第八輪  『愛の定義』

 ——愛。

 

 甘美で優美で耽美的な感情。

 人間の誰しもが得ることを望み、向けられることを望み、守ることを望む。

 そこに偽りなんてものは必要無く、決してあってはならない。だから、咲螺は輝優から向けられた愛という名の拷問に恐怖し、盛大な嫌悪感を抱いた。

 

 彼女は恐らく、本当の愛というものを忘れている。忘れ去った挙句、代わりに歪んだそれを不特定多数に振り撒いて自己満足に浸っているのだ。許されるべきではない。愛を、人の愛を自分好みに捻じ曲げて愚弄するなど、到底許されるべき行為ではない。

 

 咲螺にとって。

 『本当の愛を傾けてくれる者を愛する』咲螺にとって、輝優の、力と凌辱で塗り固められた偽の求愛行為は、恐怖以上に吐く程の嫌悪を抱くものだった。

 

 永絆を愛した。

 飢餓に駆られ、愛情に酷く飢えていた彼女を手懐けることは、決して容易ではなかった。それでも、予感が咲螺の後押しをしていたのだ。この少女に甲斐甲斐しく施せば、きっと後になって愛という形で返ってくるだろうと。

 

 咲螺は、見返りを求める慈善行為が好きではない。見返りを目当てに人を助け、支えたとしても、そんな卑しい自分に嫌気が差すことが分かっていたからだ。

 彼女の望む愛は、望まずして唐突に現れる。探し物をするときと同じだ。無欲で純粋な者に対して、この花の世界は甘い蜜を垂らしてくれる。だから、咲螺も愛に貪欲になることは無く、自分を愛してくれる者がいることを、自分に愛を傾け始める者がいることを、さも当然のように思いながら生きていた。

 

 しかし、永絆は違った。

 漠然と思い描いた未来。無意識に浮かんでしまった、彼女が自分を慕ってくれる理想の光景。それが、彼女に対して実現してしまったのだ。

 功を奏したのだろうか。荒れ狂う彼女の暴力に耐え、タガが外れたように泣き叫ぶ彼女を必死にあやし、親と村の皆に隠れながら彼女の身の回りの世話をしたことが、功を奏したというのだろうか。

 

 初めて見返りを求めてしまった果てに訪れた、甘く痺れるような日々。

 永絆に抱き着く時に覚える、どこか懐かしい温かな温もり。永絆が笑顔を浮かべる時に訪れる、胸の高鳴り。永絆が散らす、甘い花弁のような香り————。

 

 彼女を初めて家に招いた時、二人の母の顔が驚きに満ちていたことを思い出す。珠爛は激しく狼狽し、純麗は険しい表情で「その子はどうしたんだ」と咲螺に問い詰めた。

 咲螺は勿論、二人のことは大好きだ。無論、恋愛的な意味で。

 だから、二人を説得する際に、キスをした。実の親だろうと関係無い。彼女にとっては愛を注いでくれる者だけが彼女の世界に住み、彼女が愛すべき対象なのだから。

 咲螺に口づけられ、珠爛はかっと頬を赤く染め、戸惑いも混じった様子だったが永絆の居候を許可してくれた。対して純麗は怒りに頬を赤らめ、咲螺を突き飛ばすと、二度とこんな真似はするなと厳しく叱咤したのだった。彼女も永絆を招き入れることに関しては賛成してくれたので、二人への愛情はさらに深まった。

 

 紅母と、白母と、永絆と。

 身近な家族に愛され、愛することに対して、咲螺は不満が無かった。寧ろ、それだけで咲螺の愛を注ぐ容器は満たされていたのだ。しかし、純麗に接吻を拒絶されたこと、そして永絆も同じく唇と唇を重ねるキスだけは拒否するので、容器を満たしていた筈の愛が微かに漏れ出ていくのを感じた。

 

 年老いた村長を愛した。

 やはり、咲螺にとって、確かな愛さえあれば年齢差や血のつながりなど無いに等しかった。

 

 誰かの紅妻を愛した。

 咲螺に対して、村の殆どの者は消極的で、繋がりも愛情も薄い。だから、咲螺の記憶に彼女らの姿形や名前はすっかり消え失せている。しかし、そんな消失済みの有象無象の中にも、優しい愛を持つ者は居た。

 二人の母が用事で出払っているとき、そんなときは決まって永絆も純麗に付いていってしまうので、湖畔とは反対の森や小さな市場を散歩していた。そんな中で、微かな妖しさと哀しさを貌に滲ませた彼女と出会ったのだ。

 

 白妻が相手をしてくれず、仕事にばかりのめり込んでいる。だから、毎日不安と孤独に苛まれて、悲しみに明け暮れていたのだと。

 村のはずれにある娼婦を雇っている店にでも行けばいいと、咲螺は珠爛からいつしか聞いた名前をそのまま口に出した。

 すると、その紅妻は激昂し、あんなものでは満足出来ない、あんな愛とセックスを金で買うような商売はでは、私の心の空洞は満たされない————と、怒鳴り散らしたのだった。

 その後、彼女はバツの悪いといった様子で謝り、そそくさと立ち去ろうとした。


「待って」

「あなたに話すことはもう何も無いわ。ごめんなさい、良い歳した大人がこんなみっともない醜態を晒して……私、ほんと何やってるんだろう」

「だったら、その愛とセックスっていうのを、わたしで試してみればいいじゃない」

 

 紅妻は一瞬、何を言われたのか分からないといった様子で、茫然と口を開いていた。しかし、咲螺からしてみれば、どうしてたった一人からの愛が枯渇しただけで世界が淀むのかが、理解できなかった。

 紅妻はキッと咲螺を睨み、手を銃の形にして人差し指で咲螺の鼻を突く。


「子供がそんなことを言っては駄目よ。それと、今後もそんな軽々しく愛だのセックスだの口走らないことね。信頼と自分の身を守りたいのなら、性を軽んじるのは止めなさい」


「あなたはたった一人の大切な人からの愛に飢えているんでしょ? でも、それって不憫じゃない? 愛に限りは無いと思うの。だって、人はこの世界にたくさんいる……だから、たった一つを選んでそれ以外の全てを捨てるなんて、すごくもったいないと思う」

 

 紅妻は再び口を開ける。茫然としているのか、それとも驚き呆れているのか。いずれにせよ、咲螺は言うことは言ったので少し満足はしていた。その後、彼女は踵を返して立ち去っていった。

 別に、彼女の愛が自分に傾くことを求めていた訳では無い。単なる暇潰し。ただ、それだけに過ぎなかった。

 一週間も経てば、人は変わる。正確には、胸襟を開く。二つの意味で。


「今だけ、こうさせて。ごめんなさい、貴女……それでも、たまにはこんなことも……」

 

 あれから二度、同じ場所で同じように会い、同じような言い合いをした。彼女の心は限界だったのだろう。ついに強がって反論するのを止めた彼女は、自分の家に招いて早々、咲螺に抱き着いたのだった。


「流石に、処女までは奪わないわ。それに、幼い貴女と浮気する気も無い……ただ、寂しい人妻のつまらない愚痴を聞いて、こうして膝枕でもして甘えさせてくれるだけでいいの。それ以上は、望まないから」

 

 弱気で孤独な彼女は、子供に縋った。微かでも、そこにはきちんと確かな愛があった。

 咲螺は彼女をとことん甘やかし、時には酔っていた彼女の身体に手を這わし、珠爛が所持していた官能小説の気になった場面の実践なんかもしてみたりした。

 乳房を揉み、臀部を撫で、熱を帯びていた秘部をショーツ越しになぞった。紅妻は半ば寝ながら、咲螺のその探り探りの愛撫に小さく喘ぎを漏らしていた。

 

 人の話を聞き、甘やかし、身体を撫でる————これもまた、確かな愛の形の一つなのかもしれない。

 それ以降、その紅妻とは会わなくなったが、良い経験が出来たと咲螺は思った。

 きっと、こんなことを知ったら母達は激怒すると思うし、永絆は泣き出すかもしれない。

 こういうひとときがあったとうことを、胸の奥にしまっておこう。きっとそれは、いつか必要な時に力となって返ってくるかもしれないのだから。


****


 数え切れないほどの絶頂の果てに、走馬灯のようにその記憶は思い出され、過ぎ去っていった。

 必要な時。皮肉にも、今まさに性によって快楽の海に沈んでいる真っ最中だ。

 激しく絶頂する時は、決まって電流が一段と強くなって身体が大きく跳ねる。

それに連動して、相変わらず、膣の入り口に鎮座するヒペリカムと四肢を拘束するアゲラタムの鎖が、同時に咲螺の身体を破壊するのだ。

 

 常に愛液を散らし、絶頂と共に電流は暴発して咲螺をさらなる快楽に痛みを伴って誘う。それだけならよいのだが、アゲラタムの鎖は咲螺の意識を快楽と電流だけに逃がさない。

 身体が跳ねると共に、手首と足首を封じるその鎖は生き物のように蠢いてこれでもかというほどに圧迫し、骨を粉砕する。アゲラタムの特性上、時間の経過と共に粉砕個所は治癒されるので、かえって趣味が悪いというものだ。


「ひ、ぐう……っ」

 

 形容し難い快楽と激痛、意識の暗転の繰り返し。心の結晶は音を立てて崩れ去っていき、感情と思考が淀んでぐちゃぐちゃになっていく。


「こんなの、ちがう……こんなの、愛じゃ、ない……っ」

 

 それ以上に、目の前にある偽の愛から目を背けたかった。認めたくない。認めるわけにはいかない。

 屈するわけにはいかない。


「どうして……っ」

 

 自分のものではないもう一つの声が、そこに生じた。


「どうしてキミは、そこまでして本物を求めるの」

 

 朧に見える輝優の像は、憤るよりも動揺して見えた。


「こんなになるまで耐えて、訳の分からない拷問を延々と受けて……キミだって、恐怖って感情がある筈だ……」

 

 恐怖なら、ある。あるに決まっている。しかし、それよりも。


「……先輩こそ、どうして恐れるんですか」


「また、訳の分からない質問だね。もう聞き飽きたよ。もう何日同じことを言ってると思う? 一週間だよ? そりゃあ、キミはずっとこの部屋で四六時中昇天顔晒してるわけだからわかんないと思うけど……」


「逃げないでくださいよ。ちゃんと向き合ってくださいよ。そうしたら、わたしも先輩を受け入れますから……」


「だからさあ、聞き飽きたって言ってるじゃんっ。 キミはあれか? マゾヒストなの? 何度も同じことを言ってはいたぶられて、そんなことに快感を覚える変態さんなのかなあっ? だったら猶更、キミにとってはこの拷問はご褒美だよねえっ。なんだよお、そうならちゃんと言ってよお……キミもようやくウチの奴隷に————」


「なるわけ、ないじゃないですか」

 

 間髪入れずのその答えを聞き、輝優は咲螺に無言で近付く。本来なら彼女が戻ってきたことで拘束は終わり、風呂や食事の準備をしてくれる。

 だが、今はそんな場合では無い。

 輝優が咲螺に近付く寸前で立ち止まった。しかし、その表情には怒りに混じって怪訝な色があった。


「……この一週間で、少しだけ痛みと快感には慣れました」

 

 輝優は無言で耳を傾ける。正確には、咲螺が自ら鎖に手首と足首を擦り付け、身体を揺らしているその行為を疑問に思いながら。


「何度も骨を折られ、砕かれ、電流を流され、水分が枯渇するまで潮を吹き、愛液とおしっこを漏らし、よだれと涙を流しました。先輩が来てご飯とお風呂で少しだけ解放されても、寝る前に待つのは先輩とのセックス……」

 

 咲螺はさらに強く手首と足首を鎖に擦り付け、輝優は尚もそれを無言で見守る。皮膚が徐々に赤らんでいき、ミシミシと音を立てていく。


「泣いて、嘆いて、悶えて、喘いで……それでも、先輩はご飯の時も、お風呂の時も、寝る時も、笑顔で楽しく話してくれた。こんな酷いことをする相手と居てほっとするなんて、ヘン、ですよね。でも、わたしはそう思っているんです。思って、しまったんです」


「でも、キミはウチを認めない」

 

 さらに激しく、鎖に擦り付ける。まるで逃れようとするように。


「どんなに暴力を振るって、犯して、対照的に優しくしたり世話をしたりしても、キミはウチの愛を受けいれてはくれない!」

 

 鎖は皮膚を裂き、血管をぶちぶちと断ち切って骨へと迫っていく。


「ひ、あが、あああああああああああああああああああああああああああああああっ」


「一体、キミは何をしているの! 本当におかしくなっちゃったんだねっ、狂ってる! 正気の沙汰じゃない!」

 

 声を張り上げた輝優は、やがて力強く両腕を握って咲螺の行為を止める。


「どうして、止めたんですか?」

「目の前で訳の分からないことをされたら、そりゃあ誰だって止めるでしょ!」

「先輩がいつもしていたことなのに?」

「手足を捥いだことは無い!」

「どうして捥がないんですか?」

「どうしてって、そりゃあ……」

「アゲラタムでも、ユーカリでも、切り離されたものは治せない……違いますか?」

「そう、だよ……そうだ。でもそれがどうしたって言うんだっ。キミが手足を捥ごうとする理由には……」

「覚悟、ですよ」

 

 三度、輝優は唖然とする。


「はあ?」

「先輩のその間違った愛を、わたしが正すっていう覚悟を……証明するんですよ」

 

 過程が合っているのか、正解へ辿り着けるのか、分からない。分からないから、やってみるしかない。

 手足から走る熱が、また一段と増す。しかし、それ以上に、咲螺は脳内で何かが肥大化していくのを感じていた。何かを訴え、諭し、褒めるような声が。


 不意に、あの炎の夜での悲劇————凛瞳の攻撃から永絆を守った際に発現した、『虹色の蝶の羽根』を思い出した。それが思い出したのか、思い出させられたのか、はっきりとは分からない。

 ただ、視界が段々と暗くなっていくにつれて、自分という存在が消えていくような感覚を覚えた。

 そして、ふと、咲螺の意識は途絶えていった。


****


 人形のように動かなくなった咲螺。

 だが次の瞬間、身体が前にずれ、それと共に手足が飛んだ。

 前方へと倒れ込んだ咲螺は、手足を失って尋常でない量の血を流しているにもかかわらず、無機質な人形のような貌をしていた。

 輝優は困惑しながら咲螺を抱きかかえ、アゲラタムの鎖を切断面に押し付ける。少しでも傷を塞ぎ、止血が出来れば良いと思ったのだろう。

 しかし、輝優はその光景を目にして硬直した。


 血肉と血管が鮮やかな断面を晒す手首。無論、それは足首も同様で、それに対して、鎖で手足を切断出来た原理と共に疑問が湧き出る。だが、そんな疑問も、彼女の意識を釘付けにしている現象と比べれば、些末な出来事に過ぎなかった。

 骨が、虹色に煌めいていた。

 四つの断面から覗く骨が、七色の美しい輝きを放っているのだ。

 悍ましくなったのだろう。輝優は咲螺を放って後ずさった。すると、咲螺の身体がぴくりと動き、両腕を使って身体を起こし、膝を曲げた状態で輝優と相対する。

 

 輝優がさらに悲鳴を上げたのは、咲螺の右眼に訪れた変化を目の当たりにしたからだ。

桃色の瞳を彩に現れた花の芽。やがて、それはゆっくりと開花し、結晶のような形をした花となった。


 輝優は、「ネリネの、花……まさか……」と、たどたどしく呟いた。


 そして、咲螺の表情にも変化は訪れ、微笑みの曲線が口元に描かれた。


「————あら、ごきげんよう」

 

 そう挨拶した少女は、妖艶に微笑むのだった。

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