021 想い出の情景
これは少女が
当時、フェルトは孤独だった。
母親の惨死から間もなく、少女の特異体質は研究機関に目をつけられる。身寄りのなかった少女は施設へ移されるまでのひととき、民間孤児院に預けられていた。
だがその孤児院には、異形に家族を奪われた子供たちが大勢身を寄せている。職員たちも気味悪がって干渉しない。フェルトは孤立どころか、孤児の子供たちに虐めの対象とされていたのだった。
暗い部屋の片隅で塞ぎ込んでいたフェルトを、三人の少年が取り囲む。
『……なに?』
微かに上げた視界に伸ばされる手が映り、
『おいお前、こっちに来いっ』
『――っ⁉ 痛っ。嫌、離してっ』
髪を乱暴に掴まれて無理やりに立たされ、幼くも整った顔が苦痛に歪んだ。
『このっ、俺たちに逆らうなよっ』
悲鳴を上げて抵抗を見せるフェルトだが、男子の力には敵わない。他の子供たちや職員たちも、視線を逸らすのみで見て見ぬフリだ。そのまま少年たちは、孤児院の庭へと少女を引っ張り出した。
『おい、化け物女。お前なんでこんなところにいるんだよ』
『い、いやっ……わた、わたし……』
『化け物が、いっちょまえに人間のフリなんかしてるなよっ』
『きゃっ』
痛みに顔を歪めるこちらに構わず、髪を掴んでいた少年が少女を突き飛ばす。衝撃で跳ねる、頬を伝う涙。
投げ出されたフェルトが転倒して膝を擦り剥き、僅かに血が滲む。それが昂った感情に喚起され、淡く蒼銀に輝き出した。
直後、少年たちが身を強張らせて数歩後ずさり、
『こいつ、血が光りだしたぞ……』
『や、やっぱり化け物じゃないか。お前なんかここから出ていけっ!』
『俺の家族はな、街に侵入してきた化け物に殺されたんだっ!』
『お前はその仲間だ。何があっても、俺はお前を許さないっ!』
口々に罵ってくる少年たちから向けられる、涙混じりの怒気。それを一心に受けた幼いフェルトは怯えて縮こまり、ただ震えるしかなかった。
家族を喪った気持ちは少女にも共感できるものだ。しかし今自分へと向けられる視線に同情の色はない。あるのは人類の敵へと対する怒り、憎悪、そして恐怖。
――自分は人間だ、皆と同じ人間だっ!
フェルトはそう叫びたかったが、向けられる敵意がそれを許さなかった。
やがてひとりの少年が距離を取ったままフェルトへと手を掲げる。
『……俺は死んだ父ちゃんにな、才能があるって術を教えられていたんだ』
涙で表情を歪ませた少年の手元に顕現するそれは、
『これでもくらえっ――
不完全ながらも殺傷能力を持った氷の礫が、横殴りにフェルトへと殺到した。
『――ぁうっ! きゃっ!』
咄嗟に腕で庇ったものの、礫は体に当たって跳ね、そこから鈍い痛みが広がってゆく。今着ている古着のワンピースでは、何の役にも立たない。見る見るうちに、全身に打撲のアザと小さな切り傷が増えていった。
自分たちと違うものに対する恐怖、その排斥行動。
今この場に、自分を助けてくれる人物はいない。遠巻きに暴行を眺める子供たちは、視線を逸らすかこちらを見ないフリを続ける。フェルトにとって、周りは敵だらけという状況だ。
ならば、自身に害を成す敵は――
『――お前たち、何をやっているっ!』
少女の思考が危険な方向に逸れかけたとき、庭にひとりの少年が飛び込んできた。その小さな影が少女と敵対者たちの間に割り込む。
こちらに背中を向ける少年の表情は逆光で影になり、フェルトからはよく見えない。背格好からして、こちらよりも少し年上だろうか。しかし、その声に聞き覚えはなかった。孤児院の関係者という訳ではないだろう。
『お、お前誰だよ。そいつがなにか知って――』
『――そんなことは関係ない。女の子を寄ってたかって虐めるとか、最低だっ』
『こ、この野郎っ。お前もくらえっ――
突然現れた侵入者に少年たちは面食らったものの、再度術を放ってくる。その対象が、割って入ってくれた少年に切り替わっただけだ。
『うわっ』
悲鳴を上げて、フェルトを庇ってくれた少年が大きくよろめく。放たれた礫の一つが額を直撃したのだ。
『やめて、もうやめてっ。わたしのことは気にしなくていい。このままじゃ貴方がっ!』
己を庇って傷だらけになる少年の背中に縋り、必死に呼びかけるフェルト。その脳裏からは、先程抱いていた危険な思想はとっくに霧散していた。
少年はちらりとフェルトを振り返り――意識を正面へと戻す。
『……嫌だ、絶対にどかない。そんな風に泣いている女の子を放っておけるもんか』
『……えっ』
その真っすぐな言葉に、フェルトがはっとした表情を浮かべた。自身の眦を指で拭う。手の中で、沈みゆく
術が止んだ直後、少年が膝を突いて顔を庇う体勢から立ち上がり、
『うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
がむしゃらに虐めっ子たち目がけて突進してゆく。
『うわっ』
不意の攻勢に術を放ったひとりが突き飛ばされ、馬乗りになった少年は拳を振り下ろす。
『っ⁉ やったな、このっ!』
仲間が殴られたことで我に返った他ふたりが侵入者の少年を取り押さえ、
『お返しだっ!』
最初に殴られた少年が殴り返す。
そこから始まる、子供同士の大喧嘩。事態の推移についていけないフェルトを他所に、取っ組み合いは白熱する。互いに泥だらけになり、最後に勝ち残ったのは――割り込んでくれた少年だった。
少年は倒れ伏す苛めっ子たちを跨ぎ、少女へと近づく。荒い息を吐き、傷だらけの全身を庇いながらフェルトの前に立った。
『あ、あの――えっ』
そしてそのまま無言で少女の手を取って、孤児院の外へと走り出したのだ。
『ちょ、ちょっとっ⁉』
釣られて足を動かすフェルトの手をきゅっと掴む、同じ年代の男の子の手。微かに汗ばんだ手を通じ、少年の鼓動が、熱が、少女へと伝わってゆく。
速まる鼓動で、夕陽に染まる街を駆け抜ける。どれほど走ったのか、どんな道順を通ったのか。すでにフェルトには分からなくなっていた。
途中ですれ違う人々が、ぎょっとして道を開けてゆく。気がつけば、ふたりは街の高台へとたどり着いていた。
落下防止用の手摺と、石畳で補強された、何の変哲もない高台だ。
時半はすでに夕暮れ。城塞の向こうへと陽が沈みかけ、世界を見事な山吹色に染め上げる。陽に照らされたベンチと自分たちの夕影が、情景の中に黒く伸びていた。
足を止めた少年に並び立ったフェルトは膝に手を突く。長時間の運動は幼い体には厳しいもので、その場で必死に呼吸を整える。
火照った体を冷ましてくれる心地よい涼風。吹き抜けたそれが少女の髪を優しく靡かせ、毛先が汗の浮いた肌を擽った。
やがて落ち着いた頃、少年へと視線を向け、
『こんな所まで連れてきて、どういうつもりなの』
言葉に棘が混じった。
だが、少年はそれには答えない。ただ茫然と、沈みゆく夕陽へ視線をやっていた。小さく嘆息し、仕方なくフェルトはその少年の隣に立つ。
蒼穹だった空を染め上げる夕暮れの光が、ふたりを優しく包み込む。眼下に広がる街並みが濃い山吹に照らされて、普段と違った色合いを見せる。
まるで夢の中に揺蕩うような、心の中を優しく洗い流してくれるような夕映え。自然とふたりは手を伸ばし、先程同様に繋いでいた。
しばしその光景に見惚れていたフェルトへと、
『見晴らしがいい所だね』
前置きなく少年が語りかけてきた。
『えっ』
『君が凄く落ち込んでいたみたいだったから、元気を出して欲しいなって』
衝動的な行動でしたと、微かに笑った気配がして、
『高台ならと思って来てみたんだけど』
横へと向けたフェルトの瞳に、夕陽を反射した淡い金髪が幻想的に映り、
『その……迷惑、だったかな』
少年の横顔に、少女の体温が一気に高まった。
周囲から異物と敵視され、コミュニティの蚊帳の外に置かれてきた。これからも他者と関わりを持つことはないと悲嘆に暮れていた。そんな自分の殻を破り、少年は広い世界へと連れ出してくれたのだ。
ときめくなという方が、無理な話だった。
フェルトはゆるゆると首を振り、
『……迷惑なんかじゃない』
こんがらがる思考で必死に探すも、その短い言葉しか出てこない。やがてこれだけでは色々足りないと思い至り、
『その――ありがとう』
蚊が鳴いたような、か細い声しか漏れなかった。
だが、それでこちらの感謝の気持ちが伝わったのだろう。
繋いでいた手が離れ、頭を優しく撫でられる。久しく感じなかった、人の温もり。びくりと肩を竦めたがフェルトだが、心地よい少年の体温に擽ったくなって目を細め、
『うん、それは、良かっ、た……』
そう満足げに呟いた少年が――ドサリと倒れた。
『え、ちょ、ちょっと。どうしたのっ⁉』
突然の出来事に目を白黒させるフェルトの前で、少年は辛うじて身を起そうとする。その拍子に零れる、紅い雫。
『貴方、それっ』
慌てて屈んだフェルトは少年の肩を支え、自分の方を向かせてぎょっとする。
改めて眺めた少年の全身には、無数の痣や切り傷ができていた。中でも一番大きいのは、額の右側頭部。髪の生え際から、止めどなく血が溢れていたのだ。
滴る紅が少年の右目を塞ぎ、服に染み込んでいる。恐らくは先程礫を受けた際に切っていたのだろう。
そのあと、大人数相手に喧嘩を吹っかけて長距離を走ったのだ。血の巡りは速くなり、出血量は増す。結果、少年の顔の右半分ほどが真っ赤に染まっていた。
『いや、死んじゃいや……』
恐々と首を振るフェルトを安心させるように少年が笑みを浮かべて、
『これくらい、どうってことないって……』
確かに少年の言うように、命に関わるほどの出血ではないのかもしれない。しかしフェルトの脳裏には、自らの目の前で命を絶った母親の姿が浮かんでいた。
『早く、早く血を止めないとっ』
このまま放置しては、少年が自分のせいで母と同じ運命を辿るのではないか。悪い想像ばかりが
状況を打開しようと周囲を見回す少女だが、着の身着のままで飛び出してきたのだ。境遇も相まって、ハンカチの一枚も手元にはない。
焦りを浮かべる少女の手に、少年の手がそっと触れた。はっと顔を上げると、ふたりの視線が交錯し、
『オレは君が何で虐められていたのか、何で泣いていたのかは知らない』
出血で意識が朦朧としてるのか、言葉は先程よりもたどたどしい。それでも少年は、フェルトへと必死に何かを伝えようとしていた。
両手で優しく少女の手を包みこみ、
『でも、少なくともオレは君の味方だよ。だから、困ったときはまたオレを頼って欲しい……』
『――――』
その言葉に、フェルトは時間が止まったような錯覚を覚えた。
少年は単純に自分の正体を知らないだけかもしれない。異形と同じ体質だとばれると、今までの人たちのように離れていくのかもしれない。
けどそれでも、少年の言葉は、今の少女が何よりも求めていた言葉だったのだ。
産みの親から疎まれて、周りからは腫れ物に触るような対応。挙げ句の果て、危害を加えられる始末だ。味方はいない、周りは皆――敵だらけ。
そんな幼い絶望に、しかし初対面の少年がスッと入り込んで来てくれた。味方になると、言ってくれたのだ。
少年を助けるために何かしたい、自分にできることが何かあるはずだ。必死に思考を巡らせる内に、やがて少年が意識を失ってしまう。
『そんな……起きて、ねぇ起きてよっ!』
もっと話をしていたい、もっといろいろな体験を共にしたい。もっと――その笑顔を見ていたい。
しかしそんな願いとは裏腹に、焦りは募ってゆく。フェルトが少年の肩を揺するも、目を覚まさない。
『何か、何かわたしにできることは……』
堂々巡りに入った思考に、出口は見えない。己の無力さに噛みしめた唇が破れ、血の味が口内に広がる。
だがそのときふと、自身を引き取ると言ってくれた研究者の言葉を思い出した。
『確証はありませんが、貴方の血には傷を早く治す効果があるのかもしれません』
はっと自身の全身を手で触って確かめるフェルト。氷塊をぶつけられた痛みはすでになく、擦り剥いていた膝にも傷は見当たらない。
フェルトが孤立するきっかけとなった異形の血、その因子。だがもしかしたらこの方法で――目前の少年を救うことができるかもしれない。
緊張で乾ききった口元を、小さな舌がぺろりと湿らせた。唾液混じりの血が唇を染め、薄紅のように少女を彩る。心なしか、走っていたときよりも鼓動が速くなった気がした。
唇を引き結び、意識を失った少年の顔を見つめる。そっと髪を掻き分けて、いまだ出血し続ける傷口を晒す。残り陽が伸ばすふたりの影がゆっくりと重なり――
§
「――この直ぐあとにわたしは孤児院に連れ戻され、その少年とも引き離されました。結局相手の素性も分からなかったので探す手がかりはなく、以来一度も会えていません」
ですが、とフェルトが優し気な笑みを浮かべ、
「この街のどこかで元気に過ごしてくれていると信じています」
ヒュドラルギュロスに与えられた隊舎。共用スペースで長い語りを終えたフェルトは、用意していたカップから紅茶を啜った。
対面するのはレイチェル一人のみ。カーレルとランディは訓練へと出向き、今この場にはいなかった。
話を聞かされていた少女はげんなりとした表情を隠しもせずに、
「はい、それはよく、よぉーく知っています」
「あら、レイチェルはこの話が嫌いですか?」
いえ、と結わえられた緋髪が左右に揺れ、
「もちろんロマンスは感じますよ。私が隊長の立場でも同じ感情を抱いたでしょうし」
その感想は本心だ。
幼い頃に偶然出会った男の子との淡い恋の想い出。初めてのときは目を輝かせて、無意識ににじり寄るほどには真剣に聞いたものだ。真剣に聞いていたのだが――
「でも、その惚気を何十回も、何百回も聞かされる身にもなってください」
すでにこの話は、レイチェルたちが出会ってから三桁回以上は繰り返されている。聞くたびに瞳から輝きは消えてゆき、今では半分死んだ目で聞き流している有様。その見知らぬ少年に、軽い殺意すら抱きそうになったりするほどだ。
レイチェルはフェルトへと、半ば悟りの境地に踏み入れた言葉を放つも、
「あらあら」
無論、この惚気女に効果はなかった。内心で嘆息するレイチェルを他所に、ヒュドラと呼ばれる少女は何事かを思案する。
「確かに、わたしの想い出の中で多少美化されたところはあるかもしれません。記憶の思い違いもあるでしょう。ですが、この男の子に関して確実に言えることが一つだけあります」
「……何ですか、それは?」
「彼が、この街の救世主――守護者だということです」
「どういうことですか?」
確かに少年はかつてフェルトの心を救ってくれた存在だろう。だが、それが街の守護者とは、話が飛躍し過ぎではないか。
疑問を浮かべる少女へと、フェルトは無垢な笑みを浮かべる。同性のレイチェルでもはっとするくらい魅力的に感じる、恋をする乙女の顔だ。
「わたしはこの街の防衛に何度も貢献したという自負があります。けど、わたしが彼に出会わなければ、この街を守りたいなんて思いは
それに、とフェルトの笑みに微かな悪戯の色が混ざり、
「もしかしたらランディが貴方の助命を求めてきたときも、応じなかったかもしれませんよ」
その言葉にレイチェルはうぐ、と軽く仰け反った。
「……そう言われちゃうと、その人は間接的に私の命の恩人ということになりますね」
レイチェルは三年前に、フェルトの因子を取り入れることで命を繋いだ。その遠因となった人物ということであれば、
「はい。ですので彼のことを悪く言ってはいけませんよ」
「むぅ……わかりました。その代わりもっと話をする頻度を下げては……」
控えめな申告に返される、
「ふふふ」
無慈悲な毒竜の微笑み。
「……アッハイ」
これはダメだと瞬時に悟ったレイチェルは、目に見えて大きく落胆したのだった。
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