのは無機質で合理的な手段」

 

 輝優は手に力を込める。


「だから、お前にウチの何が分かる!  そうやって、ねちねち説教をするためにわざわざ出てきたわけじゃないよな。大体、キミは何なんだ。そんな人生を達観したような物言いが出来るほどの偉人なのか?」


「偉人……」言葉を咀嚼し、再び人を食ったような笑みを浮かべる。「あながちそれも間違いではないかもしれないわね」


「ほんの軽い冗談を真に受けるなよ」


「あら、私は冗句も好きよ? まあ、この口があんぐりと開くぐらいの傑作でなら、という拘りはあるけれど」


「そして当のご自慢の唇は、不気味な微笑みを描いたまま……か。もういい。咲螺が二重人格だったり、その器の中にお前が居たりしても、花護って力がある以上、別に不思議なことではないからね。さっさと咲螺を返してもらおうか」

 

 輝優は嘆息混じりにそう言うと、胸倉をゆっくり話して離して少女に冷めた眼差しを向ける。

 これ以上、彼女の下らない挑発に乗る義理は無いと思ったからだ。

少女は「あら、そう」と意外にも素っ気なく返した。しかし、瞳に再び妖しい光を灯して言った。


「今のままじゃ、この子は貴女に靡かない」

 

 輝優は無言で立ち上がりながら、しかし目線は冷めたまま少女を見つめている。少女は急に喉を「くくっ」と鳴らしながら続ける。


「この子を振り向かせたいのなら、よぉく考えることね。貴女の言う愛の定義がどれほど間違っているのかを。……そして、誤った挙句、自分すらも偽ってしまっていることに気付くべきだわ」


「はっ。愛の定義、ねえ。そう言うあんたは愛をどのように捉えているのさ。まさか、セックスしたいと思ったらそれが全て、なんて言うつもりじゃないよね?」


「セックス……そうね。それも一理あるかもしれないわ。でも、肝心なのはそう思える相手が見つかるか、そう思える人と出会えるかどうか、ではなくて?」


「……分からないな。どうしてそこまで選定する必要がある? 愛を振り撒いて自分を誇示することは必要だ。それこそ、花の種を撒くように、より多く、奇麗に育って且つ甘い蜜が啜れるように」


「自分にとっての最上のお花畑が出来上がる、と……。だから、道理で貴女の考えもお花畑に思えてしまうのかしら」少女は妖しく不気味な相好を崩し、小悪魔のようにほくそ笑む。

 

 輝優はあくまで冷めた目で見つめながら「挑発にはもう乗らない。下らない児戯に付き合うつもりは無いって意思表示が分からないのかな」


「あ、そ。……ならば仕方が無いわ。こちらも時間が無いし、端的に話すわね」

 

 案外すんなりと輝優の態度を認め、まるで競劇の試合に見飽きたかのようにころっと豹変した彼女に、輝優は殴りかかりたい衝動を堪えて少女の文言に耳を傾ける。


 少女が何なのか。何故、輝優が定める愛について咲螺同様に贋作だと言い張るのか————。

 聞きたいことは山ほどあるが、今はそれよりも彼女が放つ言葉を聞いた方が良い気がした。


「正直、私は今、自分のことはよく分かっていないの。それでもこの子に『出して』って訴えたのは、『花石』と私の存在を認めさせるたなの。理由は、貴女への説法」

 

 輝優は「ちょっと待て」と、こめかみを押さえて言った。


「ウチへの説法はともかく、えっと、カセキ……が何だって?」


「……時間が無い。詳しく説明するのはまたの機会になりそうね」


「は? おい、ちょっと待てよ! 急に出てきたと思ったら好き勝手言いやがった挙句、尻尾巻いてバックレんのか? そりゃないだろ!」

 

 まくしたてる輝優を少女は黙って見つめる。いや、正確には何かを堪えながら。


「これだけは、言っておくわ。貴女が咲螺に赦されるには、貴女が自分に正直になることね。……見せかけの、道具としての愛は、人を不幸にする」

 

 そして、「私はそれをよく知っているから……」とか細く呟いた。


「分からない……分からないな。どうしてそんなことをウチに教える必要があるの。ウチはあんたにとっても敵な筈だ。あんたの宿主を散々傷つけているんだからね」


「さあ。それについては私も自分に問いかけたいわ。でも、そうね。似ていたから、かしら」

 

 輝優は眉を顰めてオウム返しで問う。

 少女はどこか懐かしむように、そして慈しむように目を細め、優しく言った。


「あの時、取り返しのつかない罪を犯してしまった私に……」


「お、おいっ」

 

 突然、少女が目を瞑り、その場に倒れ伏せた。輝優は彼女の身体を起こして揺さぶりかけるが、応答は無かった。

 ただ一つ、聞こえた気がした。


 ————また会う日を楽しみに、と。


 暫くすると、咲螺はゆっくりと目を覚まし、先程の少女の面影の露程も感じさせずに酷く混乱していた。目をさましたらいきなり両手両足を失っているのだからそれも当然だろう。痛みは無いようなので、その点は良かったが。

 

 良かった。

 そう、良かったのだ。咲螺が泣き喚かずに済み、苦痛に悶える様を目にしなくて。

 

 ————道具としての愛は、人を不幸にする。

 思えば、自分が仕事の間に苦痛と快楽の拷問を与えて放置していたのも、本当はそうするべきという手段での話では無く、ただ純粋に彼女が泣き喚く様をもうこれ以上見たくなかったからではないのか。

 いや、違う。違うはずだ。


「毒されてるな……」

 

 力なく、先の哀切を滲ませた少女の時よりも、遥かにか細く呟いた。


 咲螺は再び眠りに落ちたようだ。そんな彼女の、苦しくも少しの安らかな色を灯した寝顔を見て、輝優は頬が自然と柔らかくしていることに気付いた。

 どうして、笑っているのだろう。

 演技としての嗤いではなく、自然と浮かべた笑み。

 分からない。分からなすぎる。自分は本当にどうしてしまったのか。


 胸中で激しく吹き狂う嵐を感じ取りながら、輝優は咲螺を起こさないようにそっとお姫様抱っこで持ち上げ、ベッドに運んでから食事の準備をするのだった。

 咲螺との食事風景を思い浮かべ、胸が微かに高鳴っていたことについて、輝優は気付いていなかった。


****


 両手両足が使えない生活は不便だったが、輝優が献身的に介助をしてくれるので思いのほか楽だった。

 目を覚ました直後は思い切り混乱したものだが、輝優が優しく抱きしめてくれたお蔭で、不思議と安心していたのだ。そして、一体、咲螺が昏倒している間に何があったのか。

耳元でか細く「ごめん。ごめん……」と囁いていたのだ。赦しを乞うように、罪悪の感情に溺れるように。


「咲螺、その……どこか痛いところは無い? あんなに酷いことをしておいてなんだけど……」

「……別に、大丈夫です。先輩がお世話してくれるので、特に不便は……」

「そう、か」

 

 距離を感じるようなぎこちない笑みと喋り方。咲螺は、彼女が自分の口へと運んでくれるスープを啜りながら、突然の豹変について考える。


 あの時、自分でも訳の分からい行動をとっていたという自覚はあった。それが彼女に何らかの影響を及ぼしたのか、それとも、単に今まで彼女が咲螺にしてきたことが彼女自身の良心に堪えたのか。


 前者はどのみち曖昧で、後者に限って言えば、正直考えにくい。

 輝優という人間は、己の『力で蹂躙する愛』という定義を掲げて万人にそれを押し付ける酷く傲慢な女だ。


 愛を道具としてしかみなさない、利己的な侵略者。自分さえも偽る彼女の心に、果たして良心などという言葉は存在するのだろうか。


「今日は、その……セックスはいいから」

「そう、ですか」

「なんか、色々あって疲れてる、から……キミは休んでていいよ」

「分かりました……」

 

 輝優は決して咲螺に目を合わせない。咲螺もその方が、あの狂笑や淫靡に染まった瞳を思い出さなくて済む。しかし、不自然な翳りを灯す彼女の横顔は、酷く儚げに見えた。

 咲螺は彼女に気付かれないように小さく首を振り、ふと生じた感情を振り払った。

 心配だ、なんて思ってしまっては駄目だ。この女が自分にしたことを忘れたのか。


「夕飯、もう大丈夫そうだったら片付けるけど……」

「そうですね。もう大丈夫です。ありがとうございました」

 律儀に頭を下げた咲螺に、輝優は呆れたような顔をして「先輩なんだから当然でしょっ」と言った。しかしその直後、慌てて視線を宙に巡らし、悲しげな貌で「ごめん……」と呟いたのだった。

 咲螺は「いえ」と答えることしか出来ず、食器を運んでいく輝優の後ろ姿をただただ眺めていたのだった。


****


「先輩は、この、一週間ぐらい、わたしとセックスしてませんよね」

 

 輝優が咳き込んだ。


「き、急にどうしたのさっ。もしかして、ウチ、そんなに欲求不満に見える?」


 赤面しながら、湯船に沈んでいる控えめな胸を腕で隠して言った。


「いえ、ただ何となく聞いただけです」

 

 その大げさな反応に対し、咲螺は無表情で会話を終わらす。輝優は「もぅ……」と膨れながらお湯に口元まで浸かった。

 咲螺が両手両足を失ってから一週間が経った。つまり、この部屋に幽閉されてから二週間ほどが経過したことを意味する。外に出ていないので時間や日付の感覚は曖昧だが、その点に関しては、輝優が部屋に足を運ぶごとにその日にあった仕事中の出来事や客の愚痴と一緒に教えてくれるので不便は無かった。


「咲螺、そろそろ上がりたい?」


「え、よく分かりましたね」咲螺は素直に驚いて目を見開いて言った。


「こんなに一緒に居れば、そりゃあ分かるよっ。あ、あと、今の驚き方……その、可愛かった、です」

「どうして最後だけ敬語なんですか」

 

 溜息混じりにそう言い、輝優に近付く。湯面に波紋が生じると共に、輝優の頬に朱が登った。「な、なにっ?」


「いや、先輩が支えてくれないと、わたし上がれないので」

「あ、ああそっかぁ! そうだね、上がろうっ」

 

 哀しげな笑みよりはマシだが、これはこれで怪しさが際立っている。何に対してそこまで動揺しているのだろうか。


 着替えを手伝って貰っている時も、一週間前までだったら舐めるような視線で身体を見てきたというのに————というか実際に舐めてまでいたというのに、今の彼女はまるで見ようともしない。それどころか、必死に顔を背けながら大変そうに服を着替えさせてくれている。


 それほどまでに自分の手足が衝撃的に見えてしまっているのだろうかと考えると、少し気分が沈む。そのことを言ってみれば、輝優は咲螺の肩を掴んで真正面から射抜き、「そんなことないっ。キミは十分に魅力的な女の子だ」と強く言うのだった。


 珠爛が読み耽っていたという恋愛小説シリーズに出てくる台詞並みにベタなものだったが、何故か咲螺の心は微かに高鳴ったのだった。そして驚くことに、その文言を言った時の彼女の瞳には、珍しく真意が存在していた。

 

 愛も自分も偽っている癖に、こういう時だけ正直になるのはやめて欲しいと、静かに胸の内で思ったのだった。


「わたしは、いつまでここに居るんでしょうか……」

 

 唐突に湧き出た疑問を、ふと、口に出してしまった。輝優はすぐに咲螺を見て、ベッドを軋ませて寄ってくる。

 ああ、もしかしたら殴られるか犯されるかもしれない。漠然とそう思って彼女の方を見ると、案の定、手が伸びてきた。


「……」

 

 瞠目と同じ瞬間に訪れたのは、打撃ではなく優しい抱擁だった。


「ごめんね、辛いよね。でも、もう少しだけ待っていて欲しい……もう少しだけ……」

 

 ああ、またこれか、と咲螺は目を瞑ったまま暖かく優しい抱擁に身を委ねる。


 そんな悲しい声で、顔で、謝らないで欲しい。素直にそう思ってしまうのは、果たして可笑しなことなのだろうか。何度も骨を折られ、砕かれ、処女だって奪われ、嘆きの一切を聞き入れて貰えないまま延々と犯されて————。


 それでも、今、この抱擁を無理矢理解けない自分がいる。


 完全に毒されているな————と思いながら。

 輝優の胸に顔を埋め、柑橘の心地良い香りを感じつつ、頑なだった頬を綻ばしたのだった。

 

 そして、ふと、身体が倒れゆくような感覚を覚えたのだった。



 

 

 


 


 

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