031 少女の心の拠り所
最初に綻びが生じたのはレイチェルだった。
すでに夕陽が沈みかけの時半。人影を辛うじて回避したものの、運の悪いことにその腕が少女を掠める。
「くっ⁉」
『そこだ――
一歩崩れた体勢、その間隙に差し込まれる範囲元奏術。
「きゃぁぁぁっ⁉」
直撃こそ躱したものの、余波に少女の体躯が吹き飛ばされた。大きくささくれ立った岩盤に叩きつけられ、一瞬呼吸が詰まる。
「レイチェルっ⁉」
少年の悲鳴に視線を上げた先、眼前に迫る――伸びた異形の節足。
レイチェルは咄嗟に目を閉じて身を強張らせ……しかし衝撃はなかなかこない。
恐る恐る目を開け、
「……え」
直後、大きく見開かれる。
割って入ってくれた幼馴染の背中、そこから紅に塗れる異形の節足が覗き、
「今度は、間に合った……」
ランディが、血の息を吐いた。
硬直するその体に、錐のような鋭さで二本三本と突き刺さる凶器。槍こそ手放していないものの、ランディは体を痙攣させるのみ。
異形の手が少年の体を鷲掴み、己の元へと引き寄せた。咄嗟に伸ばされる少女の手は、しかし絶望的に届かない。
力なく吊るされた少年の足元に、血だまりが広がってゆく。
『まずはぁ――』
無抵抗のままのランディが振りかぶられ、
『――一匹目』
大地に叩きつけられる。
レイチェルの眼前に、陰惨な光景が広がってゆく。
幼馴染が肉の音を響かせて、幾度も幾度も。幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も大地に叩きつけられる。
「……て」
わなわなと身を震わせて呆然と呟く少女の前で、
「……やめて」
少年が宙空に放り投げられ、
「……もうやめてぇっ!」
数多の節足で、大地に磔にされた。
『……くくく、ふひゃっ。ふひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃぁっ!』
今にも泣き出しそうな声で叫ぶレイチェルの耳に、心を嬲る嘲笑が響く。
『いいねぇいいねぇその表情。自分たちが特別だって思っている連中の壊れる顔。無力なガキの、絶望。ほんとうに――堪らないっ!』
愉悦を浮かべ、醜悪な笑いを漏らすジャスパー。ランディの返り血がついた触手を舌で舐めとり、
『それにこの人の肉を裂く感触、懐かしいなぁ。あぁ、以前の大侵攻を思い出す』
恍惚とした表情を浮かべるジャスパーは、残った凶手を揺らめかせる。呆然と立ち尽くす少女へと、自身の行いを誇示するように独白し始めた。
『あのとき俺は異形どもに攻撃されて傷を負っていてなぁ。破壊された城壁から街に逃げ込んで、身を隠していたんだ。それで、どうしたと思う……?』
異形の複眼が邪悪な光を帯びて、
『逃げ惑う住民を斬り捨てて――足止めに使ったんだよ』
「――えっ?」
レイチェルの全身が、氷水に突き落とされたかのように凍りついた。
『事実を揉み消したとき、親父にはさんざん嫌味を言われたけどな。いやはや、そのとき喰われてくれた奴らには本当感謝しかない』
捕獲した少年の体をつんつんとつつき回し、
『お陰で俺は生き永らえて、こんな娯楽を手に入れられたんだからなぁ』
だが、その言葉は俯いた少女に届いていなかった。元奏の杖が白くなるほどに固く握られ、手からは血が滴る。
はた、と何かを思い出したように触手を合わせたジャスパーは、
『そういえば中に、緋色の髪の一家がいたなぁ。あのガキが生きていればお前くらいの――』
「――えが」
『あん?』
「お前が、あの悲劇を引き起こしたのか」
知っている、その光景を知っている。
家族と逃走中に背後に感じた、発狂しそうになるほどの灼熱を。迫る異形の影に怯えた絶望を。両親に庇われた事実を、その最期の――笑顔を。
どうにか生き延びていた幼馴染に担がれ、フェルトに助けられたことを。最中の通り道に見てきた、自身と同じように背を斬られて倒れ伏す死屍累々を。
それはレイチェルが、
『はっはぁ、やっぱりお前があのときの生き残りか。ヒュドラから報告があったって聞いていたから、もしかしてと思っていたんだが』
レイチェルは真実を知った――知らされた。
自身を死の淵に追いやった家族の仇、多くの人間を死なせた原因。
『そういえば言っていなかったな』
全ての元凶、諸悪の根源は――
『あのときはありがとうな。お前らのお陰で、俺は生き延びることができた』
コイツだったのだ。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
慟哭の咆哮。レイチェルの裡で、殺気が猛烈に膨れ上がる。
「殺す、殺す殺す。絶対に、殺してやるっ!」
決壊する感情とは裏腹に、涙は流れない。代りと溢れ出すのは、マグマのように燃え滾る激情だ。
荒々しく叫び立てたレイチェルは痛む体を無視して疾走。瞬きの間に肉薄し、乱雑な挙動で展開した刃を掲げて――
『よっと』
突き出される幼馴染。
『隙だらけだぜぇ』
躊躇した処に節足の薙ぎ払いを喰らい、無様に後方へと弾き飛ばされた。
破砕音を打ち鳴らし、高くまでめくれ上がった岩盤に深々と突き刺さる。
「――はっ」
口内に血の味が広がり、手から零れ落ちる元奏杖。意識は朦朧、負傷した全身はもはや指一本すら動かない。
『おーい、生きてるか? だったら、プレゼント、だっ!』
霞む視界の中でランディが振り回され――投擲。回避できないレイチェル目がけ、少年が激突した。
あまりの衝撃にそのまま意識が途絶えかけ、
「――――ル」
呻き声が、至近距離で聞こえた。
なんとか視線のみを動かし、覆いかぶさる少年を見上げ――
――頬に、冷たい雫がはらりと降りかかった。
黒髪の少年の、金の眼差し。溢れる涙が雨となり、レイチェルの薄れゆく意識を辛うじて繋ぐ。
全身に穴を開けられた、重症どころではない少年。ヒュドラの因子を持っていてさえなお、危険な状態だ。
だが今溢れる涙は、恐らくその負傷によるものではない。レイチェルの自惚れで無ければ――
「……なんでランディが泣いているの」
「……うるせぇ。泣いてなんか、ない」
掠れ切った、呻き混じりのささやき声。めった刺しに刺し貫かれた少年は、呟くだけで痛みを伴うのだろう。
しかし、向き合う瞳が雄弁にランディの心情を伝えてくれる。まだ、気持ちは折れていないということを。
震える腕を持ち上げて、流れ続ける少年の涙を拭い、
「俺は、レイチェルの親父さんに、頼むって、託されたんだ。……仇、取らせてやる」
礼の代わりに返る、想いが紡がれた心強い言葉。
「……ありがとう」
自然とレイチェルの心に蟠っていた悪感情が散り、思考が鮮明になった。こちらは満身創痍で相手はほとんど無傷、客観的に見れば勝ち目はない。なのに、なぜかその言葉だけでレイチェルの心は奮え立った。
少年が負傷箇所を手で押さえ、ふらつきながらも槍を支えに体を起こす。覚束ない足取りで、少女を庇う位置に立つ。
痛みに喘ぎ歯を食いしばり、抗う闘志は揺るがないどころか一層熱を高める。
「……約束したんだ。隊長に、ハル先生に、ミレーナさんに……カーレルに。無事に帰るって、約束したんだ。だからこんなところで、倒れる訳にはいかない」
痛む体を押して、杖を拾い直したレイチェルが少年の隣に並び、
「……私はその中に入っていないの?」
少女の声が、微かにむくれる。
「当たり前だろ。……俺がお前を守るのは、当たり前だ。改めて言う必要はないだろ」
「……ばか」
頬を染めるレイチェルが、ランディの肩を小突いた。女の子は、そういうことは言葉にして欲しいと、口の中で小さく呟く。
『……おい、お前ら。俺を放って戦場で乳繰り合ってんじゃねぇよ』
ふたりの雰囲気を壊すように、ジャスパーが割って入った。
静観していたくせに文句を重ねる。本当に自分勝手な奴だと軽蔑の眼を向けるレイチェルは、冷静さを取り戻していた。
「あら、まだいたの」
「空気の読めない、小物だな」
『……ああ?』
ビキリ、と異形の額に筋が立つ。その稚態を見つめ、ランディが溢れる血を飲み下して笑みを作り、
「お前はカーレルを、目の敵にしていたみたいだが、絶対に勝てねぇ。……あいつだったらこんな隙は逃さない。確実にとどめを刺しに来る。それをしなかったのが、お前の敗因だ」
『言わせておけば……』
露骨な挑発に、余裕の仮面が完全に砕け散った。憤怒の形相を浮かべた異形の上半身が反り返り、
『だったら望み通り縊り殺してやるよぉっ! あの世で、そのメスガキと仲良くやれっ!』
咆哮と共に術を展開し、のみならず己も突貫してくる。
ランディとレイチェルはアイコンタクト。双方ともに、特にランディは長くもたない。決めるならば短期決戦。一度の連携に――全てを懸ける。
先手を取ったのはレイチェルだ。腰だめに構えた元奏杖の先端に光が灯り、
「喰らえっ!」
極限まで圧縮された弾丸が、戦場に一筋光の尾を曳く。
『その程度っ!』
異形の迅速な反応。迫る蒼弾を迎撃するべく、無数の術式を瞬時に構築し――奔流となって殺到する。圧倒的な破壊力をもったそれらが、蒼の光芒に真正面から激突。
競り勝ったのは――一点突破の弾丸だ。
レイチェルとランディの血、ヒュドラの因子。それを触媒として生成された即興特製の実体弾が異形の術を打ち砕き、
『何っ!?』
咄嗟に掲げられた触手の防御陣を悉く通貫、巨躯の脇腹を吹き飛ばす。衝撃で仰け反る異形の懐に、
「だああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
散り飛ぶ粒子を突き抜けて、全身を己の血煙に
『この、死に損ないがぁっ!』
体勢を崩したジャスパーの凶手が全身を斬り裂くも、勢いは止まらない。
槍に込められた元素が、血液が――蒼く光を放ち、形状を変えてゆく。柄が幾つにも分かれ、間に元奏の鎖が顕現。槍全体が伸び、少年を守護するべく蜷局を巻く。
カーレルのアドバイスを受けて進化した、ランディの相棒の新たな能力。その姿は、さながら伝説に語られる――海竜。
「喰らいつけ――」
槍の鞭がうねり、
「――〈リヴァイア〉っ!」
異形の全身に絡みつき、全身を雁字搦めにする。
穂先が異形の胸に突き立ち、極低温の槍がその表面を凍らせてゆく。
『小癪なっ!』
捕らわれたジャスパーが槍を振り解こうとするも、拘束から抜け出せない。甲殻の隙間に氷塊が侵入し、動きを鈍らせているのだ。
まごつく異形の隙を突き、蒼刃を携えたレイチェルが低い姿勢で迫る。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
少女は駆けながら笑みを浮かべていた。堪らなく悔しい気分だった。
仇敵の動きを止める、同い年の幼馴染。自身の命を繋いでくれた、勇気を与えてくれた、大切な恩人。そんなランディの姿がどこまでも眩しくて――かっこよくて。
感情が溢れて止まらない。悔しいのに、笑いが止まらないのだ。
『ガキどもが、粋がってんじゃねぇぞ!』
拘束をすり抜けた節足数本がレイチェルに迫り――それを弾き飛ばす海竜の尾。
「――
槍が周囲の気温を下げて無数の氷槍を形成し、
「さっきの借りは、返す」
全方位から異形を刺し貫く。
『ぐぬぅっ!』
動きを阻害されるジャスパーの正面。離脱するランディと入れ替わり、レイチェルが間合いへと飛び込む。
莫大な元素が三メルナを超える刃を成し、大上段に掲げられ、
「斬り裂け――」
そうして閃いた刃は――しかし、異形の背後から伸びた下半身に阻まれる。無理な体勢で体を跳ねさせ、幾本かの節足を代償に致命の刃を防いだのだ。
全霊を懸けた攻撃を防御され、レイチェルの体が深く沈み込み、
『ぐひゃひゃっ! 残念だったなぁ! これで終い――』
嘲笑うジャスパーの眼下で、翡翠の眼差しが鋭く輝き、
「――〈アンフィス〉っ!」
螺旋を描く
『――だぁ?』
胴を絶ち斬られた
「――
無慈悲なる、斬光双閃。
黄昏を覆う雲の下、屠竜の雷光がどこまでも高く立ち昇る。
『――あ、あぎゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?』
異形の体躯が、縦に両断されて、
「お前の断末魔なんて聞かない。時間の無駄よ」
それが、因縁の決着だった。
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