第二章【灰の第八階層】

第五輪  『灰色の世界〜娼婦宿〈スパティフィラム〉』

 ここは『スパティフィラム』と呼ばれる売春宿。心を清らかに──それが慣用句であり、売り文句である。上品な淑女が訪れる慰め宿だ。


 『灰の第八階層』には、こういった金と欲情に塗れた世界がいくつも広がっている。

 金も力も無き者達は、この世界で金と力を持つ者達の慰み者とされる。


 まだ男性という種族が存在していた前文明では、圧倒的な割合で女性がその立場になることもあったらしいが。

 

 所詮、人は人。

 文明が変わろうが、性別が一つになろうが、薄闇に塗れた部分は変わらないらしい。


****


 炎の夜に包まれ、鳥花とりかに連れられて『スパティフィラム』に訪れた日、気付かない内に咲螺さくらは眠ってしまっていたのだという。

   

 その夜は鳥花の部屋で寝て過ごし、朝食もそこで食べさせて貰った。枕がびしょ濡れだったことや鳥花の慈しむような目線から、最初はお漏らしでもしてしまっかと焦って聞いてしまった。

 

 だが、破顔して手を振り、「少しは元気になったかしら」と言われ、単に自分は泣いていたのだなと羞恥と共に理解した。


「ウチが今日からキミの指導者になった輝優きゆりだよっ! よろしくね、咲螺ちゃんっ」


 開口一番に元気よく挨拶したのは、その名の通り、蜜柑色のセミロングを左右に揺らした活発で明るい少女だった。

 店長である鳥花は多忙の身なので、代わりに先輩を側に就かせてくれるとのことだった。


「よ、よろしくお願いします」


 未知の場所と緊張も相まって敬語を使ったが、歳は近いと思える。

 咲螺の硬い態度に、輝優は一度その蜜柑色の瞳を見開き、そして顔を綻ばせる。笑顔が似合う人だなぁ、と思った。


「あっはは! そんな緊張しなくていいよ。指導者って言ってもウチ、十五だし。気楽にいこう気楽に。そしてお客さん達は極楽と悦楽に! あ、これこの店のモットーだよん」


「は、はぁ……」


 歳の近い交友関係は、せいぜい永絆なずなと村の友達しか知り得ない。

 そのため、彼女のようなタイプは今の自分の状態も鑑みて気疲れしそうだと内心覚悟する。

 

「んじゃ、早速案内するねっ」


「はいっ、よろしくお願いします」


 木の扉を通って左手を、白樺の床を歩きながらに行くと、突き当たりに階段があった。鳥花の部屋は階段横の通路の奥なので、二階へ登るのは初めてである。

 

 狭い廊下の左側には木枝の格子があり、その傍らには『連絡器アヤメ』が備えてある。いつ如何なる時も応対出来るようにするためだろう。


「はい、ここがウチ達従業員の住居だよ。知っての通り、ウチ達は住み込みで働いているから、ここ二階で同じ釜の飯を食ったり裸の付き合いをしたり、一緒に寝たりするんだ」


 輝優は右手を広げて各部屋を指し示し、奥へと進んでいく。扉には五、六人ごとの名前が書いてあり、一人部屋は望めそうになかった。


「あ、裸の付き合いと一緒に寝るってのは別にエッチな意味じゃないからね?」


「わ、分かってますよ!」


 つい大声を出してしまった咲螺に、輝優は「あっはっはっ」と陽気な笑い声を上げながら前へ進んでいく。


「んで、ここがリビィング!」

「おお……!」


 木組みのこじんまりとした空間だが、背の高い屋根や壁に掛かる多様な花々や装飾などが豪華さを醸し出し、思わず感嘆の声を漏らす。

 

 その様子を輝優は微笑みながら一瞥し、巨大な円形の木造テーブルを撫でながらゆったり歩む。


「その日にあったことや冗句を飛ばして、楽しく、和気藹々と食卓を囲む様はまるで一家団欒……そう、ウチ達は家族みたいなもんだから、やっぱりこういう時間も必要なわけよ」


「家族……」


 呟いて、多様な花々のせての中にアジュガの花が等間隔で飾られていることに気付く。

 小さな紫色花びらが手を取り合って咲いている様は、今、輝優が言ったように家族と友情を連想させる。


 そして、ちょうど対になる位置で止まった輝優は「そう、家族!」と両腕を広げる。


「キミも今日……いや、昨日の夜にここを訪れた時から立派な家族なんだよ! だから、仲良く気楽に過ごしていいんだよ? あ、お客様は?」


「あ、えと……ごくらくと、えつらくに?」


「いいじゃあないですかっ!」


 と言って親指を立て、円卓を空中で一回転しながら飛び越える。凄い運動神経だなと思った。咲螺ならせいぜい半分の距離しか跳躍出来ない。

 

 そして着地するや否や、呆然と立つ咲螺に抱き着く。


「わわっ」


 柑橘の甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「いやぁ、咲螺はかぁいいねぇ。よしよーし」

「うぅぅ……」


 心地良くほっとする反面、まるで花犬いぬを手懐けるようなその動作に、何とも言えない思いが込み上げてくる。

 しかし、彼女は家族と言ってくれた。その言葉に、今の心をズタボロに引き裂かれた自分がどれだけ救われただろうか。


「よしよーし」

「あ、あの……」

「うーん?」


 頬に朱が登るのを感じながら、輝優の背に腕を回して服をキュッと掴み、胸を満たす暖かさを言の葉に乗せる。


「ありがとう……ございます……」


 そしてひと時の沈黙が流れ、


「むっはぁぁっ!」

「せ、先輩!?」


 嬌声を上げながら倒れた輝優の顔は、どこか天に昇る心地を物語っていた。


 その後は厨房、浴場といった順で案内をしてもらった。

 厨房には既に係の先輩達がおり、純麗がよく狩っていた妖獣の肉を使った料理や洗い物などをしていた。

 汚れが付かないスノーフレークで作られた白衣を着ており、その姿が台所に立つ珠爛すずらんと重なった。

 

 輝優によれば、ここは水商売をする場でありながらいこいの場でもあるので、酒の他に料理を提供することも多いらしい。

 蔦や葉で組まれた流し台で、白くやや円錐状のカラーの花を使って洗い物をする彼女らに挨拶を済ませ、厨房を後にする。


 ここでもやはり、彼女達の姿が昨日までの家庭を思い出させたが、輝優の笑顔を見て、そして手を引かれると共に寂寥の念が引っ込んでいったのだった。


****


「それじゃ、服を脱ごうか」


 浴場に着くなり早々言われたその言葉に一瞬戸惑うも、すぐに旨を理解した。

 慌てて腕の匂いを嗅ぐ。


「そういえば昨日からお風呂に入ってないわ……! も、もしかして臭いましたか?」


「あっはっはっ」と輝優は笑う。


「いや、なんとか言ってくださいよ! 怖いじゃないですか!」


「だぁいじょぶだって。別に何も臭わないさ。むしろいい匂いがするよ。髪の毛とか」


 流れるように指先で髪の毛を掬って「すんすん」と匂いを嗅ぐ輝優に、咲螺は思わず飛び退く。


「本当にいい匂いなんだって。花赦を花に使えば使うほどお風呂入らなくても一週間は大丈夫だけどさ、キミのそれは別格だよっ! 何か凄く手の込んだ手入れをしてもらってたのか、あるいはもっと別の……」


 勝手に匂いを測っておきながら今度は勝手に推測を始めたので、咲螺は素早く服を脱いで浴場へと逃げ込んだ。


 逃げ込んだ瞬間、突然地面が消えたと思えば熱湯と共に流し素麺の如く急滑走し、そのまま水面の中へ滑り込んでいった。


「ぶ──はぁ……!? な、なにごと!?」


 水面から顔を出し、ばくばく轟く心臓の音が耳朶に響くのを感じながら、左右を素早く見、そして上を向く。

 そこにはカラーの花弁群から流れ出る洗浄のお湯、それを人一人分の横幅で流す竹の滑り台がある。 

 そして、


「慣れてくるとね、もはや滑り台なんてものは使わないのさっ」


 自慢げにそう言って構える蜜柑色の先輩がいた。

 心の中で思い切り「やめて」と叫んだ。


「やめて!」

 声に出ていた。

 

「とうっ! 等身大蜜柑投入!」


 その回転、入水時の曲線美は大変美しく、顔を覆うのを忘れて魅了されてしまった。

 盛大に音を立てた水飛沫が弾丸のように被弾した。

 そして等身大の蜜柑とは。


「わぶっ!?」


「ぷはぁ! やっぱり朝風呂気持ちよい!」


 苦しゅうないといった様子で言った彼女に、咲螺は思い切りお湯をかける。


「ぶはっ!? おっと咲螺ちゃん、流石に反抗期になるのが早いのでは?」


「少し自重して下さい!」

「なぁに、キミもすぐ慣れるさっ」

「そういう問題ではなく!」

「かぁいいねぇっ」

「ちょっ──」


 聞く耳持たずといった具合に、裸体お構い無しに抱き着く。

 控えめながらも形の整った乳房が咲螺の慎ましやかなそれへと押し付けられ、羞恥と共にある種の反感が湧き出てきた。それが何に対しての反感なのかは分からないが。

 

「どう? お仕事頑張れそう?」


 耳元で甘くそう囁かれ、暫し虚を突かれた思いをしたものの、すぐさま理解した。


「もしかして、わたしの緊張を解そうとして……?」


「当ったり前よ! なんたって、先輩だからねっ」


 両肩を持って屈託の無い笑顔でそう言った輝優に、咲螺は「先輩……」と思わず見惚れ、


「ぷ……ははっ、あはははっ」


 思わず吹き出してしまった。


「うぇっ? どうして笑うのぉ」


 への字に口を曲げた先輩を尻目に、咲螺はそっぽを向いて──しかし笑みを絶やさないまま言う。


「だって、輝優先輩……不器用なんですもん」


「おうおう、このこの! 反抗期通り越して喧嘩を売るようになったか! いいじゃろう、その喧嘩買ったろうじゃあないの! おいくらだぁっ」


「べー、だ。先輩がいくら怒っても怖くありませーん!」


「むきー!」


 と、暫しの間、温泉の中で鬼ごっこが始まったのだった。


****


「べ、別にのぼせてませんよぉ……」


「嘘つけい! ウチの膝枕を拝借していながらまだシラを切るかぁっ」


 湯煙の中で繰り広げられた追いかけっこは思いのほか体力を持っていき、今は彼女が言った通り、脱衣所にて輝優の柔らかな太もものお世話になっていたのだった。


「そういえば、これからお仕事が……」


 そんな中で、ふと思い出したのが重用な役割だった。

 輝優も「あ」と声を漏らし、咲螺が呆けた表情で彼女を見ると、途端に目を背けた。


「いやぁ、それにしてもこの世界のお風呂って便利だよねぇ。お湯に浸かるだけでいいんだもん。前の文明だといちいちシャワーなんてもん浴びてから……」


「先輩?」


「いやぁ、うん」


 まるで珠爛すずらんに問い詰められている純麗すみれの時のように気まずくそっぽを向いている。


「先輩」


「近い、近いよ!」


 ずいっと近付く咲螺に対し、わざと照れるような仕草をして飛び退く輝優。そんな先輩に、咲螺は「大丈夫かなぁ」と嘆息する。


 その不安は、赤いポピーが目立つ黒のドレスを着てよりいっそう高まった。

 

 きちんとお客様をもてなせるかどうか。それ以前に、本当に水商売という仕事を自分がするのか──そして出来るのか。

 

 三方向に花弁が伸びる白く小さい歯磨きリカステの花を舐めて口内を磨き、化粧をして準備を整える。


「それじゃ、行こっか」


 一階の部屋の前。

 

 気楽に笑いかける輝優の励ましを貰い、襖と共に新しい世界の扉を開けたのだった。




 

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