第六輪  『陰惨な笑み』

 ──いざ仕事本番になると、輝優きゆりの存在は頼もしかった。


「そうなんですよ! 新しく入ったこのかわい子ちゃん、なんと実はウチの妹分で──」


咲螺さくら、お客様のお身体をほぐす時は、もっと優しく滑らかに──」


「初仕事一日目なのに凄いじゃん! お客様や同僚からも評判良かったよ!」


 付きっきりの指導は丁寧で分かりやすく、彼女が見せる笑顔に魅せられ、咲螺もまた自然と笑顔が出来るようになっていた。

 水商売だと覚悟していたが、客側の要望も過激なものは無く、凝りを無くして欲しいとか、身体をマッサージしてほぐして欲しいというものだった。


「お疲れ様ぁ」


「お、お疲れ様です!」


 白樺の床が軋む廊下で他の先輩達とすれ違った時も、皆、咲螺よりも仕事をこなしているにも関わらず笑顔の下に疲労の色は見当たらなかった。

 テキパキと仕事をこなせて、素敵な笑顔を浮かべられる彼女達のようになろう──そう思い、向上心と共に胸が高鳴った。


「あ、流石輝優先輩……」


 そう知らずのうちに感嘆を漏らしたのは、輝優が同僚の内の一人に声をかけられ、従業員用の用具倉庫に入ったところを目にしたからだ。

 店内人気ナンバーワンなので、同僚や後輩からも慕われているのだろう。

 少女のおさげから覗く頬は、真っ赤に火照っていた。


「まさか一日目で噂の場面を見るなんて」


 『スパティフィラム』に纏わる噂──というより、様々な職業でいえること。

 

 それは社内恋愛だ。

 

 そりゃあ、あんな頼もしくて明るい先輩が居たら、恋心を抱く者の一人や二人は居るだろうなぁと、どこか他人事のように思った。

 

 そこで唐突に永絆の顔が浮かび、溢れ出そうになる悲哀の情を堪える。


「……っ」


 気が付けば、二人が入っていった用具倉庫を目指していた。

 特に気になった訳では無い。

 今まであくせくと働いていたから、浮かび上がって来なかっただけであろう酷く辛い哀切。

 それを振り切りきたくて、逃げるように輝優の笑顔を求めた。

 あの先輩なら、きっとこんな感情など太陽のような笑顔で吹き飛ばしてくれる。

 そう思って。


「──ようやくウチの奴隷になることを選んでくれたね!」


「……はい。もう、貴女の慰め無しでは生きていけません……っ」


 同僚の少女のドレスをはだけさせて秘部をまさぐる太陽のような少女は、輝優ではないと信じたかった。


「せん……ぱ──」


「──あらぁ、駄目じゃない。乙女の戯れを邪魔しちゃあ」


 不意に聞こえた声に肩を震わせて後ろを見れば、そこには満面の笑みで見下ろす鳥花とりかの姿があった。

 

 しまった、そう思った時には遅かった。


「違──わたしは」鳥花の舐め回すような視線から逃れようと、再び前を見る。


「わたしは?」  


「……っ!?」


 そこには輝優の顔があった。

 吐息が顔に当たる程の至近距離で。

 そして、彼女もまた笑顔で言った。


「なぁんだぁ、咲螺も居たのかぁ。言ってくれれば良かったのにぃ」


 直後、後ろから鳥花に押され、前からは輝優に腕を引かれ、倉庫の中へと引き込まれる。

 何故か、入ってはいけないと脳内で警鐘が鳴り響いた。


「い、や……っ、いやだ! 入りたくな──」


 ばたん、と扉が閉まった。

 

 抵抗は呆気なく徒労に終わり、薄暗さと熱の篭った吐息、そして激しく轟く心臓の鼓動音がその場に残った。


「じゃ、とりあえず」


 腹部に走った重い衝動。

 それが即座に蹴られたことによるものだと気付き、それを為した輝優の笑顔を見て、何故──強くそう思った。


「──が、はぁ……っ!」


 壁に激突し、反動でうつ伏せに倒れ、激しく咳き込む。

 そして、髪を乱暴に掴まれる。

 無理やり顔を上げられ、輝優の笑顔が再び間近で映る。だが、その笑顔は太陽のようなそれではなく、


「キミは、ウチの奴隷になる?」


 狂気に歪んだ嗤い顔だった。

 動悸はさらに激しくなり、心臓が今にも爆発しそうだ。

 

 右に視線を走らせ、鳥花の淫靡に細められた気持ち悪い笑顔を目にする。

 左に視線を走らせ、少女の嫉妬に塗れた恐ろしい表情を目にする。

 

 再び、腹部に衝撃が走った。


「がふ……っ!?」


「何回も言わせないでよ」


 額を輝優の額に強く押し付けられ、ぎちぎちと、首筋に爪を立てられる。


「キミは、ウチの奴隷になる?」


「わ、わたし、は……」


 何が起こったのか。何が起こっているのか。

 何も考えず、信じたくなかった。

 

 首を掴む手の力を弱め、首筋を伝って頰を撫でて言った。


「──って、ごめんね? ウチも乙女だからさ、逢瀬の場面を見られてちょっと焦っちゃったんだ。だから、本当に、ごめん……」


 その言葉と態度は、今しがたの狂笑を浮かべていた彼女とは似ても似つかない。どちらが本物の輝優なのか。もしかすると、朝からの彼女は全て偽りの仮面を着けていたに過ぎなかったのか。

 

 全身をガタガタと震わせて恐怖する咲螺には、正解が分からない。

 

 しかし、輝優はそんな彼女を愛おしそうに、そして慈しむような眼差しで見つめると、ゆっくりと咲螺を抱き締める。


「ひ……っ」


「大丈夫。だぁいじょうぶ」


 乱れた呼吸は水中で溺れるように苦しい。

 いつしかあの湖で溺れた時に、永絆なずなが飛び込んで助けてくれたことを思い出す。

 ──永絆、助けて、永絆、助け──


「きっと、別れてしまった家族のことを思い出しているのね。可哀想に……でも、大丈夫。私達はもう家族なのだから。悩みも、悲しみも、痛みも……全てを晒していいのよ」


 鳥花が咲螺の右手を持ち、指先までそっと撫でる。


「正直嫉妬してしまいます……。でも、輝優様と店長が仰りましたように、私達は家族。だから、何でも言って下さいね? 彼女達も、私達も力になりますから。それに、私も同い年の子ともっと仲良くしたいですから」


 嫉妬に歪んだ形相から優しい笑顔に変わってそう言ったおさげの少女は、咲螺の左手をそっと自身の頰に当てて擦り付けた。

 

 皆が口を揃えて言っていた家族という言葉。

 村での日常、朝や仕事の合間に輝優が言ってくれた時──その時に帯びていた輝きが、今放たれたそれには全く無かった。


 助けて。誰か、ここから助け出して。

 

 永絆が酷く恋しい。彼女の声を聞きたい。あの細くも逞しい手で頰に触れて、そのまま抱き締めて欲しい。

 

 匂いを、口づけた頰を、手を、胸を。

 

 希求する。


 飢えて、飢えて、渇望する。

 

 永絆。永絆。永絆。永絆──


「──な、ずな……」


 無意識に呟いた愛しい名前。

 

「なずなちゃん、かぁ」


 それを、輝優は耳を傾けて聞き流さなかった。


「なるほどねぇ。キミにもやっぱり愛しい人が……」


 立ち上がり、顎に手を当てながらひとりごちて咲螺を見下ろす。

 その瞳には再び狂気が灯り、


「店長、厭臥あかね、跡は付けないでね」


 気が付けば左右の二人に腕を拘束されていた。


「い、やぁっ! 離して!」


「だぁいじょぶだよ。痛くもしないし、すぐに終わるから」


 激しく暴れても逃れることが出来ない。両脚をバタつかせても、しゃがんだ輝優に押さえ付けられて四肢の身動きが封じられてしまう。

 

 恐怖が恐怖を呼び、悲鳴を上げ過ぎて喉奥が痛くなる。

 輝優は脚を強く抑えながら、スカートの下に手を這わせて大腿まで辿り着かせる。

 

「やっぱり、咲螺は特別なんだねっ! こうやって顔を近づけてもて、全然臭わない……寧ろ甘く癖になる香りだぁ」


「い、やぁ……っ、やめろぉっ!」


 無理やり開けられた大腿の間に輝優の顔が侵入し、そのままスカートの中へ潜っていく。

 

 咲螺の心は既に限界だった。

 心が結晶のような物体で出来ているのなら、咲螺のそれは甲高い音を立てた崩れ落ちているだろう。


「あらぁ、輝優ちゃんったら大胆ね」


「咲螺さんばかりずるいです。あとで私にも──」


 狂気だ。

 狂気だけがこの場を支配している。


「んふふっ、分かってるって。咲螺を愉しんだら厭臥との続き、しなくちゃねっ」


 スカートの中で蠢く情欲。ついには下着まで行き着き、躊躇なく下を這わす。


「気持ち、悪い……嫌だ、嫌だぁ……っ! 永絆ぁ、永絆ぁっ!」


 恐怖と嫌悪が心に杭を打っていく。

 

 滂沱の涙で塗れ、霞む視界の先には、鳥花のラベンダーの眼鏡越しに淫靡に揺らぐ瞳と、厭臥の好奇と情欲を帯びた目線。

 

 それを見ないように、目を固く瞑って、たった一人の愛しい少女の名前を──


「────」


「ふふっ、甘くて柔らかいのねぇ」


 キスを、された。

 

 いとも容易く、さも当然のように、何の躊躇いも無く。

 

 を、こんな女に奪われてしまった。


 ──咲螺は、もう既に。


 乳房には、湿った感触や生々しい体温と共に、一段と嫌悪感を抱く感触を感じる。恐らく、ドレスの中の輝優が舌を這わせているのだろう。


 ──咲螺は、もう既に、頰を伝う涙にも気付かない。


「……っ、ふ、ぐぅ……」


 口腔に入ってきたのは、恐らく厭臥の舌だろう。脳内が白く点滅し、何かが溶けていく感覚がある。激しく身をよじる力も、もう無い。

 

 厭臥は満足そうに、恍惚とした表情で熱い吐息を吐く。大人しそうな顔からは想像出来ない、妖艶な貌だった。


「堪能、堪能。……ぶはぁっ、いやぁ、いい香りだったよっ」


 咲螺のドレスの中から顔を出し、「あっはっはっ」と嗤う狂女。

 

 間近で漂う柑橘の香りは思考を鈍らせ、彼女の声は酷い耳鳴りを生む。

 

 そしてその蜜柑色の瞳には、光を失った少女の虚な表情が映っていた。それが自分だと気付くには、少しの時間を要した。

 

 狂気と情欲と嗤いが蔓延るこの空間で、咲螺の心は芯まで擦り減っていた。


「いい顔……そのままキミの赦しを得て愛を通わせるような存在になりたいなっ」


 熱い吐息と共に囁かれた言葉は、二人には聞こえていないだろう。交互に唇を、舌を、頰を啄む彼女達は、咲螺を味見することに大変夢中なのだから。

 

 輝優も首筋に舌を這わせ、まるで自分は虫に集られる可哀想な花のようだと咲螺はかえって冷静に自己を客観視する。

 

 救いは無く、希望も無く、光は差さずに薄闇に飲まれて略奪者の餌食となって枯れ果てる。

 

 返り咲くと決意した覚悟。凛瞳りんどうを殺すと誓った憎しみ──それらが今はもう、心と一緒に打ち砕かれてしまっていた。


「はぁ……っ、そうだ、咲螺。キミに一つ聞いておきたかったんだ」


 輝優は、咲螺の口腔に捩込んだ舌で自身の唇を味わうように舐め取り、色めかしく目を細めて言った。


 もう何も求めず、ぼろぼろと落ちていく心の瓦礫を黙して見つめている咲螺は、その問い掛けにさらなる怖気を覚えたのだった。



「──ねぇ、『咲生の儀セックス』って知ってる?」

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