013 レイチェルの過去

 曇り空の昼下がりに、消えない焔が陽炎を作り出す。土煙が舞う街の中、逃げ惑う人々の悲鳴が響き渡る。


 異形の侵攻は今に始まったことではない。襲撃の折には、その予測地区に住む住人の避難が優先されるというルールが布かれていた。


 だが、このときはイレギュラーが発生した。襲撃予測地点と離れた城壁が破られ、街に多くの異形が侵入してしまったのだ。


 それは、城塞修復の仕事に携わるディオラ家――レイチェルの家の近く。知らせが入り、少女は両親と共に避難施設へと急ぐ。


 しかし運の悪いことに、一家の避難経路にはすでにフォボスが入り込んでいた。戦う力のないレイチェルたちは、隠れてこそこそと移動するしかない。


 逃走経路たる露店街を舞台とした、命懸けの鬼ごっこ。幼い己の手を掴む両親の手が汗で滑り、離れないようにぎゅっと力が籠った。


 精神をすり減らす緊迫した時間の果て、避難指定場所が間近へと迫る。


 自分たちは助かるのだ。


 家族の間に、微かな安堵の空気が広がり――



 逃げる少女の背中を、衝撃が襲った。



 前触れなく奔った、硬く鋭い、いっそ冷たいほどの灼熱。何が起きたかわからないままのレイチェルが地面に転倒した。


 起き上がろうと身を震わすも、体に力が入らない。背中が灼けるほどに熱く、何か根本的なものが体から抜けてゆく。呻き声すら上がらない。


 遅れて左右から聞こえる、ドサリという音。辛うじて視線を動かし、レイチェルが目を見開いた。


 大きくて温かな手の父が、気立てのいい料理上手の母が――力なく倒れていたのだ。


 彼らの瞳から喪われてゆく、光。鼻腔にはなぜか、鉄臭い香りが漂ってきた。


 少女の理解が進む前に、事態はなお悪化する。


 視界の先で何かが翻ったような気がして辛うじて顔を向けるレイチェル。その背後から聞こえる唸り声に振り返り――四本足の獣が迫っていた。


 生まれて初めて会敵した存在。一〇歳の己よりも圧倒的に大きな、フォボスという異形の影だ。獲物を見つけた紫瞳が怪しく細まり、こちら目がけて獣の俊足で迫ってくる。


 逃れえない――絶対的な死。


 無意識の内に、奥歯がガチガチと震えた。這い上がってくる焼け付くような痛みと恐怖に、自然と涙が溢れ出す。


 死にたくない、死にたくない、死にたく、ないっ――!


 少女の裡に湧き上がる、生への渇望、執着。


 そのとき、トン、と優しい衝撃が体に走った。はっと顔を見上げると、生気を喪いつつも微かに微笑む両親の笑顔。大切な家族の姿が、崩れて自身に降りかかる露店テントの向こうに消え、


 ――貴方だけでも、どうか……


 それが、レイチェルの見た両親の最期だった。


 

  §



「――この後、ランディが私を助けてくれました。自分も危険な目に遭いながら、大怪我を負いながら。私をフェルト隊長の処まで連れて行ってくれたんです」


 当時を思い返しているだろう、翡翠の瞳。そこには、優しさと憎悪が混在しているように、カーレルには映った。


「……ふたりがヒュドラルギュロスに加入した経緯は分かった。けどそれが、どうして裏切られたと?」


 それまで話を聞いているだけだったカーレルが、静かな問いを放つ。今の話と、アルギュロスが裏切ったという表現が結びつかなかったのだ。


 それを理解しているであろう少女がきゅっと唇を引き結び、



「……私があのとき負った背中の切傷からは、フォボスの因子は検出されなかったんです」



「――っ⁉」


 レイチェルの言葉は、カーレルを大きく刮目させた。


 フォボスの攻撃には、例外なく人体を浸食する因子が含まれている。傷の回復を阻害する、毒とも呼べる因子。それが検出されなかったということは、レイチェルの負った傷は――


「つまり、私を、両親を斬りつけたのは……異形ではなく、人間、アルギュロスの隊員だということです」

「そんな、馬鹿な……」

「あのときは街中に侵入したフォボスを討伐するために、それなりの数のアルギュロス隊員が街中に入っていました。多分犯人はその中の誰かだと思います」


 本来アルギュロスは、異形から街を守る盾として、異形を討つ剣として存在している。それこそが彼らの存在意義であり、矜持きょうじ


 その守護のはずの存在が、自身を――家族を襲ったのだと、レイチェルは主張した。


「フェルト隊長経由で、この件に関してアルギュロス上層部に調査依頼を出したんです。けど――その事実は握り潰されました」


 淡々と語るレイチェルだが、右手で左肩を強く掴み、何かに耐えるように表情を顰める。その内心に渦巻く感情は、カーレルには計り知れないものだ。


「『我々はあずかり知らない。そんな報告は入っていない。そもそも化け物ヒュドラの言葉など信用できるか』」


 瞳に昏い光を宿し、挑みかかるようにカーレルを睨みつけ、


「まともに住民を守れない挙句、こんな暴挙に出る組織。一体何を信じろというんですか」

「……すまない。君にそんな過去があったとは」

「……いえ、こちらこそすいません。八つ当たりみたいになってしまいました」


 思ってもみなかった情報に、カーレルは唸りを上げるしかない。


 かつての上官、オズワルドは厳格かつ公正な性格の人物だ。組織全体に事情を周知して事実確認を徹底させるはずである。


 だが、それが行われたという話を、カーレルは知らない。訴えを把握しているのかもしれないが、調査の手を回せていない。


 つまり、どこか別所からの圧力がかかっているとみるべきだろう。


 であれば、情報を握り潰しているのは――


「可能性があるとすれば、総長――ゲーリックたちということか。……事情はわかった。オレの方でもできる範囲で調べてみる」

「調べる、ですか?」


 小首を傾げる少女へ、カーレルが「ああ」と首肯し、


「領主館側に伝手があると言ったろ? 何年も前の事件だし、証拠を消されている可能性もあるから確実に解明できるとは言えない。だが……こんな事実を見過ごすことはできない」

「えっ……。その、信じて、もらえるんですか?」


 レイチェルがそれこそ信じられないとでもいうように目を見開く。


 心外だとばかりにカーレルは片目を閉じて息を吐き、


「なんの根拠もなく話す内容でもないだろう。それとも君は、オレに嘘をついたのか?」

「い、いえ、そういう訳では……」

「ならば猶更なおさらだ。この件は街全体の安全に関わる問題だ。それを隠滅してうやむやにするなんてことは、オレには看過できない」


 古巣が重大な問題を隠している可能性があると知り、真剣に考え出すカーレル。呆気に取られていたレイチェルは、しばらくして我に返り、


「ええっと……ありがとう、ございます。お礼が言いたかっただけなのに、変な話をしてしまってすいません。それだけ、です。ではおやすみなさいっ!」

「あ、ちょっと待て」


 逃げ出すように踵を返したレイチェルを、しかしカーレルは呼び止めた。別件で思考に耽って入るものの――最初の話題を忘れた訳ではない。口元が、先程とは違う意味で妖しく三日月を描く。


 攻守逆転。


 いけない気配を感じたレイチェルが「ひっ」と身を竦めた。一刻も早くこの場を去りたいと言わんばかりの、実に嗜虐心をそそる表情だ。


「これはさっきの話に戻るんだが――お前はランディのことをどう想っているんだ?」


 カーレルはそんな少女に、追撃の爆弾を投下した。


 転瞬、ボシュっと煙が立ち上り、レイチェルがよろよろとその場にうずくまる。あからさまどころか、このまま爆発すらしてしまいそうな過剰反応。


 この段階に至って、カーレルはやり過ぎたことを悟り、


「あー、っと。オレが悪かった。だから、ほら」


 前髪を弄りながら、視線を逸らして謝罪する。


 しかし中途半端な取りなしは、今のレイチェルにとっては逆に地雷だったらしい。


「……んの」


 くわっと身を起こし、滲む翡翠の瞳でカーレルを睨みつけ、


「カーレルさんの……ば、ば……」

「ば……?」



  §



「ばか――――っ‼︎」


 続きは、出会い頭の閃光一閃だった。昨夜の捨て台詞が繰り返され、同時に放たれる一撃。レイチェルとカーレルの間を、元奏の刃が斬断する。


「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかーっ‼︎」


『ばか』一声ごとに斬撃は翻り、カーレルをすべく矛は止まらない。力の限り、息の続く限り。少女の顔は激しい運動と酸欠と――羞恥に染まり、若干隈の浮いた目元に涙が滲む。


 経緯を知らず、ポカンと見届けるフェルトとランディの眼前で蒼光が幾重にも閃く。


 対する悪い大人カーレルは無手のままで回避一辺倒だ。地面を、巨岩を、小屋の壁さえ足場にして三次元的に跳び回り、葬刃を掠らせない。


「ま、待てレイチェル、レイチェルっ! オレが悪かった。だから武器を――」

「――うるさいばかーっ‼︎」


 一刀の下に伏される謝罪。


「……なんでしょうね。これ」

「……俺が聞きたいんですが」


 事情を飲み込めない傍観者たちの困惑は増すばかり。


 その内、少女の攻めに変化が起こる。旋回の間隙に楕円の片側が柄をスライドし、石突側に移動。蒼刃が姿を変え、杖の両端から刃を吹き出す双刃剣ダブルブレードを成したのだ。


 多重の螺旋に倍の手数、緋髪が燃え盛る炎のようにはためく。心なし加速したレイチェルが、カーレルの懐に潜り込む。


 足、頭、胴を連続で刈り取る蒼閃が空を斬る。杖を素早く旋回して射撃体勢。至近距離から放たれる元奏散弾五連射を回避したカーレルが悲鳴を上げた。


「なんか技増えてるんだけど」

「なるほど訓練ですね。夜中にこっそりと新しい技の相談でもしていたのではないでしょうか。その期待に即応するカーレルさんもやりますね」

「……ちょっと俺も槍を持ってきます」

「はい。いってらっしゃい」


 見当違いの解釈が、場の混沌をさらに加速させてゆく。


 調査三日目の、朝の出来事だった。

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