020 約束

 やがてフェルトが落ち着いた頃、縋っていたカーレルから身を離し、


「ありがとうございます。随分と気持ちが楽になりました」


 憑き物が落ちたような、自然で無垢な笑みだった。カーレルは微かな胸の高鳴りをなんとか沈め、


「気にするな。オレから言い出したことだ」

「ですがカーレルさん。一つだけ忠告します」


 と、フェルトが目を細めて唇を尖らせる。しかしその頬は、若干赤く染まっているようにも見えた。


「前に頭を撫でてくれたときにも思ったのですが、その……恋人でもない女性にスキンシップを図るのはいかがなものかと」

「ああっと、すまない。つい咄嗟に……」


 指摘されて状況を理解したカーレルは少女に謝罪する。だが、フェルトは追撃の手を緩めない。晴れやかさを消し、悪戯心を多分に含んだ笑みを向けてきて、


「つまりカーレルさんは『つい咄嗟に弱っている女の子を抱きしめてしまう』んですね」

「いや、そういう訳じゃないんだが……」


 否定しようにも、つい先ほど実演してしまったばかり。


 まごつくままのカーレルへと、フェルトはくるりと背中を向ける。少女の動きに合わせて、金色の髪とスカートの裾が優雅に翻った。


「冗談です。今回はわたしも助けられましたので、気にしないことにします」


 後ろ手に手を組んだまま、肩越しにカーレルを振り返り、


あらかじめ断っておきますが、わたしには好きな男性がいます。当時いろいろとありまして、その方の名前も分かりません。ですが、わたしの想い出の中の、大切な人なんです」

「そう、だったのか。……それは悪いことをしたな」


 フェルトの言葉に、カーレルは意識せず銀の前髪に右手を伸ばした。自分とて、その気持ちが分からない訳ではないのだから。


 フェルトが指を唇にあてて「うーん」と考えごとをし、


「カーレルさんはその、恋人とかはいないんですか」

「……オレも君と似たような感じだ。ずっと昔に、とある女の子に恋心を感じたことはあった。けど、それ以来会えていないんだ」


 それを聞いた少女の紺碧の瞳が、爛々とした光を帯び、


「つまり、その子のことがずっと気になっているということですか?」


 向けられる期待の瞳が、上目遣いにカーレルを見上げる。


「みたいだな」


 フェルトの勢いに押されて僅かに仰け反りながら、カーレルは密かに苦笑する。どうやら女性と恋話は、甘味同様切っても切れない縁があるらしい。


「では、今回の件はカーレルさんの恋話を教えてもらうことでチャラにします」

「ちょっ、それはないだろっ」


 想定外の交換条件に、カーレルは面食らったように後ずさった。表情が若干引き攣っていることも自覚できる。


「えー、でもカーレルさんは女の子を抱きしめていい思いをしているのに、わたしだけ一方的に弱みを握られているんですよ」


 蠱惑的な笑みを浮かべた唇が「それに」と言葉を紡ぎ、


「そういう想いは溜め込まない方がいいんですよね」

「……参ったな」


 己の放った言葉が、このタイミングで返ってきたのだ。適当に返す訳にもいかないだろう。


「……わかったよ。侵攻を乗り切ったあとに覚えていたら話す。これでいいか?」

「あら、それはいけませんね」

「どうしてだ」


 深刻な様子でなにかを考え込む少女へと問いかけるカーレル。


「似たような典型例を知っています。大事な決戦の前にそういう約束をすると、その人は命を落としてしまうんです。昔読んだ恋愛小説に書いてありました」


 フェルトが指を立てて講釈し、


「ああカーレルさん。まさか貴方がこの部隊最初の殉職者になってしまうなんてっ!」


 芝居がかった優雅な所作で踊るように手を組み、


「そ、そうなのか……?」


 カーレルはドン引きしていた。


 フェルトは何事もなかったかのようにしれっと態度を戻し、


「でも大丈夫です。今わたしが指摘しましたので、カーレルさんは無事ですよ」


 浮かぶ微笑みは、見慣れたようで少し違う、作りものではない自然なもの。こんな良い女の子を放っておくなんて、罪な男もいるものだ、とカーレルは肩を竦めた。


「……当然フェルトも無事に帰るんだぞ」

「はい。それはもちろん。カーレルさんの恋話、楽しみにしていますね」


 どうやら先程の話題は流されず、


「……それを原動力にされても困るんだが」

「ふふふ」

「……手遅れだったか」


 星空を仰ぐハメになる。


 こと恋愛に関する話題で、男は女には勝てない。フェルトとのやり取りを経て、カーレルはそれを思い知らされたのだった。

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