#10 獣の内側

 しかしこれ、どこへ向かっているんだ?

 一人でいることに不安になってきて、辺りを確認しようと上げようとした顔へ、風切り音が唐突に近づいてきて、俺は慌てて伏せる。

 木の枝だろうか、髪の毛スレスレを薙ぎ払う。

 あぶないところだった。


 この獣は上に俺が乗っていることに対し、気を使ってはくれない。

 ヘタに起き上がっていたら木の枝で顔面強打、最悪は目に刺さって失明だ。

 俺は仕方なく、獣臭いの背中へと再び顔を埋める。

 慣れてきたのか、臭いも気にならなくなってきた……というか、ちょっとクセになる臭いかも?


 そのままの体勢で、体感的には十分くらいはしがみつきながら揺られていたと思う。

 樹々の間を駆け抜けていた足音が、急に籠もり出す。

 トンネル……洞窟か?

 しかも、鹿の王様の足音はついて来てないような……うわ。

 これもしかして、俺ピンチ?


 そんな脳内セルフツッコミを、まるで聞いてたんじゃないかってタイミングで、獣は立ち止まる。

 次に取るべき行動を考えているさなか、俺のしがみついていた獣の背中が割れた。

 本当に割れたんだ……左右に。真っ二つに。

 直後、中から伸びてきた何かが、俺をその裂け目へと引きずり込んだ。


 落とされたその場所……毛皮の内側と思われるそこは、やけに温かくて、ぬめっていて、やけに甘い……さっきのクセになった臭いの、さらに濃くなった感じの臭い。


 しかもこの臭い……全く違う臭いなのに、ケティのことを思いだす。

 状況的にはどう考えても危険一択なのに、体の力は自然と抜けてゆく。

 というか、何、今の音……そしてこのヘソのあたりのくすぐったさ。

 腰回りが急に緩みはじめて、ようやく俺は膝上短パンを留めていた腰紐が解かれたことに気付く。

 すぐに下着が膝まで下ろされる。

 動揺している俺の剥き出し状態に、何かが触れる……手! 人の手!

 そういえば俺をここに引きずり込んだのも人の手だったような気がする。


 え、え、え、俺、襲われてるの?


 生暖かいものがぬめりと股間のあたりを舐め回す。

 真っ暗だからこそ、視覚以外の感覚が敏感になる。

 モノスゴ気持ち悪い。

 抵抗したいのに、体に力が入らない。

 湿度のある音が、かつて膝上短パンがガードしてくれていた領域を執拗に蹂躙する。

 やめろ……やめてくれ……声は出ない代わりに吐き気がこみ上げてくる。

 これ、吐いたら向こうは離れてくれるだろうか。

 股間を幾度となく刺激されるが、今ばかりは頼もしい平静状態。

 それでも無抵抗で耐え続けるのは相当な拷問だ。


 クラスの女子が痴漢に遭った話をしていたのを思いだす。

 その時は、逃げればいいのに、とか、声ぐらい出せるんじゃないか、とか、そんな反応をした気がするけれど、実際にそういうモノに襲われた時、驚きと戸惑いと恐怖とで、すぐには反応することさえできはしないんだな。

 先が見えない不安と凄まじい嫌悪感の中で、やけに心臓の音が早まってゆく音が耳につく。

 気持ち悪いのに、俺の肌はゾクゾクしている……不快感はハンパないのに、どこかで気持ちいいという感覚が俺の中へ侵入しようとしてきている。

 これ、体が動かないのって、俺が動けないのとはちょっと違わないか?

 まさか怪しいクスリとか?


 ハッと気付いて『魔力感知』を行う。

 自分の寿命の渦と……そして、目の前に居る何かの寿命の渦。

 やっぱりだ。

 『魔力感知』は、自分のだけじゃなく、周囲の寿命の渦も見えるんだ!

 しかも、暗闇でもはっきりと感じることができる。そこに居ることを。


 もっと早くこれをやっていれば、相手が魔法で俺を麻痺らせたとしたら、その時点で気づけたかもなのに。

 いや、反省は後だ。

 今できることを……魔法代償を集中してみる……いける!

 体は麻痺しても、脳が無事なら魔法もいけるのかも。


 目の前のそいつは、ようやく俺の股間から離れる。

 痴漢だか痴女だか知らねぇが、次に触ってきやがったら、魔法をぶっ放してやる!


 カエルレウム様は、魔法は誰でも使えるって言っていた。

 魔法代償を集める訓練をしていないから寿命を大量に消費する、とも。

 俺は魔法代償を集めることはできている。

 じゃああとは魔法を使うだけだよな?

 一般人が使えるってことはさ……きっとその方法はシンプルなはず。


 相手の寿命の渦が、息遣いと共に近づいてくる。

 今度は顔の方へ……魔法代償を集中した場所ならどこからでも魔法は使えるんだよな?

 相手の動きに合わせて顔のあたりに魔法代償を一ディエス分、集めて……思いだす。

 使おうとした魔法に対して最低限の魔法代償が足りなかったら、追加魔法代償が発生するって話。

 しかも追加魔法代償は絞ることができない。寿命をごっそり持ってゆかれる。

 じゃあ、ちょっと多めに三ディエス分!


 とか集中していたら、シャツが引っ張りあげられる。

 そっちか、と集中した魔法代償を移動させようとした瞬間、二つの柔らかい火照ったモノが押し当てられた。

 これって……アレだよな? ……痴女?

 一瞬、そちらへ思考を奪われる。

 その隙に、俺は唇を奪われた。


 口の中へ、染み出してくる強烈に甘い臭いの液体。

 これか? これがヤバいクスリなのか?

 でもさ、お前が俺に触れているってことは、俺もお前に触れているってことなんだよ。

 俺は、三ディエス分の魔法代償を唇に移動させ、渾身の念をこめて『ぶん殴る』イメージで魔法代償を消費した。


 音も光もない。

 魔法陣みたいなのが現れる派手なモーションもなければ、反動も何もない。

 ただ、集めた魔法代償が消費された、という実感だけが俺の心に残っただけ。

 パン、と弾かれる音が聞こえたのと同時、俺の体から、人ひとり分の重さが遠のいた。

 痴女の寿命の渦が吹っ飛んで離れて、よろけているのが見える。


 やった! ……のはいいけれど、俺の体は動かないまま。

 魔法で自分の体を動かすのってどうやんのかな。

 今のうちになんとか体勢を整え直したいんだけどさ……体はどんどん動かなくなってゆく。

 意識や感覚は残っているのに……金縛りみたいだな。


 とにかくもう一発分、今度も三ディエス分。

 寿命を三日分消費するのなんて、ここで死ぬかもしれないって考えたらどってことない。

 次に触れてきた所から、魔法で殴ってやっ……なんだ?


 俺が居た地面が、突然大きく揺れた。

 いや、ここ地面じゃなくて、獣の毛皮の中だっけ……とにかく俺は激しく揺さぶられ、強い力で弾き飛ばされた。


 肩から固いモノにぶち当たり、同時に肘と後頭部、尻にも衝撃を受ける。

 響く痛みの隙間から、ひんやりとした固さを感じとる。

 洞窟の床? 岩?


 状況は把握したけれど、ただ逃げるにせよ戦うにせよ、体がこの状態では選択肢はそう多くない。

 しかも今、せっかく絞り込んだ魔法代償、投げ飛ばされた拍子に無駄にうっかり手放してしまった。

 俺の三日分の寿命を……クソ痴女獣野郎のせいでな!

 まだ動けないのか……ふざけやがって。


 なんだ? アイツは……アイツの寿命の渦は……さっきの場所から動かない?

 今のうちにできること……この体は治せないのか?

 今度は二ディエス分の魔法代償を集中して……『治れ』というイメージを強く念じる。


 魔法代償を消費した感覚があり……特に何か起きたという気はしない。

 失敗なのか? それとも、二ディエスでは足りないのか?

 いや、鼓動が、ゆっくりになりかけていた鼓動が、普通のリズムを取り戻しかけている。

 二ディエスで心臓だけ治した?

 全身動くようになるのにどれだけ必要なんだよ。


 うわ、マジか……アイツ、もう動き始めた。

 こっちに向かってくる……なまじ感覚が、意識が、残っているだけに、体を動かせないというこの絶望的な状況が恐怖を呼び覚ます。

 体……こ、呼吸が、苦し……やべぇ。肺か……肺を。

 股間と同じくらい、肺がまったく動かなくなる。

 霞んでゆく意識の中、大きな流れ星を見た。




 気がつくと、舐められていた。

 顔を。

 マドハトに。

 ……俺は……生きているのか?


 ほわん、と、喉のあたりから体中へ、温かいものが波紋のように広がってゆく。

 カエルレウム様の手が、俺の首に添えられている。

 その指先に魔法代償が溜まるのが見え、それがまた温かいものへと変わり、俺の全身へと広がる。

 なんだこれ温泉みたいに温まる……やけに気持ちいい……体の自由を取り戻せている感覚。

 呼吸もできるようになっている!

 俺の体が、生き物としての機能を取り戻してゆくのを感じる。


「……か……えるれ……ウムさ、ま」


 口も少しずつ動く!


「運が良かったな。伝染していたおかげで君は助かったのだぞ。パイアの要求に答えて精を提供していたら、今頃君は貪り喰われていたところだ」


「……パ、イ、ア?」


「ああ。もともとは異世界に住む魔物だ。普段の見た目は猪だし行動も猪そのものだがな、発情期になると猪の皮を脱ぎ、獣種の女の姿で獣種の男を誑かし交尾する。子種を授かった後のパイアは凶悪だ。種付けをさせた男も、周囲のありとあらゆる生命も、子の栄養とすべく貪欲に喰い殺して回る。ストウ村もゴド村も妊娠した一匹のパイアに全員喰い殺されかねない」


 なんだその凶悪な魔物は……背筋がゾッとする。

 確かに呪詛にかかってなかったら、俺は貞操と生命と両方ともあっけなく奪われていただろうし、村の人たちだって……。

 それともう一箇所、妙にゾッというかスースーというか……俺は全身に力を入れて、なんとか起き上がる。


「な……」


 なんで、と言おうとしたんだ。

 でも絶句してしまった。

 俺の下半身が月明かりに照らされていたから。


 カエルレウム様の家を囲んでそそり立つキノコの一つに俺は寝かされていた。

 その俺の右手にはマドハトがしがみつき、相変わらず俺の顔を舐めまくっている。

 だらしなくさらけ出された下半身の真ん前にはルブルムが顔を近づけ、俺の股間をじっと観察しているようにも見える。

 カエルレウム様はそんな二人にはおかまいなく、俺の体の……治療をしてくださっているんだよね?


 俺は慌てて下半身をしまう。

 腰紐は見つからないので両手でぎゅっと押さえてみる。

 ルブルムはずっと無表情を貫いたまま、今度は俺の顔を見つめる。


「もっと見せてくれないか?」


 なんだ?

 何言ってるんだコイツ。

 パイアとかいう魔物だけじゃなく、ルブルムも痴女なのか?






● 主な登場者


利照トシテル/リテル

 利照として日本で生き、十五歳の誕生日に熱が出て意識を失うまでの記憶を、同様に十五歳の誕生日に熱を出して寝込んでいたリテルとして取り戻す。

 ただ、体も記憶もリテルなのに、自意識は利照のまま。

 ケティとの初体験チャンスに戸惑っているときに、頭痛と共に不能となった。猿種マンッ

 魔女の家に来る途中で瀕死のゴブリンをうっかり拾い、そのままうっかり魔法講義を聞き、さらにはうっかり魔物にさらわれた。

 でも呪詛による不能のおかげで助かった。魔術特異症。


・マドハト

 赤ん坊のときに取り換え子の被害に遭い、ゴブリン魔術師として育った。犬種アヌビスッの先祖返り。

 今は本来の体を取り戻している。

 ゴブリンの時に瀕死状態だった自分を助けてくれたリテルに懐き、やたら顔を舐めたがる。


・カエルレウム様

 寄らずの森に二百年ほど住んでいる、青い長髪の魔女。猿種マンッ

 肉体の成長を止めているため見た目は若い美人で、家では無防備な格好をしている。

 お出かけ用の服は鮮やかな青で揃えている。

 寄らずの森のゴブリンが増えすぎないよう、繁殖を制限する呪詛をかけた張本人。

 リテルに魔法を教え始めた。


・ルブルム

 魔女の使いの赤髪で無表情の美少女。リテルと同い年くらい。猿種マンッ

 リテルの中でルブルム痴女疑惑が急浮上。


・パイア

 猪の皮を被った魔物。中身は獣種の女性に似ていて、繁殖のために獣種の男を誑かして交尾する。

 交尾が済むと、子の栄養のため、攫った男も周囲の生命も喰らい尽くす。

 リテルは不能の呪詛がかかっていたため貞操を守り通せた。

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